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作品名:銀狼 作者:たけしげ

最終回   6
 6.
 デベス王国時間で、今は午前4時である。
 普通の人なら、ベッドの中でヌクヌクと安眠を貪っている時間である。
 だが、ラクシャーサはまるで、真昼のような忙しさである。
 機械類に電気を流し込み、今まで使う事のなかった武器/防御装置までに電流が流されている。
 ラクシャーサの黒い巨体が、放電で輝き始めるのではないかと思えるほど、発電機はフル回転していた。
 ここ、人形兵器用の格納庫も例外に漏れず、騒乱の巷と化している。
 広大な格納庫を、様々なロボットが飛び交う。
 資材を持ったもの。人形兵器の点検をするもの………それらすべてをベルが一人で仕切っていた。
 だが、ここにはベル一人しかいない、という訳ではない。
 奥の小部屋に、3人の男女が固まり、何か話し合いをしていた。
 3人とは、テス、ラフィス、クフィの事であり、テスが宙に浮く立体画像の内容について二人に説明している。
「この4重の障壁を突破するわけだが、一つ目と二つ目はラクシャーサの主砲が破壊する。3つ目はクリッツアで、4つ目もクリッツアだが、この4つ目の障壁は、クリッツアの球砲でも一時的にしか破壊できない。そこで、俺とラフィスが一時的に開いた穴を通って中へ入り、地下の発電所をフィフの球砲で破壊する。それで俺等の役目は終わりだ。分かったか?」
 テスの説明に、二人は無言で頷いた。
「質問は?」
 この期に及んで、質問のない事は分かっていたが、一応聞いてみる。
 ない、と二人揃って答える。
 彼等全員、この手のプロフェッショナルであったが、やはり出撃前は緊張する。人形兵器に乗り、戦闘になれば、緊張感なぞ吹き飛んでしまうのだが、それまではどう足掻こうと、新兵と同じようにビビッてしまうのだ。
 テスは苦笑した。
 この緊張は、彼をどうしようもなく不安にさせるのである。
 新兵の様に。
 彼自身、何十回と人形兵器に乗って戦闘を繰り返しているが、これだけは慣れる事が出来ないでいる。
 彼にとっては、恥じるべき行為だったが、逆にこの緊張からくる新鮮さが好きだった。
 故にテスは、苦笑せざるを得ないのだ。
 LuLuLuLu………
 電話が鳴る。
 テスがそれに答えた。
「はい、テスです」
「テスか」
 電話の相手は、船長だった。
 という事は………テスはゴクリと唾を呑む。
「先ほど、革命軍が王都へ向かって突撃を開始したと、連絡がきた。我々も作戦実行に移る。用意をしてくれ」
 やけに呑気な口調だった。
 船長はテス等よりも、もっと多くの戦場を駆け巡った人である。故にテスよりも、呑気であっても不思議ではないのだが、テスはこの一面において、船長を尊敬していた。
「分かりました」
「頑張れよ」
 と言い、船長は通話を切る。
 テスは、ラフィスとクフィに無言で合図する。二人はすぐに小屋を飛び出し、自分の人形兵器へ向かう。
 テスも遅れじと、それに続いた。
 テスが自分の人形兵器ソルの足元に置いてある、シートに着いた頃には、二人は既に自分の機体に乗り込んでいた。
 ラフィスは、テスの左隣のソルに良く似たフィフに。
 クフィは二人のすぐ後ろの、黒色の巨人クリッツアに乗った。
 テスはシートに腰掛けると、肘掛のボタン群のひとつを押し、シートを上昇させる。シートは、鈍い銀色に光るソルの胸の中へ入って行く。
 軽いショックと共に、シートはソルの胸の中で固定される。
 テスはもうひとつのボタンを押す。
 すると、テスとシートを入れるために大きく上下左右に開いていた胸部装甲が閉まり、完全にソルの中に閉じ込められた。
 だが、すぐにまわりの発光パネルが光り、明るくなる。
 テスはまたボタンを押す。
 とたんに彼の身体は、上から降りてきた装甲で、シートに座ったまま固定されてしまう。彼はシートの形をした二枚貝に閉じ込められたようなものである。
 この身体の固定と同時に、彼の脳髄は彼の身体への命令を止め、その代わりに、この人形兵器ソルへ命令を伝え始めた。
 ようするに彼は、ソルそのものと化してしまったのだ。
 ソルの金属の四肢が彼の四肢となり、目はソルの視覚センサへ、耳はソルの聴覚センサへと繋がっていった。
 テスは五感のすべてが、ソルそのものと化した事を確認し、満足する。
 さっそく、身体を解す。
 身長8m弱の人形兵器が、まるで人のように動き始める。
 3体ともである。
 まわりで、この光景に見慣れない者が見れば、さぞかし不気味な光景に見えるだろう。
 とても人とは思えないものが、まるで人のようにスムーズに動いているのである。
 不気味に思わぬ者が、おろうか?
