由香は愛美を案内して診療所のリハビリ室へ一緒に向かった。
しかし涙を拭いた愛美の顔は准一に逢えた喜びとは逆になぜか不安が押し寄せていた。それは直ぐに分かった。
由香は、准一が毎日行うリハビリの為、体格のいい作業療法士の男性にその場を任せ、隅にある椅子に腰掛けた。そして愛美に話しだした。
「どうぞ、愛美さんも腰掛けてください。しばらくの間は、ここで兄のリハビリが終わるのを待つんですよ。」と、由香は愛美と並んで椅子に腰掛け、「本当にお久しぶりですね。父の葬儀以来だから、もう3年になるかしら。」と、由香は静かに話しだした。
愛美は、「そう・・もう3年が経つのね・・。」と、瞼を閉じて答えた。由香は何から話せばよいか迷っていた。
そんな様子を察してか愛美は、由香の母親から今回の経緯を少し聞いていることを話し、一時でも准一から目を離さまいという表情でもっと詳しく事情を聞き始めた。由香は、昨日母親から愛美のことを知らされていたので出来る限りのことを伝えようと決心していた。そして運命で絡み合った糸が少しずつ解け始めていった。
由香は少しずつ兄准一のことを話し始めた。事故当時は重体で一命を取り留めたのも不思議なくらいで医者も准一の生命力には関心していたと話した。
「愛美さんも気付いたと思うけれど今の兄はまるで廃人のように生きる気力を失ってしまっています。こうしてリハビリを始めたのも兄の意思ではなく、兄が勤務していたここの病院の職員の皆さんの温かい好意からなんです。なんでも兄がここの診療所へ初めて訪れた時は前の病院も既に辞めていて、住む所もなく行き当たりばったりで着たようなんです。しかし、大学当時からここの診療所を決めていたようで、過疎地での医療に従事したいと真から訴える熱意に院長がぜひ、働いて欲しいと兄を雇ってくれたそうなんです。」と、ゆっくりと落ち着いた口調で話した。
すると、由香はすっと立ち上がると廊下へ出て、自販機で飲み物を買うと愛美にも差し出した。ゆっくり喉を潤している由香を見て愛美はふと、思い出した。
「由香ちゃん・・ちゃんと話せるようになったのね。」 5年もの間、失語症と診断され誰とも会話を拒否し続けてきた由香にとって今こうして話せることは、とても幸せなことだと実感していた。
「ええ・・。私にもどうして声が出なくなってしまったのか分かりませんでした。ただ言えることはその当時、毎日がとても寂しかったということです。」
周りの家族や友達は心配してくれたのですが、どうしても自分から打ち解けることができなくて・・・。それにあんなに優しかった弘昭兄さんが暴力を振るうことが悲しくて・・」と、一口お茶を飲んで続けた。
「だけど皮肉なもので、父との最期の別れの日にその言葉を取り戻すなんてね。きっと父が私に贈り物を与えてくれたのだと今は感謝しています。」
愛美の専門は脳神経外科であるが、様々なストレスから起こりうる精神的な面にも熱心で在学中も幅広く研究してからこそ、由香のことを医者として理解できた。しかし准一の病状をどう受け入れてよいか正直不安が募った。
由香は続けた。
「最初、知らせを聞いて家族でここへ着たけど、准一兄さんの様態が落ち着いてからは母が行ったり着たりしてそてたの。本当は千葉へ戻って伯父さんの病院へ転院すればいいのだけど、どうしてかそれだけは兄が嫌がってね。だからそのまま北海道に居るの。それともう一つ、兄は全く話が出来ないわけでなくて自分の意思が強いことは伝えられるの。だから・・ほら、見て!兄の車椅子に着いている黄色いバンダナ・・。あれって兄に頼まれて縛ったのよ。意味は分からないけど、いつもあのバンダナを触っては遠くを見つめているの。愛美さん、何か知っている?」と、由香に問いかけられた。
愛美は最初准一を確認した時一緒にその黄色いバンダナも目に入っていた。そして二人で旅した夕張で准一が熱く語った「幸せの黄色いハンカチ」の場面を思い出していたのであった。
それはきっといつまでも私を待っているいう『合図』を、表しているのだと確信した。
すると、由香は愛美にここで少し待っていて欲しいと言い、診療所の裏にある職員住宅へとある物を取りに戻った。しばらくすると由香が戻ってきて愛美にそっとそれを差し出した。
