世界の中にあるものすべてを、いっそう都合よくお前がそこから見まわせるように、わたしはお前を世界の中心に置いた。われわれはおまえを、天のものとも地のものとも、死ぬべきものとも不死なるものともつくらなかった。 (Oratio De Dignitate hominis/ピコ=デラ=ミランドラ)
廃校舎を夢に見た。 冷え冷えとした闇の天井を、手入れもされないまま打ち捨てられた蛍光灯がだらりと垂れさがっている。窓ガラスのほとんどが割られ、廊下の壁は卑猥なラクガキで荒らされている。床には割れたガラスや色の変わったペットボトルが落ちていて、足場がいいとはとてもいえない。すべてがしん――と動かない。 どこかでゆっくりと水が滴っている。夢の中でさえも意識をはっきりとさせるその単調な音は、あたかも校舎が脈打つかすかな鼓動のようだ。まだ生きているというより、もう死にかかっていることを暗に示す、暗い脈動。そして蛇口から滴り落ちた水は赤く錆びた水飲み場の上に小さな水たまりを作っている。夢の中でその傍らを歩くと、近づく人影におびえたかのように、ステンレスが低く鈍い音を出した。 手を中にいれ、水に触れた。 冷たい。雪水のように。 水は対照的に茶色かった。錆びた金属の粉が指にまとわりつき、ざらついた。すくいとりにおいをかぐと、血の鉄のにおいがした。暗い水面にゆらめいた自分の顔が映っている。 冷たい。その冷たさが心をしんとさせる。夢の中でさえも、感じることのできる心地よい緊張感。 だが、しだいに手のひらの水は聖なる冷たさを失い、人間の血のように生ぬるくなってゆく。ざらざらとした無機質な感覚はどろっとした有機質な感覚に変わり、あわてて指を開いて水をこぼそうとする。だが、そのとき、突然喉がかあっと熱くなった。急激な喉の渇きを感じ、水面をみると水が血のように赤に染まった。ゆらぐ水面が、美味しそうにこちらを見つめ返している。 水を口に含み、舌で転がした。 気持がいい。 体が冷えていく―― そこで目が覚めた。 眠りのスイッチを切られたかのように、唐突で不意な目覚めだった。開いた目に白い天井が映った。部屋の明かりは、すべて消してある。 姫草桜花(ひめくさ おうか)は、小さなベッドから起き上がった。布団をまくりあげると、中を念入りに調べた。布団の下の毛布も引っ張りだして、調べた。次には布団と毛布の両方をベッドから払いのけ、敷き布団を隅から隅まで調べた。 大丈夫のようだ。どこにも吐いていない。 桜花は床に降りると、部屋中を見回した。カーテンもカーペットも布張りの座椅子も机にある編みかけのセーターも闇の中だというのにはっきりと見える。どれもだめだ。鮮やかに見えすぎる。 身をひるがえして今度は台所へ向かった。冷蔵庫を開けて、ブラッドソーセージを取り出し小さくかじる。そうしてやっと息をついた。冷蔵庫の中には、ほかにもいくつかのブラッドソーセージがある。寝る前にいっぱいに補充しておいた。ブルートヴルストやメンゲヴルスト、ツンゲンヴルストなど普通の人はめったに見ることのないマイナーなものが置かれている。桜花は喉を軽く押さえ、体中から沸き起こる吐き気を何とか抑えた。 安堵と、それを押し返すような緊張が交互に押し寄せてきた。これは相性の悪い感情の組み合わせだ。落ち着かず、それでいて大丈夫なような心地にさせられる。桜花は冷えた手をさすり時計を見た。午後二時の十分ほど手前だった。 ――もう眠れないだろうな。 この前あの廃校舎を見つけてから、十日と立っていない。夜の時間つぶしに数度あそこを訪れたが、いまだに飽きない場所だった。 ――行かなきゃ駄目かな 目覚めのサイクルは日々早くなってきている。ここ半年ばかりのあいだに、急激に。それとは反対に夢を見ることも増えた。夢を見るということは眠りが浅いということだろう。 なんども目覚め、なんどもとりとめもない夢を見て、そうして最後にあの廃校舎にたどり着いた。最終的に八か所ほど廻りまわったような気がする。 力が強くなってきているのだろうか。だから、こんなにも頻繁に、意識と無意識のあいだを行き来するようになっているのだろうか。 それとも―― 周期をコントロールする桜花の力が衰えてきているのだろうか? それは考えるだに恐ろしいことだ。桜花は頭をひとふりすると、乱れた髪を手ですきながら、着替えに取りかかった。外の気温は摂氏マイナス三度。雪風が窓をたたく、睦月も押し迫った夜のことだった。
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