 だが、傍らでこの光景を見守るベルは、とても満足していた。
 彼は自分の整備した人形兵器が、淀みなく、軋みひとつなく動く事に満足していた。
 また、彼にとっては、人形兵器がこのように動くのは、至極当然の出来事であった。
 逆にこのように動かない事の方が、彼にとっては不自然に思えるのだ。そして、それは彼の仕事の失敗を意味する。
 故に、彼は今のような動きをしない人形兵器は、出来る事なら見たくないと思っていた。
 やがてベルは未練気な顔をしながら、ここを離れた。彼にもやらねばならぬ仕事がある。
 ベルは、駆け足でここを去った。
「準備いいか?」
 とテスが二人に訊く。
 彼は口で喋るように言ったのだが、自動的に暗号通信となって二人の聴覚システムに届く。
 だが、二人にはテスがいつも発する声のまま、聞き取る事ができた。
「いいよ」
 二人は同時に答える。
 テスは気が引き締まるのを感じた。
 意識してやっているわけではない。
 自然と、人形兵器に乗るとこうなるのだ。
 気が引き締まり、思考力がアップする。
 しかも、何でもやれそうな気がするのだ。
 自分がとてつもなく強く、誰にも負けない力を持った男になったような気がするのである。
 故に、テスは人形兵器に乗るのが好きだった。
 人形兵器の力を借りている事も忘れて………。
 人形兵器はテスにとって、麻薬そのものだった。
 ★
「さて、始めますか」
 と船長は呑気な顔に、笑みを浮かべ、パンとひとつ手を叩く。
 その音は半球状のブリッジにこだまし、3人の心を引き締めた。
 操船手のリン。センサのベティ。武器制御のベル。
 3人の心に、この音は作戦開始の合図として伝わる。
 そして、3人は緊張した。
「リン。船を上昇させて」
 と船長。
 彼は中央の船長席に腰掛け、呑気な顔をしている。他の3人とは、対照的だった。
 他の3人は、緊張に顔を強張らせている。
 それほど大事な仕事が始まろうというのに、彼は呑気に構えていた。
 彼にとって、この仕事は大した事ではないのかもしれない。
 そのように見える。
「了解」
 リンが答え、ラクシャーサがゆっくりと上昇する。
 午前4時。
 陽がゆっくりと東の空に頭を出し始めている。
 キラキラと輝く。
 まるで、海の底から浮かび上がってきたかのごとく。
 その白い輝きを背に受け、ラクシャーサは上昇する。
 ある程度上がったところで、ラクシャーサは船尾上下の翼をピンと立てる。
 朝日をバックに浮かぶその姿は、大気の海に住む魚のようだ。
「船長。管制塔から通信が来ています」
 とベティ。
 船長はまっていましたとばかりに、手前のコンソールボードの受話器を手に取り、回線を繋ぐ。
「はい。ラクシャーサ、船長クリ・フォードです」
 ゆっくりと喋る。
「ラクシャーサか………出港の許可は出していないぞ!」
 と、腹立たしそうな口調で、管制官が怒鳴る。
 それもそうであろう。こんな朝一番に揉め事を起こされたのだ。
 怒るのも当然だな………と船長は心の中で納得し、その原因が自分にある事に気付き、ニヤリと笑う。
「ところで、君は結婚しているのかね?」
 と船長が突拍子もない事を言う。
 管制官は一瞬、呆気にとられて絶句する。
 短い沈黙が続いた。
「な、何を………」
 受話器の向こうの管制官は、明らかに狼狽していた。
「保険に入っているのかね?」
 船長が、その狼狽に追い討ちをかける。
 彼は楽しんでいた。
「ああ………」
 今度は返事が早かった。だが、狼狽の色は消えていない。
 声が消え入りがちである。
 しかし、その消え入りそうな声に、疑念も徐々に混じり始めていた。
 船長の意図する事を、探り始めたようだ。
 船長は、早目に会話を切り上げる事にした。
「そうかい。それはよかった。では、さようなら」
 一方的に通話を切り、武器コンソールのベルの方へ振り向く。
「ベル。ミサイル発射だ」
「了解。一番発射管開きます。目標、記憶完了。発射」
 船長と打ち合わせがしてあったようだ。ベルは、すぐさま準備を完了し、ミサイルを発射する。
 一本のミサイルが、黒い魚体から飛び出し、あっという間に目標に着く。
 爆発の震動が、厚い装甲に囲まれたブリッジにも伝わる。
 あっという間に、空港ターミナルが消滅してしまった。
 立ち昇る煙の下には、コンクリートの残骸しかない。
 ラクシャーサはそれを無視し、なおも上昇を続ける。
 そして、船首を北に向けた。
 その真下にはボス河と共に空港を囲む、テルラント河の巨大な川面が光っていた。
 そして、彼等は王城を視野に捕らえる。
 テルラント河の向こうに、菱形の巨大な城壁。そしてその中央に聳える、王城。しかし、彼等の視野には、王城に助けを請うかのごとく、城壁に寄り添うスラム街が入ってきた。
 城壁の向こうには、貴族等の裕福な家々が立ち並ぶ姿が見える。
