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作品名:見えない城 作者:ながいみち

第42回   小さな城
その後、診療所長の好意で愛美のために職員住宅を一部屋貸してくれることになった。

もちろん、地域の住人からは若くて偉い先生がこの陸別に来てくれたと評判になり、脳神経外科が専門であった愛美は所長の指導の下、小児科から整形外科までなんでも診療した。

もちろん准一への愛情も何一つ変わらず、リハビリもできるだけ協力し身の回りの世話もヘルパーに代わって手伝った。
しかし相変わらず准一の症状は変わらず愛美の瞳を見ようとはしなかった。愛美も北海道で学会があるときけば率先して参加しベテランの医師らに様々な症例や関わり方を学んだ。だからといって焦ることはせず、いつか必ず准一の記憶は戻せる、そう信じ毎日愛情を注いでいった。

ある休診日、愛美は准一と二人で近くの展望台へドライブに出かけた。あの頃二人で訪れた季節と同じ風が吹いていたがただ違うことは話しかけるのは愛美だけということだった。

「ねぇ准一、二人で夕張へ行ったこと覚えてる?幸せの黄色いハンカチの撮影現場で准一がいろいろ話してくれたよね。私ね、あの時庭一杯にくくりつけられた黄色いハンカチを見て映画だからこんなのアリ?なんて思ったの。でもね、准一と再会した時、准一の車椅子に黄色いバンダナを見つけたときは本当に嬉しかったよ。准一がどういう気持ちであれ私にとってかけがえのない人だし、今の自分があるのも准一のお陰だと思っている。だからこれからもずっと一緒にいようね。」と話しかけた。

准一は窓の外を眺めながらじっとしていた。しばらく走ると少し高台になり小さな陸別の町が一望できた。

すると「止めて・・・」と、突然准一が小さな声で言った。愛美は幅広の路肩に車を止めた。准一はしばらく無言のままそこから町並みを眺めていた。愛美は決して無理に准一に問いかけたりはしなかった。

北海道の夏はあっという間に過ぎた。しかし准一の症状はこれと言って変化も見られず、ただいつものようにリハビリだけが続けられていった。

准一が、働けないのにどうしてこの診療所にいられるのかは所長やこの陸別町の住民のお陰であった。

それは一人暮らしの高齢者には訪問して薬を届けたり、この陸別町の住民の為に仕事という壁を取り払い、心を込めた関わり方をしていたからである。ある時は話し相手になって半日時間を潰してしまうこともしばしばあったが、そんな人情味ある人柄がこの町では親しまれていた。過疎地ではできるだけ若くて熱心な職員を必要とするが主にそれには報酬が問われる。しかし准一はそのような属欲には捉われない医療を望んでいた。逆に、事故にあってからも実家に戻ることを臨まなかったことを知ると、ここの診療所でぜひ療養して欲しいと住民全員が懇願書を役場へ出したほどだった。

こうして、准一は望まれてゆっくり療養することができたのである。しかも、若くて綺麗な女医さんまでこの陸別町に着てくれることになると前にも増して感謝の気持ちで町中は明るくなっていった。

愛美は、准一がいつかきっと以前のような明るい笑顔に戻ってくれると信じていた。そしてまた心から愛し合える日が来ると信じていた。

歩行訓練も徐々に高度になり、立ち上がる程度まで進んだ。しかし、あと少しで一歩が出ない。愛美も所長から話を聞いており、それは准一自身が立ち上がろうとしない限り、無理であると言われていた。では、どうして立つことを拒むのか・・。愛美はどうしても理解できなかった。途切れた記憶も取り戻せずにいた。
しかし、愛美がここへ来てから新しい愛美との思い出は着実に出来上がっていった。

一年が過ぎようとした頃、准一は時折愛美の仕事振りを遠くから見つめることが多くなった。そんな准一に気付くと愛美は照れくさそうに、「私のことが気になるのから」と、言葉をかけて微笑んだ。准一は少しうつむくと自分で車椅子を動かしてまた遠ざかっていく。しかし拒否されることだけは無かったから、こんな様子が繰り返されても愛美は休みの日には惜しまず准一と同じ時間を過ごした。


