日も傾いた頃、駆ける騎馬が王都の端へと差し掛かる。美しき都と称えられたこともある、区画立てられた街路は、今は見る影もない。空気までもが重苦しく、まとわりつく。ヴォルフラムはやや焦っていた。王国軍の残党が決起したという話を聞いたからだった。無謀だ。人は訓練次第で魔物を蹴散らす程度は出来るかも知れないが、魔人を倒すことは成らない。人の武器は魔人には通用しないのだ。そのための覇王の剣であり、そのための境界連結だった。魔人殺しは人の技では敵わない。しかしそれもいささか遅きに失したようで、道すがら既に事切れた人馬が散乱している有様だった。人の軍団が、魔王一人に為す術もなく破られたことさえ忘れてしまったらしい。救いがたく愚鈍な連中だった。 ヴォルフラムは駆け足を止めさせ、馬を歩かせた。 「平気か?」 「…ん。平気」 胸の内にレウラがいた。着いていくと言って聞かなかったのだ。背中をヴォルフラムに預け、その手は手綱を握る彼の手に添えられていた。効き目の薄い手当のまじないでも、時間を掛ければ効果は出るだろうと。 必要ないと突き放したヴォルフラムに対して、レウラは、またどこかに行ってしまいそうだと涙ぐんだ。ヴォルフラムは自分の甘さを呪った。 やがて、王国軍人への懸念をすっかり忘れてしまうと、ヴォルフラムは相変わらずの小心さに支配されようとしていた。王城に座して魔人らを呼び出したのは、ベリナスと呼ばれる魔神だということは、何度か耳にしていた。魔神が単純に魔人の上となると、覇王の剣が通用するのかすら疑わしかった。 魔物に対する恐怖を拭うために武芸を極め、仙道にまで身を投じたというのに、ヴォルフラムの本質にある軟弱さは何ら変質していなかった。抑え込めるようになっただけだ。平然を装ってみても、本心は恐怖に震える。意図せず歯の根が鳴る。霊験あらたかな装具に身を包んでいた時でさえ、心の弱さまでは覆えていなかった。 それが今はさほどではなかった。腕の中に人がいる。守らなければならないと思う。ただそれだけだった。何と単純なことか。今までの鍛錬の日々は何だったのかと、ヴォルフラムは自問を通り越してただ呆れ果てた。師の知るところとなれば、破門されかねない俗物ぶりだった。 「ヴォルフラム、前…」 「ああ」 指摘される前から気付いていた。進路に雄牛の頭の魔人がいる。巨大な体躯の腕に、悪趣味な斧を血に濡らしていた。レウラに伏せているように言い、馬を走らせながら覇王の剣を抜く。すれ違いざまに叩き斬った。少し過ぎたところで手綱を引いて振り向かせると、様子を見た。蠢いた傷が繋がり、当然のように立ち上がった。人造剣ならかすり傷のみに終わる魔人の肉体をも易々と切り裂く霊剣だが、その程度で魔人は死にはしなかった。 騒音を聞きつけたか、影が差した。鳥のような翼と爪の魔人だった。鳥翼魔人と牛頭魔人はそれぞれ金属をこすり合わせたような鳴き声を上げる。人語を解さない低脳の魔人だったが、無闇な生命力に遜色はない。 分の悪い状況だった。流石のヴォルフラムも、複数の魔人に同時に掛かられたことは無い。今さらになって、レウラは縛り付けてでも置いてくるべきだったと思った。 「しばらく顔を上げるな」 「…ん」 急降下した鳥翼魔人の爪を覇王の剣で防ぐ。駆ける馬に追いすがる牛頭魔人が打ち付ける斧の連撃をいなす。そのたびに甲高い金属音と火花が上がった。片手ではもたなくなったヴォルフラムは手綱を口に銜え、軍用コートを翻しながらも両手で掴んだ覇王の剣で、牛頭魔人の斧を大きく弾いた。姿勢を崩す牛頭魔人を傍目に、返す刃で鳥翼魔人を薙ぎ払う。牽制にしかならず、さらに執拗に襲い掛かってくる。 牛頭魔人の斧がついに馬の脚を狙う様が見えた。