 だが城壁一枚隔てたこちら側は、日々の食費にも苦悩する人々の街が広がっていた。密集し、寄り添い、少しでも貴族の生活の恩恵を得るため、こびる人々の群れが。
 船長は、その光景を視野に入れなかった。
 これから彼がする事を考えれば………。
「主砲発射用意」
 船長の命令でベルがラクシャーサの黒い船体から、2本の灰色の筒を両舷に出す。
 全長20mほどのその筒は、中に重力子加速球が入っている。重力子を加速させ、相手に高重力子ビームをぶつけて破壊する兵器である。
 そこから発射される重力子は、とてつもない破壊力を発揮する。
 船長はそれを王城に向けた。
 まわりのスラム街を、そこに住む人々を重力子の余波の巻き添えにすると、分かっているのに………。
 彼は決断した。
 迷ってはいられない。
「発射」
 ベルは主砲発射のボタンを押す。
 2本の筒に貯えられた膨大な電力が、重力子を一気に加速する。
 そして、一瞬の発光と共に、重力子ビームが吐き出された。
 重力子ビームが王城に届くのは、一瞬の事であった。
 だが、城壁のところに王城全体を包む2重の障壁が張られている。
 その電磁障壁が、重力子ビームを受け止める。
 重力子ビームが、重力のボールとなって電磁ネットに絡む。
 人の目には見えない力と力のぶつかり合いである。
 その二つの力は、互いを押し合う。
 押し合い、絡み合う。
 その時に生じる電子が周り一面に散り、スラム街を電子レンジの中に放り込む。
 焼ける街並み。
 こんがりと焼け上がる人間。
 何が起こったのか分からぬうちに、人々は神の食膳へ上がる。
 成す術もなく………あがらう事も出来ずに。
 見えない力の闘いは、一分ほど続き、静かに終りを告げた。
 重力子ビームが、電磁障壁を道連れに消滅したのである。しかも、障壁をつくっていた発動機に過負荷を与え、これを死に至らしめたのである。
 表面をこんがりと焦がした城壁は、その最も大事な守りの道具を失ってしまった。
 これで王城本体までの守りの壁は消えたのだ。
 船長はモニターに黒焦げとなったスラム街を写し、何やら思い悩んだ表情をする。
 だが、すぐに顔を上げ、それを忘れ去ろうとした。
 簡単に忘れられるものではないが………。
「ベル。障壁形成。リン。船を微速前進させろ」
 命令を下す。
 なるべく仕事の事だけを考えるようにしながら………。
「了解」
 二人は同時に答える。
 船長は受話器を取った。
 人形兵器ソル内のテスにつなぐ。
「テス。出撃だ」
「了解」
 テスから短い返事が返ってくる。
 船長は何も言わずに、通話を切った。
 何も言う必要はなかった。
 励ましの言葉も、無事を祈る言葉も………。
 テスが、この作戦の立案者なのだから………。
 責任はすべてテスにある………。
 ★
 テス等3人の人形兵器は、一瞬にして夜明けの空へ踊り出る。
 それぞれ背中の一枚翼の重力制御板を巧みに使い、夜明けの青白い空を駆ける。
 ある程度上昇すると、3体は一塊になって空中に静止した。
 テスは、後方の市街地の方を見る。
 その方には、前方のみすぼらしいスラム街とは打って変わって立派なビル群が立ち並んでいた。そして、もっと向こうの南方には、王国の経済を支える工場群が見える。
 と、
 その工場群から、12個の黒点が上がり、見る見るうちに大きくなる。
 近付いてくる。
 黒点は、黒い人形兵器だった。
 肩と腰に、大きなフットボールを引き伸ばしたような形状のものが付いている。
 それが、特徴だった。
 他に取りたてて大きな特徴はない。だが、性能は………。
 12体の人形兵器は、あっという間に、3体を追い越す。
 そのスピードは、テス等の人形兵器よりも速いかもしれない。
 これが、この黒い人形兵器の性能の面での大きな特徴だった。
 3体は、慌てて後を追う。
 しんがりに付く。
 彼等の前を行く、超スピードで飛ぶ人形兵器の正体は、ラクシャーサが運んだ工作機械である。工作機械と称し、王都に密輸し、トラン重工で組み立てたのだ。革命軍の最後の作戦のために………。
 テスは前方を飛ぶ人形兵器が、ちゃんと動いているのに満足した。
 ほんの3日で組み立てたのだから、少し心配していたのだ。
 人形兵器は精密機械だから、慌てて組み立てて、この戦闘に支障をきたす故障でもされたら、共に戦う彼等はたまったものではない。
 満足に動いているのを見て、ホッと一安心したといった方がいいだろう。
 テス等と12体の人形兵器は、ラクシャーサの主砲が壊した障壁を通り抜け、王国の生命線である王城と向かい合った。
 王城は、小高い丘の上にある。その周りに華麗な造りの貴族の街があるのだが、王城は丘の周囲に壁を張り巡らせているため、その街とも隔離されているのだ。
 そして、その壁にも、また障壁がある。
 突然、丘から砲撃や、ミサイルによる攻撃が始まった。
 革命軍の12体は回避しつつ、手に持った銃やミサイル砲で丘を攻撃する。
 だが、丘の防御陣は堅牢で、容易く沈黙はさせられそうにもなかった。