愛美が陸別に来て二度目の春、雪深い冬が去りやっと頬を撫でる風が優しく感じる季節になった。愛美は准一と少し遠出をして釧路までドライブに出かけた。

片道2時間ほどのドライブでは、診療所での出来事や往診に行った時お昼をご馳走してもらった話題など、愛美は准一に話して聞かせた。しかし記憶を無くしてしまった大学時代のことはできるだけ話さなかった。
なぜなら記憶障害にとって無理に思い出させることは逆効果につながり症状を悪化させてしまうこともあるからだ。自分自身で閉ざしているのであれば自分自身で開かなくてはならない。愛美は必ず准一がその扉を自分の手で開くことを信じていた。だからそれがいつになるか分からなくてもじっと待ち続けようと決心していた。

しかしそんなことより、今の時間を大切に過ごし、新しい記憶を二人で作り上げて行こうと誓った。

休憩を取りながら、昼過ぎに釧路港に着いた。二人は車から降りると、愛美は手作りの弁当を広げ准一におにぎりを手渡した。すると准一が「ありがとう」と、愛美に礼を言った。

愛美は突然の准一からの言葉に驚きを隠せず、無言のまま想いがこみ上がり今までの寂しさや辛さ悲しさが全て吹っ飛び、胸に引っかかっていた重い荷物がすーっと下りるのを感じた。

「・・うん、いいえ、どういたしまして、味は補償しないけどね」
と、少しおどけて返事をした。港にはカーフェリーが泊まっており東京に向けて出港の準備をしていた。愛美は准一からの一言がとても嬉しく、気付かれないよう溢れる涙を抑えるのに精一杯だった。

その後、准一は今まで以上にリハビリに専念し自力でなんとか歩けるようになろうと努力が見え始めた。また、自分が薬剤師であったことも徐々に受け入れ、過去に学んだ経験を再び繰り返し薬局にも顔を見せるようになり少しずつ仕事への復帰を目指していった。

ある日、准一はいつも愛美が見に付けているネックレスのことを聞いた。愛美は大学の時准一がクリスマスにプレゼントしてくれた物だと言った。准一は愛美と付き合っていたことが記憶に無い。しかし、一緒にいることで心が安心し生きることを前向きに考えることができた。しかしその反面、言いようも無い罪悪感が襲い掛かり特に過去のことを思い出そうとすると呼吸困難に近い動悸が起きた。

愛美は准一から一年間音信不通だったことと使用されなくなった携帯履歴などから、全ての症状が交通事故によるものばかりではないと疑い始め、精神科の専門医に相談していた。結論としては本人の記憶が無い為確実ではないが、携帯メールの返信で送信はしてなかったもの、内容は記されていたことなどから、愛美のことを決して嫌いになっていたわけではないだろうと言われた。
しかし職場を変わり転居先を知らせなかったことから、自ら愛美と距離を置くことで精神的に追い詰められていったことが考えられた。しかしその原因が何か愛美にもはっきり分からなかったが、ひょっとしてそれは大学時代に起きた父親の死によるものかもしれないと脳裏を過ぎった。

愛美も准一に「車椅子に縛ってある黄色いバンダナはどうして?」と尋ねた。
准一はゆっくりとした口調でバンダナを触りながら「どうしてだか分からないけど、昔映画で幸せの黄色いハンカチを観た記憶があって、こうしてここに縛り付けていると大切な人が帰って来るような感じがしてとても落ち着くんだ。」と、答えた。

どういう理由であれ、准一との記憶の中にその黄色いハンカチを共有できている現実に愛美は幸せだった。「きっと准一は記憶を取り戻せる・・・」愛美はそう信じて生きていこうと決めていた。

そんなある日、准一が診療所の薬局で書類の整理を手伝っていた時のことである。棚に積んであったファイルが床に落ちてしまい、車椅子の准一には取り上げることが難しく試行錯誤していた。

