吉井和伸は福岡空港のロビーに出た。母親と妹が迎えに来ていた。一年ぶりに見た中学生の妹ひろこはあからさまに身長が伸びていた。となりの母は全く変わってない。いや、少し縮んだかな。 「お兄ちゃんお帰り」 「お帰りなさい、和伸」 二人は口々に僕を歓迎した。僕は疲れていたから最低限の愛想だけ振り撒いて早く帰ろうと急かした。 一年ぶりの日本は狭かった。物理的に道の幅が狭いとか建物に囲まれた感じのせいだろう。車の中でアメリカはどうだった、だの楽しかったかだの予想通りの質問責めにあう。こんな抽象的な質問に答えたところでこいつらは本当に満足するのだろうか……。面倒くさいのでただ良かったよ、とだけ答えた。どうやら満足したようだ。良かった。母は僕が帰ってきて安心しているのか嬉しいのかしばらくぺちゃくちゃと僕のいなかった家庭の話を楽しそうにしていた。片側四車線の道路が工事のせいで少し渋滞していた。しばらく話していると、そうそうと思い出した様に 「明日から学校来て下さいって先生から電話あったよ。寝坊せんようにね」 と言った。 しかし翌朝、和伸はもちろん寝坊した。一時間遅刻して教室に入るとみんなが笑った。そう、僕はいわゆるクラスのムードメーカーとまではいかないまでも、それなりの気遣いと気のきいた冗談で周りを盛り上げる事が出来る奴だ。そんな奴がアメリカ留学を経て一年ぶりにクラスに戻るのだ。しかもいきなり相変わらずの遅刻である。こんなにおいしい事はない。 クラスで最も成績の悪い西口が 「吉井!お前遅刻すんなやー」 と第一声叫んだ。クラスの連中はみんな笑った。僕も一緒に笑っていた。クラスの3ヶ月全員遅刻なしの記録を僕が破ったという事実を知るまでは。一組の生徒は全員が団結して、3ヶ月もの間毎日学校に早起きして頑張ったのに、と一限目の授業をしていた先生に言われた。僕は先生の目を見ずにすいませんとだけ謝った。その時には既に生徒もみんな笑っていなかった。何人かは少しそれに対して怒っているようにも見えた。無論クラスメイトに対して申し訳ないなどという感情は僕には毛頭ない。こいつら本気で3ヶ月も真面目に来たのかよ?何考えてんだ?そもそも言い出したのは誰だ?担任の山崎か?だとしたら何故こいつらはそれに従うんだ? 僕はあれこれ考えながら席に着いた。もちろん久しぶりに会う友達のおかえりと囁く声には笑顔でキチンと答える。 僕はちょっとは期待していた。日本人独特の協調的で周りを思いやる性格は素晴らしいものだ、みんなで力を合わせれば大きな事が成し遂げられる。実際そうだと僕は思う。ところがどうだ。僕は腹の中が気持ち悪くなってきた。どうしよう、吐きそうだ。誰か助けて!僕はいいから僕の周りにいる可哀想な人達を助けてやって下さい!僕は胃の中のものを今にもぶちまけそうなんだが。……でも僕はいい。とにかく早く!助けてやってくれ!僕はいいからっ! 一限目は数学だった。一年ぶりに規則正しく同じ形の机と椅子が整列された部屋で朝からみんな同じ方向を向いている、不思議な景色を後ろから眺めた。とても教壇の上にいる教師という奴の話を聞く気がしない。教師という世間知らずのお嬢様が一方的に何かを伝えようとしている。恐ろしい話だ。社会で最も世間知らずな人種のオッサンとオバサンが未来のある高校生に一番近い所にいる大人だなんて。もし教師の言う事を子供達が信じてしまったらと思うと…、あぁ、また腹が気持ち悪くなってきた。大変だ。 「吉井くん!」 ふと後ろから呼ばれた声に振り返ると 「吉井くん!おかえり!アメリカどうやった?楽しかった?話聞かせてよ!」 またか、と和伸は思ったが彼女の長く少し茶色かかったキレイにセンター分けにされたストレートヘアーと全てを包み込むようなパッチリした目を見て、例え明日世界が終わろうとも留学の話をこの娘にしてやろうと思った。しかし名前が思い出せない…。 「アメリカ凄く良かったよ!最初は戸惑ったけどね!俺の名前とかみんな上手く発音できなくて…、えっと…君名前なんやっけ」 「え〜、ひど〜い!津村だよ」 「津村は分かっとるよ!下の名前ばい」 「あ、ごめん!絵美だよ!」 「絵美かー、それなら英語でも発音しやすいね」 名前を自然に聞き出す事に成功した。我ながらなかなか上手くいった。それにしても津村絵美は可愛い。さっきの笑顔で今夜のおかずは確定した。 そのあとたわいもないことを数分話していたが先生がこっち向いたとかなんとかで結局その日はそれ以上話す事はなかった。