 もし、ここに王都防衛軍が来たならば、彼等は簡単に捻り潰されただろう。
 王都の外で軍を引き付けている革命軍に、誰もが感謝した。
「クフィ」
 テスが叫ぶ。
 近くにいたクフィのクリッツアが、すぐさま寄ってくる。
「なぁに、テス」
 意外と気楽そうな口調が返ってくる。
 テスは、彼女は緊張しているかと思っていたのだが、流石に傭兵のはしくれである。戦闘が始まれば、リラックスするようだ。
「クフィ。作戦開始だ。球砲で障壁を破壊してくれ」
「分かった。少し時間を頂戴。充電するから」
「ん。ラフィス」
 テスは近くでミサイルと格闘していた、ラフィスのフィフを呼ぶ。
「なんだい?テス」
「クリッツアの球砲を使う。彼女を守るぞ」
「分かった」
 クリッツアは額に、戦艦の主砲並の球砲を持つ。
 これが、テス等の人形兵器の最大の特徴であった。
 通常の人形兵器には球砲は装備されていない。
 球砲で重力子を加速させるには、膨大な電力が必要だからだ。
 激しい戦闘を行う人形兵器には電力の余裕はない。
 だから人形兵器には不向きな兵器なのである。
 だが、テス等の人形兵器にはそれが装備されている。
 この特徴があったからこそ、今回の作戦に雇われたのである。
 だが、クリッツアは球砲を撃つ時、充電のために余計な電力を消費しないよう、動きを止めなければならなかった。
 動かなくなったクフィのクリッツアを、テスとラフィスが必死に守る。
 空中で止まっているのは、最も標的にされやすい。
 故に、テス等の防戦は苦難を伴った。
 自分の障壁が弱くなるのを覚悟で、クリッツアを自らの障壁内に取り込み、襲いかかってくるミサイルを手に持った短機関銃で、片端から落とさねばならぬのだ。
 いくら闘い慣れている二人でも、冷汗の連続だった。
「充電完了」
 クフィから、待ちに待った言葉がやってくる。
 テスは顔を少し綻ばせ、革命軍の12体の人形兵器へ警告を発する。
 球砲の巻き添えを食らわぬためにだ。
 テスの警告で、12体は、一斉に上昇する。
「よし、クフィ、撃て!」
 とテスが言うや否や、まわりがまるで夜に戻ってしまったかと思えるほどの、暗闇に包まれる。
 それは王城を取り巻く城壁で、とてつもない輝きを発する球体があったからだ。
 あまりの輝き故に、周囲の光りを食ってしまったからである。
 この球体の正体は、クリッツアの球砲から放たれた、重力子であった。
 それが王城の障壁にぶつかり、あの輝きを発したのである。
 クリッツアの重力ボールが勝利したのか、徐々に光りが、空の青さが戻ってくる。
 だが、依然として暗黒の世界が残っていた。
 それは、王城を取り巻く、貴族の街である。
 今や貴族の街の南側半分は、完全な焦土と化していた。
 先のスラム街と同様に。
「どうだ?!障壁は消えたか?!」
 テスは黒焦げとなった眼下の情景には目もくれず、ソルの機械頭脳に訊く。
 答えは、画像となって返ってきた。
 彼の視野に、障壁が張られている部分だけ、緑色に塗られる。
 障壁は無くなっていた。
 だが、ちょっと向こうを見てみると、王城本体には、まだ障壁が張られている。
 王城本体にへばり付くように張られている障壁は、一目見てもその堅牢さが伺えた。なんといっても、本陣を守る最後の盾なのだから………。
 テスは機械頭脳に命じて、その強度を調べさせた。
 結果はすぐにきた。
 表示された値を一目見て、テスは絶句した。
 予想以上の強度だったのだ。
 だが、ここでひるむわけにはいかない………テスはこみ上げる不安を押し退け、意を決した。
 舌打ちをし、とりあえず突撃をかけることにする。
 更に、上空のラクシャーサに援護射撃を求める。
 依然として、王城をのっける丘からは、砲撃が続いていたからだ。
 クリッツアの攻撃で、あれだけ表面を黒焦げにされても、まだ攻撃するだけの力は残っているようだ。
 王城本体の障壁云々よりも、これを排除せねば、彼等は一歩も前進できぬ有様である。
 ラクシャーサからの砲撃が始まった。
 丘の表面にボコボコと無数の大穴が開き、なかから爆発の煙を出す。
 丘からの攻撃はやんだ。
 12体の革命軍は、一斉に王城目掛けて突進する。
 王城からも、反撃の人形兵器が飛び立った。
 近衛兵団のバルディである。
 黒い人形兵器と、赤と白の人形兵器が混じり合う。
 戦力的には、同じに見えた。
 だが、あっという間に、錬度の違いからか、革命軍の人形兵器が3体大破して地上に落ちて行く。
 テスは戦場よりも上空でそれを見て、次の行動へ早く移らねばと、焦った。
 このままでは、革命軍が負けてしまうように思えるからだ。
「クフィ、再充電はまだか?」
 とテスが訊く。
「もう少し。でも、王城の障壁は堅牢そうよ。2体を通り抜けられるほどの大穴が開くかどうか………」
 クフィが自信なさそうに答える。
「だが、ここでおめおめと引き下がるわけにはいくまい。やるしかないだろう」