そんな様子を離れたところからそっと応援するかのように愛美は温かい眼差しで見守っていた。と、その時たまたま取り上げようとしたファイルに手が止まった。愛美はその動作を見逃さなかった。

「どうしたのかしら・・」
准一はそのファイルを拾うとはせずに指先でそっと撫でた。愛美は准一がどうしてそのファイルを拾うとはしないのか不思議に近くまで近寄ってみた。准一はようやくそのファイルを拾い上げ膝の上に置いた。

「准一、どうしたの?大丈夫?」と愛美は問いかけた。准一はそれには答えずじっと膝の上のファイルに目をやっていた。

愛美も何だろうと思い覗いてみた。するとそこには患者データリスト用のファイルであった。しかもよく見ると緑色の背表紙とカバーに覆われていた。

一瞬目を疑ったがそれは紛れもなく、愛美が平柳のマンションで見たあのグリーンファイルそのものだった。しかし、もちろん中身は別物であり当事の物より新しかった。准一は中身よりもそのファイルに興味を持ったようにじっと眺めて手で確かめていた。愛美は「准一?このファイルがどうかしたの?」と優しく問いただした。准一はしばらく無言であったが、「グリーンファイル・・どこかで見た記憶がある・・。」そう言うと瞳を閉じてじっと身動きしなくなった。愛美は忘れかけていた過去の思い出が走馬灯のように廻った。

そして「まさか・・・准一もあのファイルを見ていた?」と、疑問視した。「まさか・・まさか・・そんなはずはない。だってもしあのファイルを准一も見ていたとなれば、私の父親の死が准一の父が原因だと知ってしまう・・・しかしそれは・・誤解・・。それに、確かにあの頃あのマンションには入れなかった・・・」愛美は余りにもたくさんの難題が降りかかり整理仕切れないでいた。
すると准一は、ゆっくりとその部屋から出て行き自分の室内に戻っていった。

それからしばらくの間、准一の言葉数は減った。原因はあのファイルに間違いないがなぜそうなのかが分からなかった。

その後、愛美は記憶を辿り准一の母親に平柳が持っていたあのグリーンファイルの存在を尋ねていた。
もちろんうっかりのことを告げれば愛美と平柳との関係がばれてしまう。だからこそ慎重に尋ね、疑われないように頼んで探してもらったのである。

そうしたところ運よく全ての資料が保存されており数日後、由香から愛美宛に宅急便が届いたというわけである。 包み紙を開けるとそこには1994年12月と書かれた確かに見覚えのあるグリーンファイルが現れた。愛美は恐る恐るページを開いた。もちろん12月7日のページである。愛美は再びこのファイルを見ることになろうとは思いも寄らなかった。7年振りに開いたそのページは当時のものと何ら変わりのない内容が記されていた。

愛美はこのファイルのどこかに准一の失った記憶に関する手がかりがあるのではないかとページをめくり始めた。
すると背合わせになっているファイルの間に挟まったメモのような紙に気付いた。それはコンビニのレシートだった。感熱紙の為、薄く色が変色していたがそれにははっきりとウーロン茶1本125円と確認できた。そして次の瞬間愛美は全身が硬直するほど衝撃的な事実に遭遇してしまった。

「あの日・・准一も・・・」

「でも・・・どこで・・・このファイルを・・」

「誤解していたんだ・・ずっと・・・」

「そして誤解が殺意を・・・・」

「ひょっとして・・・・・」

「まさか・・・そんな・・・・」
愛美の恐ろしい想像が脳裏を過ぎった。しかし証拠は無い。
ましてや自分の父親をいくらなんでも・・・。
悩んだ挙句愛美はこの現実を永久に封印しようと決心し、届いたグリーンファイルを自らの手で焼き尽くしてしまった。

「これで全てが終わった。准一の過去はもういらない。新しい未来を二人で築いていけばそれでいい・・」

愛美はその後も献身的な介護と診療で陸別の診療所で働き続けた。」

しかし、その燃える様子を遠くからじっと准一は見つめていた。


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