それは愛美にも見覚えのある准一が学生の時から使用していた携帯であった。 「これは・・・」愛美はそれを受け取ると懐かしそうに両手で確認した。
当初准一が事故に遭ってこの携帯のことには気付かなかったそうである。なぜなら准一はもう一台携帯を持っていたからである。しかしその後、准一の身辺整理をした時机の中からこの携帯が見つかったのである。母親が携帯ショップに確認をすると、持っていた携帯の他にこの携帯がそのまま継続されていることを知り内容も確認しないまま解約してしまったのである。だから、突然、愛美が准一にメールが送れなくなったり、通話が出来なくなってしまったのであった。
愛美はようやく理解できた。その後、由香が携帯のメール確認をすると、愛美からのメールが残っており、未送信の返信がそのまま保存されていた。由香は准一が何か理由があって愛美に送れないと察しそのままにした。それを聞いた母親も准一が愛美に自分のことを知らせないでいたことは何か理由があってのことだと思い、転職したことも事故に遭ったことも知らせないでいたのである。
愛美は受信ボックスを開くと確かに自分が送った記憶のある内容がそこにあった。
「准一(^^)今日は国試の発表まで落ち着かないからは部屋の片付けをしています。そしたら准一のTシャツが出てきました。匂いをかいだら准一の香りがしたよ。今どこにいるのかな。きっと薬剤師さんとして頑張っているんだよね。だから私も頑張れるよ。またメールするね。」
愛美は懐かしくそのメールを読んでその時を思い出した。
すると、その他にも愛美が送ったメールが全て保存されていた。 「准一・・・どうして・・どうして、こんなにちゃんと取って置いてくれているのなら返信をくれなかったの・・」と、切なさを嘆いた。
そしてその数は、500通に及ぶ受信ボックス一杯ぎっしり保存されていた。 すると由香が愛美に「保存ボックスを見てください。」と言った。
愛美は不慣れな機種を操作しながらそれを見つけた。そして次の瞬間瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。 2/○To manami・・@・・ Subject 大丈夫 「愛美、国家試験は必ず合格するさ!僕はそう信じているよ。だから不安はいらない。いつも前を向いて生きて欲しい。僕はまだ未熟な人間だけどいつか愛美に自信をもって合える日を願っている。いつまでも愛している。」 と、未送信のまま保存されていた。 その内容は愛美が国家試験後の気持ちを准一へ送ったものでその内容は確かに准一が愛美に宛てた内容そのものだった。
「どうして・・・」 愛美は、過去の履歴を読み返した。むろん消えてしまっている内容はあるものの全て愛美が送ったメールに対して返信の言葉が書かれていた。准一は愛美を避けていたのではなかった。避けなければならない何か深い理由があったのである。
由香はじっとそれを見つめる愛美に、「事故に遭った当初は母も愛美さんに知らせたほうがいいかしらと迷っていたけど、准一兄さんが愛美さんにも転居場所を教えていなかったことを考えると今はそっとしておいた方がいいねって、それで知らせなかったの。でも、その後も兄の体調は思わしくなくて愛美さんに知らせても返って迷惑を掛けるんじゃないかしらと思って知らせなかったの。ごめんなさいね。」と、由香は小さく上ずった声で言った。二十歳そこそこの娘が伝えるには荷が重い内容であったが、由香はしっかりと正直に話した。愛美はそんなことは気にせずとにかく准一が生きていてくれたことと再び逢えたことを神様に感謝した。
そんな二人の様子に気を使ってか、離れたところから「今日のリハは終わりましたよ、お疲れ様でした。」 と職員が声を掛けてきた。由香もありがとうございましたと、丁寧に挨拶すると、その職員は二人に近寄り話しかけてきた。
「准一君は交通事故で大変な怪我をしたのにも関わらず、外科的にはこれと言った損傷は見られないんですよ。だから本当なら歩けてもいい筈なんですがねぇ。」と、その職員は話した。
愛美はそれを聞いて、「そっれて、彼自身が歩こうとしないということですか。」と尋ねた。職員は愛美の方を見て「こちらは?」と、言うような合図をすると「あっ、私は今年から札幌の病院で医師をしている河原といいます。まだ研修医ですが准一さんとは同じ大学でお付き合いしていました。」と、手短に話した。