1日の授業が全て終わった。担任の山崎が後で職員室に来いと言ったので、同じクラスで唯一本当に気の合う臼井と二人でそのまま学校を出た。下校中の生徒が沢山歩いている駅までの最短距離の道を避け、大きな湖のある森に囲まれた公園内の細い道に入っていった。しばらく歩いて学校が見えなくなる地点に着いた瞬間、臼井はバッグから、僕は内ポケットから煙草を取り出し火をつけた。一年のブランクがあるとはいえこのタイミングはばっちり寸分の狂いもない、もはや条件反射だ。 「吉井アメリカどうやった?」 煙を垂れ流しながら臼井は話しかけた。 「良かったよ」 僕は初めて留学の感想を話した。質問も一緒、僕の答えも昨日から今日まで何百と答えた言葉と全く一緒だがこれが初めて話した僕の海外留学の感想だ。 「ふ〜ん」 臼井は気のない返事を返した。おそらく僕がアメリカ滞在の一部始終を事細かに三時間語った所で今と同じ返事を返したに違いない。僕のひとことで全てを飲み込んだのか、良かったか悪かったか聞けただけで満足なのだろうか。いや、おそらく自分から聞いておきながら返事など聞いていなかったのだろう。臼井はそういう奴だ。他の高校生と違って変に合わせて笑ってやる必要はない。 「いいよなあ、吉井は。普通じゃない一年を過ごしたったい。俺はこの一年間いつの間にか過ぎたばい」 臼井は吸いおえた煙草をポケットの携帯灰皿に突っ込みながら言った。 「俺も行っとけばよかったな」 僕らはいつもそうだった。僕も臼井もいつも何かやらかしてみたいと普段から思っている。僕は世間に大きな影響を与える何かを持っている。今は他の同年代の高校生達と同じ様に生活しているが、今に大きく羽ばたいていってクラスの人達を見返してやるのだ、と。だがそれが具体的に何で何からはじめればいいのか、それは全く分からない。そもそも僕が留学したのも結局は、まずこの予定調和の世界から抜け出したかったという衝動を行動に移した、僕の明日への第一歩だ。臼井は僕に一つ先を行かれた事に焦りを感じていた。 しかし本当の所、一年間のアメリカ滞在で僕が得たモノは、少しばかりの英会話能力と色んなものを見て大きく世界観が代わったという事だけだ。確かに色んなこの国にいたら経験できないような非現実に多く遭遇して、一周りも二周りも成長出来た。後悔は全くない。しかしこれはいわゆる大人が僕達に教えようとしている成長に過ぎない。本当に僕が望んでいるのはもっと圧倒的な何かである。 僕達はホームルーム終了後四十分くらいたった所でやっと駅に着いた。もう駅の構内にも人は疎らに伺える程度で、十分前にはホームから押し出されそうな程人が敷き詰めていた事など一切感じさせない。僕らが改札を通る辺りで電車が近付く音が聞こえ、階段を降りホームに立った瞬間電車の扉が一斉に開いた。これも予定通りである。博多方面の電車に乗り込み、空いている席に臼井が座り僕は向かいに座った。しばらく外を見ていると女子生徒の三人くらいの集団が走って階段を降りてきた。彼女らは扉が閉まっているのに先頭の一人が無理矢理乗り込もうとしたため車掌さんが気をつかってまた扉を開いてくれた。三人の女子生徒はキャハキャハと笑いながら僕と臼井のとなりに座って来た。気まずくなりそうだったので席を移動しようと臼井に目配せしたかったのだが、臼井は小説を懸命に読んでいたので僕は諦めてゆっくりと後方に過ぎ去ってゆく外の景色を眺めていた。彼女らはしばらく大きな事でキャハキャハやっていたが一人が携帯電話をいじり出すと続いてあとの二人も携帯電話をいじり出した。
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