 断言し、テスは心の中でもう一度自分に言い聞かせた。
 退くわけにはいかない………彼のプライドが叫ぶ。
 それは意地となって、彼を支配した。
「いいわよ。やるわよ、テス」
「やってくれ」
 また周囲が黒ずむ。
 眩しい光球が目の前でちらつき、消え失せる。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 彼等の眼下の戦闘が、ほんの一瞬だけ止む。だが、今回は短かったため、近衛兵団を狼狽させるほどの威力はなかった。
 あまりにも短すぎた。
 それ故テスは、失敗したのか、と一瞬思ってしまった。
 だが、ソルのセンサは、くっきりと王城の障壁に穴が開いている事を示した。
 テスは狂気乱舞したい気分だった。
 だが、早く突入しなければ、この穴とて塞がってしまう。
 徐々に穴が小さくなってゆくのが、テスの目にもはっきりと分かった。
 あまり時間はない。
「ラフィス。行くぞ!」
 と呼びかけ、穴へ突っ込む。
 ラフィスのフィフも、慌てて続く。
 テスを先頭に、2体は猛烈なスピードで、小さな穴目掛けて突っ込む。
 穴が徐々に小さくなっていくが、テスとラフィスはひるまず突進する。
 狂気と思える突進だが、二人には自信があった。長年の経験が二人に、自信を与えているのである。
 その経験の教える通り、二人は間一髪のところで、障壁の中に入れた。
 穴は、二人が入るとすぐさま塞がってしまった。
 障壁の外には、電力の使い過ぎで動きの鈍くなったクリッツアの黒い巨体が、心配そうにこちらを見ていた。
 だが、テスとラフィスは振り返りもせずに、まっしぐらに城内へ降下する。
 壮大な石造りの屋敷の塊まりのように見える王城本体を、ザッと見渡し、着陸地点を探した。
 ついでに、敵の姿も捜す。
 だが、まだ敵の姿は見えない。
 近衛兵団は、外の革命軍の相手をするだけで精一杯のようだ。
 テスは希望がわいてきた。
 そうこうするうちに、目標とする庭園が見つかる。
 テスとラフィスは、その中央に鎮座する、石造りの噴水の傍らに着地した。
 地盤が固いらしく、二人はバランスを崩さずに着地する事ができた。また、この事はこの下に、彼等の目指すモノがあるという証拠でもある。
「ラフィス。この下だ」
 ソルが、右手で噴水の下を指差す。
「分かった。すぐに片付ける」
 とラフィスは答え、左肩の球砲を露出させる。
 球形の大きな左肩の中に見える、球砲が輝き始める。
 クリッツアの時と同じように、少し時間がかかりそうだ。
 テスはやきもきしながらも、あたりを警戒する。
 ラフィスの球砲で、地下の発電施設を破壊するまで、彼を守らなければならない。しかも、たった一体で。
 敵が来ないように祈るが、どだい無理な願いだった。
 自らの本拠地を襲われ、守りに来ないものなどいない。
 2体の人形兵器が、障壁に穴を開けてもらい、こちらへ突進してくる姿が、見えた。
 赤と白に塗られた、近衛兵団の人形兵器バルディだ。
 一瞬こちらに銃を向けるが、発砲はしない。
 どうやら、城内での発砲は、禁じられているようだ。
 テスはそれをいいことに、ドンドン撃ちまくった。
 雨あられと、敵目掛けて弾丸を食らわす。
 城の障壁が流れ弾に当たり、発光するぐらい撃ちまくる。
 そのかいあってか、1機を見事に撃墜。
 しかし、残る1機は、雨あられの銃弾をかいくぐって、テスの前に着地する。
 すぐさま、腰の剣を抜き、斬りかかってきた。
 テスは、ソルの肘からぶら下がっている刃で、それを受け止める。
 相手の胴が、テスの眼前にさらけ出された。
 しかも、相手は両手で剣を持っているが、テスは右肘だけで剣を受け止め、左手に持ち替えていた短機関銃は自由である。
 このチャンスを逃す術はない。
 テスは弾倉ありったけの弾丸を、相手の胸、コクピットへ叩き込んだ。
 鳥の頭を模した胸部に、穴がぼこぼこ空き、火を吹く。
 テスはそれを見て取り、後ろへ飛び退いた。
 バルディは、ゆっくりとテスの方へ倒れ、庭土を抉って沈む。
 ピクリとも動かなくなった。
 テスは溜息をつき、背を伸ばす。
 別に感慨はなかった。
 人を殺す事に慣れているテスにとって、戦闘での殺傷は大した事ではない。
 今は、それよりも。
「ラフィス、まだか!」
 振り返り、叫ぶ。
「ああ、いいよ。充電完了だ」
 ラフィスから、待ちにまった返答が返ってくる。
「やってくれ」
 とテスは言い、背中の重力制御翼を使い、上昇する。
「やるぞ………」
 というラフィスの叫びと共に、フィフの左肩がパッと光る。
 続いてフィフが、彼の傍らまで飛んでくる。
 左肩の球砲はしまいこまれたていた。
 地下発電施設への攻撃は、もう終ったのだ。
 後は結果を見るだけである。
 だが、庭園の噴水と花壇には、表面上何の変化もなかった。
 二人は固唾を飲んで見守る。