ヴォルフラムは馬の腹を蹴り、銜えた手綱を引く。馬は騎手の意を解したように大きく跳躍した。機を見たヴォルフラムは敏捷な動作で覇王の剣を高く放り投げ、掌をそれぞれの魔人へと叩き付ける。絶妙の境界連結だった。着地した慣性で数歩進む馬上で、ヴォルフラムの背の皮鞘に覇王の剣が刺さった。 振り返ったヴォルフラムは驚愕することとなった。平然と姿を保った牛頭魔人と鳥翼魔人とを目にして、ヴォルフラムは馬を走らせた。決め手が通じないとなれば、相手にするのも煩わしい。 「…どうしたの?」 「境界連結が仕損じた。こんな時に…」 「どういうこと? 本当に効果がなかったの?」 「手順は間違えるはずがない。だが妙な手応えだった。雑魚を引いたような…」 「……ッ!?」 レウラが息を呑む。二人の乗る馬のすぐ横に、馬面が並んでいた。ただし頭の位置が高い。馬面の馬脚魔人が二足で併走していた。嘲るような鳴き声を上げるそれを、ヴォルフラムは一刀で斬り伏せた。崩れた魔人はすぐさま視界から消える。王都の一角だけに、どれだけ魔人がうろついているというのだ。 レウラは落ち着いてからもしばらく考え込んでいたが、恐る恐ると言った様子で話し掛けた。 「境界連結は、簡易召喚みたいなものなのよね?」 「ああ、魔人の本質を引き出すだけだ」 「それじゃあ、もう既に本質が現れているとしたら、辻褄が合わない?」 「そうかも知れないが…いや、連中の本質は霊素に弱い。境界連結が仕損じたと考える方が妥当だ」 「このあたり、巡りが悪いわ。障気の影響で霊素が薄くなっていても不思議じゃない」 「そうか。…そうだな」 確かに、霊素が薄くなっていれば魔人は現界に現れても平気なのだと考えれば理解は早い。障気の濃い王都から外に魔人があまり出ない理由にも納得が行く。しかし、それが結論だとしても、境界連結が奥の手でなくなった以外の収穫はなかった。後はゼアスハルトで細切りにするしかない。魔人を皆殺しにするにしても手間が掛かって仕様がない、ひとまずは魔神の元へ向かうのが先決だろうか。 確証は全くなかったが、恐らくはベリナスと呼ばれている魔神こそが、オスヴァルト王という推測でまず間違いないだろう。願望を叶えると言う、魔神環に願うことでオスヴァルトが魔神へと転生し、同時に各拠点を占拠するだけの魔人を呼び出した。脚本としては単純だが、辻褄は合う。 ベリナスを仕留める前に、王国の惨状の元となったオスヴァルトに、事の発端から聞き質さなければ収まりがつかない。 そのためには、これからどれだけいるか分からない魔人をくぐり抜けて王城まで辿り着かなければならないのだが、頼りとしなければならない馬は、息も絶え絶えと言った様子だった。ドスタル平原から駆け通しなのだから無理もない。 通りの奥、家屋の上で何かが瞬いた。察したヴォルフラムはレウラを抱え上げて、馬上から身を翻した。後には、街路に突き立つ槍状の鉄塊と、貫かれた馬が残った。またしても魔人の所行だ。 遠距離で狙われないように横の通りに入ったところで、鳥翼魔人に追いつかれた。数が増えている。 「お仲間も到着かい。随分なお持てなしだ」 「ヴォルフラム、御免なさい、私が…」 「言うな。心配ない、掴まってろ」 言って、ヴォルフラムは左腕でレウラを抱え直すと、片手で覇王の剣を構えた。先の角から、人間大の直立した蜥蜴のような魔人が現れたのが見えた。まだいると考えて間違いないだろう。正念場だった。 ヴォルフラムは駆け出した。魔人の動きは、人間ほど洗練されていなかった。ヴォルフラムの読み通りに、大振りに振る覇王の剣に、吸い込まれるように魔人は進み出てくる。両断され、あるいは脚部に当たるであろう部位を切断され、穴の空いた魔人の包囲から抜けるように飛び出す。