北海道札幌市、東月寒(ひがしつきさむ)。 東豊線月寒中央駅のひとつ先、東月寒駅からバスで十分ほど北に走ったところに、「東月寒一丁目」というバス停がある。ひとつ先のバス停は「東月寒アンパン通り」。戦前、周辺の道路工事を担当した兵士が間食としてアンパンを好んで食べたことから、そう呼ばれている。ここが二丁目になる。三丁目は一丁目と二丁目の東側に細長く広がっており、現在分譲中の東月寒ガーデンハウスというマンションばかりがいやに目立つ、古い住宅地だ。 入植時は総世帯数111、人口545人だったこの地域も、工場の建設、宅地化などの影響もあって昭和50年代には5000世帯、人口15000人を超えるようになった。このころから開拓当時の農地は徐々に姿を消し始め、今あるのはマンション、ニュ―タウン、分譲住宅、アパートと住宅ばかりである。しかし、団地のはずれにある山をひとつ越えれば、昔ながらの平野が延々と広がっている。 アイヌの人々が住んでいた蝦夷(えぞ)地は、明治2年(1869年)に北海道と改称されるとともに開拓使が設置され、札幌本府の建設が始まった。当時の判官・島義勇(しま よしたけ)は、円山の丘からはるか東方を見渡し、街づくりの構想を練ったといわれる。明治8年(1875年)、最初の屯田兵が入植。人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築きあげた。 大正11年(1922年)の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって、市域・人口を拡大し続けてきた札幌市は、昭和45年(1970年)に人口100万人を突破し、現在では人口185万人を超える全国5番目の都市に成長している。 姫草桜花は、去年の暮に本州を離れ、四季の移り変わりが鮮明なこの町に引っ越してきた。通学先は駅から徒歩十分の「銀成学園」で、今年で高校の三年生だ。十八歳という彼女の年齢で、マンションに一人暮らしという境遇を、当初はずいぶんと不思議がられた。まして彼女の内申書に、聖心女学院という全国的に有名な中高一貫女子校出身の記載があったから、なおさらだ。 「なんであんなレベルの高い高校、辞めちゃったの? 桜花だったらもっといい高校に編入できるのに、どうしてうちの高校なんかに入ったわけ?」と尋ねる「銀成学園」の同級生たちに、桜花は黙って微笑して応える。その微笑の中にどんな答えを見いだそうと、それは彼女たちの自由だし、彼女たちの想像する答えの中に正解はあり得ないことを、桜花はよく知っていた。
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