 すると、ズズズズ………という地鳴りが聞え、地面が盛り上がったかと思うと、沈下し始める。
 地表では、大揺れの地震が起きているようだ。
 地面が唸り、石造りの建物が次々と崩れ始める。
 庭園は見る影もなく大きな穴と化し、花壇や噴水の石片が剥き出しになった土に埋もれてゆく。
 庭園は単なる裸土の庭に変わろうとしていた。
「やったな、ラフィス」
 テスが成功を喜ぶ。
 ラフィスも喜ぶ。
 彼の放った球砲は、見事地下発電施設を破壊していた。
 その証拠に、城を守っていた最後の障壁が消えてゆく。
「よし。帰投するぞ」
 テスは踵を返し、上昇し始める。
 それにクフィとラフィスの2体の人形兵器が続く。
 彼等の仕事は終ったのだ。
 一人を除いて。
 ★
 テスはラクシャーサの傍らで止まった。
「ラフィス、クフィ。二人は先になかへ入っていてくれ」
「なんで?」
 クフィが反論する。
 彼女はテスの言葉に、何か裏がある事を勘ぐった。
 彼は何かをやろうとしている………。
 クフィはテスの考えを悟り、同行を求めた。
 少しでもテスの役に立ちたい、という心からであった。
 だが、
「駄目だ。クフィには関係ないことだ」
 テスはにべもなく断る。
 断固として連れていかない、という決意がその口調の中にはあった。
 クフィは諦めた。
 ここで無理をいっても、無駄だと知っているからだ。
 テスを怒らす前に、引いた方が利口である。
 後々のために………。
 だから、諦めた。
 だが、南の市街の方へ去るテスのソルは、彼女の目には影の様に見えた。
 寂しい陰の様に。
 ★
 テスは南の市街地を飛び越え、5kmほど先の工場群の上空に入る。
 下には広大な荒地に、家屋や工場がポツンポツンと建っているのが見える。
 その間をハイウェイが、寂しげに一本走っていた。
 テスは遥か遠く、東の山々の方を見た。
 稜線の向こう側から、黒い煙が幾筋も立ち昇っている。
 革命軍と王都守備隊が戦っているようだ。
 だが、今のテスには関係がない。
 また、下を見る。
 トラン重工の看板が見えた。
 そして、その向こうには工場群と貯水池。
 更に向こうに、彼の目標が見えた。
 その近くまで寄る。
 それは森に包まれる、広大な屋敷だった。
 そして、それは………。
「トラン公。悪いが死んでもらう」
 とテスは呟き、左の手の平をその方へ向ける。
「素子球砲発射用意………」
 テスは呟く。
 すると、左の掌の装甲がパックリと開き、中の小さな球砲を露出させる。
 テスは目で、焦点を屋敷の中に定める。
 この素子球砲は、物質の素である素子を加速させ、ある地点で発射した素子を融合させ、大爆発を起こさせる事が出来るのである。
 しかも、ラフィスが王城の地下発電施設を破壊したように、球砲と焦点の間に土があろうと、鉛があろうと関係なく、意のままにお好みの地点で爆発させる事が出来るのである。
 素子は物質の素である。原子よりも小さいため、この様な事が可能なのだ。
 しかも、威力は凄まじい。
 核兵器など目じゃない、といいたげな威力を発揮する。
 使い方によっては、惑星の破壊も可能であった。
 だが、今は出力を最低に落とす。
 テスは王都を丸ごと破壊しようとしているわけではない。
 トラン公とその重工を破壊できればいいのである。
 テスの命を狙い、己の利益を満たそうとしたトラン公を………。
 充電完了のサインが、視野の片隅に出る。
「銀狼の恐ろしさを知れ………」
 テスは呟きを発して、球砲をぶっ放した。
 すぐさま、上昇しラクシャーサのもとへ飛ぶ。
 彼の復讐は完了した。
 ☆
 まるで地面に太陽が落ちたような輝きが起こる。
 灼熱の太陽は、地面を食い荒らす。
 風がそれに驚き、狂ったように大気を裂く。
 それは一瞬の出来事だった。
 だが、幻ではない。
 落ちた太陽は地面を食らい、大穴を開けていた。
 そして、そこにあったものも消えていた。
 ★
 風がようやくおさまった。
 ジェプトはビルの屋上から、テスのやった大虐殺をまた見守っていた。
 今度は前のよりも、規模が大きい。
 工場地帯が丸々、消え失せていた。
 荒地の上の工場群の屋根は消え失せ、ただの荒地となってしまった。
 大きなクレーターになってしまったが………。
 ジェプトは身震いした。
 テスの恐ろしさと、そう仕向けた自分の利己心に。
 だが彼は、反省するのを止めた。
 自分がやった事は、正しいと信ずるしかなかった。
 そう信じ、自分を慰めるしか………。
 ジェプトは自嘲げに笑い、ビルの中へ消えて行く。
 非常階段をゆっくりと下り、一階下の小さな部屋に入った。
 ソファとテーブル。
 そして、テーブルの上のボトルとグラスが2個。
 白い発光パネルが、壁一面に張られ、その光の洪水の中でソファとテーブルは浮いて見えた。
 ソファには一人の男が腰掛けていた。
 30代始めの男で、日に焼けた顔は優しそうな顔付きをしている。