また穴を埋めるように進み出る魔人を覇王の剣が斬って捨てる。繰り返しだった。 魔人にも心の臓に似たものはある。その器官が損傷すれば、絶命してしまうような急所が。しかし、その部位は尋常の動物とはかけ離れていた。頭部か胸部か、はたまた枝葉末節に収まっているのか、まるで見当が付かなかった。ヴォルフラムは決め手を持たないまま、覇王の剣を振るい続けるしかなかった。 踊るように回転した力をそのまま腕に乗せ、覇王の剣が走る。蜥蜴魔人が斬り伏せられ、凡常な蜥蜴がそうであるように、街路に張り付く。鳥翼魔人が翼を斬られ、狂ったような蛇行を見せた挙げ句、民家に窓から飛び込む。それらの末路を確認することもなくヴォルフラムは走り続けた。既に王城がどの方向にあるかすら見失っていた。首に回された腕だけが、ヴォルフラムの意識を繋ぎ止めていた。 それを半刻も続けた頃だ、駆ける足下に己のものではない影が走った。何かと疑った次の瞬間には、煉瓦敷きの街路が顎門を開いた。たまらず飛び退いたヴォルフラムは、民家の塀を足掛かりに、屋根上へと駆け上がった。 魔人の暴挙は無軌道にも程がある。眼下をひとまず捨て置いて、前方に構える魔人に目をやった。人型だが、甲虫のような鞘翅を震わせて滞空し、節くれ立った全身の要所を殻が覆っている。ヴォルフラムが構えるのを待っていたかのように、甲虫魔人は空中を駆けた。反射的に覇王の剣の剣先を下にして肩に構えた。何らかの攻撃を防いだ刀身に衝撃が走った。 レウラの悲鳴を耳にしながら体勢を立て直して見れば、そこに依然として甲虫魔人は腕を組んで滞空している。高速移動だった。 「…後ろ!」 レウラが言う。 全く、甲虫魔人に気を取られ過ぎていた。槍状、あるいは月輪、あるいはそのもの塊といった鉄塊が立て続けに飛来する。避けられないものだけ切り払って、ひとまずの驚異である甲虫魔人へと向き直った。 甲虫魔人が何か合図をするように手を上げた。鉄塊の飛来は止んでいた。代わりにボロ布のような魔人が舞い、風が吹く。板葺きの屋根に覇王の剣を突き立て、姿勢を低くしてやり過ごそうとするが、それはやはり常の風ではなかった。魔力を孕んだ狂風は、物質的な障害を無視して臓腑に直に吹き付け、脳髄を揺らした。視界が暗くなる。ゼアスハルトが無力化した余波でさえそれだった。 レウラが血を吐く。ヴォルフラムが名を呼ぶが、既に視点は定まっていなかった。 ヴォルフラムは忘れていた。魔力風に吹かれる人間は、荒波に揺られる木片と同じだ。何の抵抗も出来ずに呑まれ、沈んでしまう。レウラの纏う法衣など、気休めにもなっていなかった。 「……ヴォルフラム…無事…?」 首に回されていたレウラの右腕が、ヴォルフラムの頬に触れる。常人の域を超えたヴォルフラムの知覚が、レウラから零れる生命を捉えていた。 人に魂のようなものがあったとして、それが天に昇る様など、ヴォルフラムは目にしたことがなかった。ただ零れ落ちて、後には吹き消されたような残り火がただようだけなのだ。 「良かった…」 人の心配をしている場合じゃないだろうが。言おうとするヴォルフラムの喉からは声が出ない。それが風に掻き消されたからなのか、本人にも分からなかった。