すると、「そうでしたか、あなたが愛美さんでしたか、やっぱり予想通りのしっかりした方だ。あなたのことは准一君から聞かされていましたからよく存じていますよ。看護師から医者になられたんですよね。凄いなぁ〜。」と、その大柄の職員は初めて会ったばかりの愛美に親しく話しをしてくれた。
その職員はそう言い話を続けた。「准一君の場合は奇跡的に神経の損傷は見られず自力で歩けるはずなんですがねぇ。ただ、頭を強く打ったせいか事故のショックで記憶が部分的に欠落しているため極度の不安感が募りどうしても自分から心を開こうとしてくれないんですよ。仲の良かった僕でさえだめなんです。」とその職員は車椅子に座る准一を優しく見返してそう話した。この職員も診療所の職員であるが、いくつかの病院や診療所に出張して機能訓練をおこなっている。小さな地域では普通であり、地域医療においては予算が不足しているため仕方ない手段である。
准一は以前の由香のような失語症ではなくイエス・ノーははっきり言える。しかし、相手との会話は拒んでしまう。もちろん妹の由香にでさえ同じである。 だからと言って周りの声が聞こえていない訳ではないので、失言には要注意しなければならない。愛美は准一と目線を合わせると、「私にとって准一は昔と何も変わらないです。」と、涙を潤ませて呟いた。そんな愛美を見ようともせず、准一は車椅子に縛り付けた黄色いバンダナを触りながら遠くを見つめていた。
「実はね、愛美さん。兄は夜、診療所で寝泊りしているんですが、裏の職員住宅にもまだ部屋を借りて昼間は行ききしているんですよ、一緒に行きませんか。」と、由香は愛美を誘った。そして三人はその部屋へ向かった。
築30年ほどと思われるその住宅には数名の職員が部屋を借りていた。准一の部屋は1階奥の角部屋にありドアノブを開けると車椅子がそのまま上がれるように簡単ではあるがバリアフリーに改造されていた。愛美も後について入ると殺風景ではあるが准一の存在をその部屋に感じ、二年前北海道へ発ったあの日以来、准一を身体全体で受け止めていた。
すると由香は、分厚いファイルを愛美に差し出した。それは准一が学生だった頃の写真でCDRに保存されていたものを由香が見つけ出してプリントしたものだった。懐かしい顔ぶれに愛美も笑みを浮かべその写真に見入った。もちろん愛美の写真もその中の半分以上を占めており一つ一つ思い出が蘇えった。
「少しでも記憶が戻れるようにって綴ったけど、思ったほど効果はなくて・・でもね、この中にある、携帯の写メで撮った「幸せの黄色いハンカチ」を見て兄は、同じバンダナをどうしてもこの車椅子に付けて欲しいと言ったの。初めて意思表示をしてくれたから私もそうしたんだけど・・・これって、どういうことか分かるかしら。」と由香は愛美に聞いた。
愛美は、准一と旅行した北海道のことを話した。デジカメは愛美が持っていた為、准一は自分の携帯でしか撮影できなかった。だからこの写真しか残っていなかったのである。由香は兄の愛美に対する思いをはっきり感じ取った。しかしならばどうして転職のことや引っ越し先を愛美に教えなかったのかそれが疑問でならなかった。もちろん愛美もそれが分からなかった。
愛美はそこに映っている「幸せの黄色いハンカチ」の写真を准一に見せた。 准一は、その写真のハンカチを指でそっとなぞると、車椅子に縛ってあるバンダナをぎゅっと握りしめた。
愛美は准一にこのバンダナに触ってよいか尋ねた。予想通り返事は無かったが拒否されることはなかったのでそっと触った。そしてあの時二人で旅行した思い出が走馬灯のように蘇えった。
すると由香はしばらく外を散歩して来ると言い残し部屋から出て行った。これで本当に二年ぶりの二人きりの時間が戻った瞬間だった。
ドアの外に出た由香は涙が溢れ出し「これで兄も立ち直れるはず・・・」と呟き、何かが吹っ切れたように気持ちにが軽くなっていた。
その後愛美は、一度札幌に戻り院長に陸別町の診療所に研修医先を変更したいと願い出た。もちろん今の世の中、過疎地での医師不足の為直ぐには認めてくれなかったが愛美の熱意に根負けし同じ地域医療の為であるならばと逆に背中を押してくれた。愛美は、心から感謝しこれから准一と二人、どんな試練にも耐えて行こうと誓ったのであった。
|
|