 その上に金髪が、ちょこなんと載っていた。
 だが、その青い瞳は、彼が単なる優男ではないと告げていた。
 男の名はジョエル。
 革命軍のリーダーである。
 そして、トラン公の操り人形だった。
 その男が、同じく公の操り人形たるジェプトと会っていても、何の違和感もなかった。
 同じ穴の狢である。
 ただ、表と裏の操り人形である、という違いでしかない。
 それ故か、顔付きも似ていた。
 若いのか、老けているか、の違いだけである。
 でも、あまりにも似ていた。
「確かに、トラン公は吹き飛んだ」
 とジェプトが言う。
 毒突くかのような口調だった。
 表情も同調する。
「そうか。これで、本当の革命が出来る………」
 ボソッとジョエルは言い、ソファに身を押し付ける。
 プファ、とクッション内の空気が吐き出された。
 まるで、溜息の如く。
「そうだな、兄貴」
 とジェプト。
 二人は兄弟であったようだ。
 これで顔付きが似ているのも、説明がつく。
「あんたの長年の夢が、遂に叶うわけだ………」
 とジェプトは言い、ジョエルに対面するソファに腰掛ける。
 また、溜息の如き空気が吐き出された。
「お前の夢もな」
 とジョエル。
「トラン公と一緒に、お前の大ボスも居たんだろう………」
 ジェプトは笑顔でそれに答えた。
 彼の本心を見事に貫かれた感じだった。
 皮肉な笑いが、心の奥底から湧き出る。
 はかない、惰性的な笑いだった。
「………しかし、テスはよくやってくれたよ。政府の要人のみならず、シンジケートの大半のボス連中まで殺してくれたんだからな………」
 そして、もっと多くの無実の人々をも殺してくれた………ジェプトは心の中で、皮肉げにそう続けた。
「これで、すべてが新しくなるわけだ」
 とジョエルが気分を刷新するかのごとく、陽気な声を出す。
 だが、心中は弟と似たりよったりだった。
 これほど多くの人を、殺す必要があったのか………と。
 ジェプトはそんな兄の心境を察したのか、2つのグラスに酒を注ぐ。
 二人は手に手に、グラスを取る。
「新しい世界に」
 とジョエル。
「我等兄弟の栄光と富みに」
 とジェプト。
 二人はそれぞれの言葉にグラスを傾け、すべてを忘れるため、一気に飲み干した。
「テスは我々が仕組んだという事に、気付いていないのか?」
 とジョエルがグラスを戻し、言う。
「気付かれれば、二人とも今頃土の中か、火の中だ」
 ジェプトは兄の心配を一蹴し、空になったグラスに酒を注ぐ。
 彼もこの恐怖に取り憑かれていた。
 テスは諸刃の剣である。
 いつ、逆にこちらが狙われるか分かったものではない。
 しかも、彼等がテスを利用し、自らの利益を潤したと、テスが知りでもしたら………誇り高い[狼の牙]の一員である………確実に二人は………。
 ジェプトは酒水と共に、その考えを飲み下した。
「しかし、恐ろしい男だ」
 しみじみジョエルが言う。
「さすが[狼の牙]と言いたいね………」
 冗談ぽくジョエルが言う。
 コン、コン………
 その時、扉をノックする音が二人の耳に入る。
 二人はビクッと身体を震わし、扉の方を見る。
「誰だ!」
 ジェプトが緊張した声で問う。
「グリです。電報をお届けに参りました」
「入れ」
 長身のグリは、その声と共に入り、手に持った紙切れをジェプトに渡すと、そそくさと立ち去った。
 ジェプトはグリが出るのを待って、紙切れをゆっくりと読む。
 しばらくしてジェプトは目を丸くして、紙切れを何度も読み返していた。
 そして、突然、腹を抱えて笑い出した。
 心の底から笑っていた。
「どうした?」
 弟の様子が気になり、恐る恐る訊く。
 ジェプトはそれに答えず、涙を拭きながら紙切れを兄に渡した。
 その発信元は、ラクシャーサだった。
 そして、紙には………
 ジョエルも笑わずにはいられなかった。
 ★
 ラクシャーサは革命軍が勝利をおさめたデベスの大地を後にし、タイロスの大気の中をグングン上昇する。
 そして、ほんの数時たった今では、ラクシャーサの姿は星系の何処にも見出せなかった。
 今ラクシャーサは、亜空間の中を突っ走っている。
 入国の時と違って、惑星からの出国は大抵、このように楽に出て行けるものである。特に今回のように、国内が騒乱の巷と化している場合は。
 故に、何かを持ち去る(持ち出す)のは、極めて容易な事だった。
 今回ラクシャーサは、一人の若い女性を拉致してきている。
 女性の名は、ヤクシャ。
 元近衛兵団人形兵器隊のパイロットであった。
 彼女は密輸人のテスを追い、逆に捕まってしまったのである。
 だが、今では丸裸でベッドに縛り付けられているわけではない。
 ダブダブの服を着せられ、ベッドにチョコンと座っている。
 肩のところで揃えた黒い髪の中の、青い瞳は、じっと正面を睨んでいた。
 その正面には、テスとクフィが立っている。
 ヤクシャを見下ろすように。