ヴォルフラムはレウラとの出会いのことを覚えている。 もう二十年も前になる。王国領南部紛争の頃、行商人に拾われた女児が、ヴィントの住人に預けられたのだ。物心付いた頃だったヴォルフラムは、お前と似たような境遇だと聞かされた。 孤児が珍しい地域だったため、ヴィントも例に漏れず孤児を扱う施設はなかった。レウラはヴォルフラムと同じ、子のない夫婦に預けられた。兄妹のようなものだった。 貧しいことを気に掛けない娘だった。寒空の水拭きも、酷暑の耕作も、苦と思わなかった。神子に選ばれたのは、その人柄が大きかったのかも知れない。 そのレウラが周囲を驚かせたことは一度だけだ。剣を修めていたヴォルフラムが冒険者の目に留まり、誘われたので町を出ることにしたといった際に、レウラが同行したいと言ったのだ。誰もが危険だと思ったが、我が儘など言ったことがなかったレウラが言い出したことを止めてやりたくないとも思っていた。結局、この時の真意を、ヴォルフラムは聞かずじまいだったのだが。 伝説の装具を探し求めるという、その冒険の最中でも、レウラは努めて邪魔にならないようにした。まめが潰れる程度では平然としていた。しかし無理はしなかった。レウラが申し出る休息のおかげで、道中落伍者が出なかったと言っても過言ではなかった。意地を張る連中だったのだ。照れ隠しのように、冗談交じりに皆感謝していた。 そして精霊との交渉に最も貢献したのも彼女だった。水の巡りが悪いと訴える精霊のために簡易な神殿を造り、暴れ回りたいと荒ぶる精霊をなだめ、囚われの精霊に呼びかけて目覚めさせたこともあった。伝説の装具は彼女に与えられたようなものだった。魔術の才能こそなかったが、そもそも彼女には魔術など必要なかった。 誰も見つけることすら出来なかった装具が全て揃った折、唐突に誰からともなく、もっと何か手に入れたいものはないかという話になった。玉座だの、無敵の軍隊だの、永遠の若さだのと、ふざけた話が飛び交う中で、ずっと皆で旅を続けたいと言ったレウラは、表向き大きな反感を買った。死にかけたことも一度や二度ではないのだというのが理由だ。しかし、皆の本心を代弁することがレウラの役目のようになっていた。 振り返ってみれば、その人生には堪え忍ぶことばかりでろくなことがない。しかしこれからだ。これから、幸せにならなければならない。ヴォルフラムはそう思っていた。 そんな娘が、なぜ今、自分の腕の中で息を引き取ろうとしているのか、ヴォルフラムにはまるで理解できなかった。 血を吐いて涙を漏らしながら、自らを抱くようにした者の名を一度呟いた女は弱々しく微笑んで、薄目のまま呼吸を忘れた。 ヴォルフラムは狂したように声を張り上げて、何もかも虚構なのだと叫びたくなった。だが状況がそれを許さなかった。 舞い踊るボロ布の数が増え、命のみを喰らう魔力を帯びた風がさらに強く吹き荒んだ。 ヴォルフラムはレウラの身体を下ろすと、突き立った覇王の剣の柄頭に手を掛けた。その刀身には、喉朽葉鳥が羽ばたいている。今さら一体どこに帰れと云うのか。 覇王の剣から、太陽鋼の色が漏れ出すように輝きが流れた。刀身が白熱する。制限するところのない、ゼアスハルトの完全な顕現だった。熱を受けた板葺きの屋根が火を吹いて燃え上がった。 ゼアスハルトから噴き出した破滅は、俄然勢いを増す狂風の術式へ片端から噛み付いて喰い荒らした。魔力風は、尻尾を掴まれた蛇が身をよじるように、ねじ曲げられていった。 軍用コートを風に嬲られながら、ヴォルフラムは立ち上がった。柄頭に両の手を乗せて見渡せば、目の届く限り魔人の群れだった。たった一体で人の軍勢を軽々と壊滅させて見せる魔人が、色取り取りのウジ虫の様相で蠢いていた。視界に入るだけでも三桁は軽く越える。一体誰が、これだけの魔人の存在を予見し得ただろう。 ついに陽光の落ちた薄闇の中、蠕動する魔人の群衆は人の世の終焉を思わせる眺望だ。 ゼアスハルトの輝きを目指すように十重二十重に取り囲む百鬼衆魔を前にして、ヴォルフラムは煮え返る胸裏を抑えもせずに吐き捨てた。 「絶望しろ、背天の信徒ども。貴様らの明日は墓の下だ」
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