 それに負けじと彼女は、二人を睨み付けているようだ。
「さぁ、どうする?」
 とテスが訊く。
 何度も同じ言葉を繰り返し、疲れているかのようだ。
 隣のクフィも同じである。
「………こうなったら、貴方に責任をとってもらうしかないわよ………」
 投げやりな言い方で答え、テスをキッと睨む。
 すべての責任をテスになすり付けようとするかのごとく。
「………帰る処は無くなり、今や星の海の真っ只中なんでしょう。逃げられないわよ……」
「それでは、この船の船員になる?人手不足なのよ、この船」
 とクフィ。
 ヤクシャは目を伏せ、少し考える仕草をする。
 だが、心は前から決まっていた。
 他に考えられる道はない。だが、簡単に相手の要求を呑むのはしゃくだ………と彼女は思い、今のような態度を取り続けているのである。
「………仕方ないわよね。船員になります」
 キッパリと言い、ニヤッと笑う。
 テスに対してそれは向けられていたが、テスはさっさと目を反らしていた。
 何かを後ろ手に持つ袋から出している。
「それじゃ………」
 と言い、テスはヤクシャの前に紙束を放り投げた。
「この書類にサインしてくれ。それと、パスポート、人形兵器所持許可証にもね。部屋はここを使ってくれ」
 ヤクシャは怪訝そうに紙束を摘み上げる。
「サインするのは、いいけれど、パスポートは何処から持ってきたの?」
 紙束を繰りながら訊く。
「船長が造ったのよ」
 クフィが答える。
「偽物なの?」
「いや、本物だ。王国が発行した最後のパスポートさ」
 とテスが皮肉混じりに答える。
「手際が良すぎる………」
 ヤクシャは訝しがった。
 あまりにも用意周到すぎる………と彼女は不審がった。
 まるで彼女がここに拉致されるのを、3日、いや、もっと前から知っていたかのようである。
 不気味だった。
「船長に言ってくれ………彼がすべてを用意したんだからさ………」
 ヤクシャはテスの言葉を聞きながら、黙ってサインした。
 ここまできてしまったのだから、もう引き返す事は出来ない。
 この船の連中が怪物であっても………。
 すべてにサインする。
 彼女はペンを置くと同時に、彼女がとりあえずどうしてもやりたい事を口に出す事にした。
 これをやらずして、心のわだかまりを捨て去って、船員になれる気がしないのだ。
「ところで、船員になる前に、ひとつだけやらして欲しい事があるの」
「なに?」
 とクフィが訊く。
 テスはそれを無視し、ヤクシャの前の書類を集めている。
 茶色の頭が彼女の前に、上を見せる。
 絶好のチャンスである。
「それは………」
 と言い、思いっきり右手のスナップをきかして、テスの左頬を打つ。
 ピシャッ、という心地よい音が響く。
 書類が宙を舞う。
 テスはあまりにも無防備過ぎて、ベッドの下に転がり倒れてしまった。
 ヤクシャは、とても心が晴れ晴れとしていた。
 今までのすべての仕返しをこの一撃にこめ、しかも相手は彼女の期待どうりに倒れてくれたのである。
 こんな晴れ晴れしい気分はなかった。
 だが、
 テスがスクッと立ち上がる。
 ヤクシャは顔を綻ばせながら、その方を見た。
 それがいけなかったのか、テスの顔が怒りに歪む。
 どうやら嘲笑されていると、思ったようだ。
「駄目!テス」
 クフィが事の重大さに気付き、テスの身体に被さった。
 全身でテスを制止する。
 そうでもしなければ、テスは必ずヤクシャを殴り殺すに違いない。
 クフィは抱き付くようにテスを制止し、少しでも怒りを和らげようと努力する。
 テスが理性を取り戻すまで、暫く時間がかかった。
 だが、クフィの努力のかいあって、テスはおとなしく部屋から出て行ってくれた。
 今は少しでもヤクシャから遠ざけておく必要があった。
 テスは丸一日ぐらいじゃ、怒りを静められない。
 クフィは溜息をつきつつ、ヤクシャのところへ戻る。
 何でこんな事で気苦労しなければならないのか、と思いつつ。
 だが、当の本人ヤクシャは、キョトンとして彼女の方を見ていた。
 何があったのか、よく分かっていない様だ。
 クフィはまた溜息をつき、屈んで床に散らばった書類を集める。
「あの………」
 ヤクシャが声を掛ける。
「なに?」
「あなた、名前なんていうの?」
「クフィよ」
 クフィは立ち上がり、答える。
「よろしくね、クフィさん」
 とヤクシャは言い、ニコッと笑って握手を求める。
 その顔は、テスの事など忘れ去ってしまったかのごとく、ケロッとした表情だった。
「ええ、こちらこそ」
 二人は握手する。
 クフィはヤクシャの肝っ玉の太さと、無神経さに驚き、かつ自分のもとに騒乱の種が投げ込まれた事を悟り、うんざりした気分だった。
 それに反し、ヤクシャは嬉しそうにニコニコしていた。
 クフィは、船長を恨みたくなっていた………。

 おわり


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