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作品名:見えない城 作者:ながいみち

第32回   母と娘
通夜は滞りなく進み棺への顕花となった。

愛美は焼香を済ませ准一親族にお辞儀をすると、棺に眠る平柳へ菊の花を添えた。過去の思い出が走馬灯のように思い出され溢れ出る涙は止まらない。

その時小さく呟く声が聞こえた。「彰夫さん・・お疲れ様でした・・」それは母だった。愛美は人の流れに押され式場を出た。

しばらくすると准一が愛美たちを見つけ出し、
「今日は本当にありがとうございました。父も喜んでいると思います。」と、丁寧に挨拶した。

母は、「いいえ、本当に心痛をお察しします。准一君も気を落とさないでね」と言い、今夜は市内のビジネスホテルに予約を取ってあるのでそちらへ泊ることを伝えた。

准一はホテルの場所を聞くと、後で少し話したいことがあるから合いに行くと愛美に告げ式場へ戻って行った。

愛美と母はタクシーで駅前のビジネスホテルへ向かう前に近くのレストランへ寄った。ろくに食事をしていない愛美だが食欲がない。

そんな愛美に母親はできるだけ栄養の取りやすいドリアとミーネストローネを注文した。運ばれてきたスープを口にした愛美は母に尋ねた。

「お母さん、さっき顕花した時准一のお父さんの名前呼んでたよね・・」
母はしばらく無言のままスープを啜った。

「お母さん?」

愛美は再び尋ねた。母はスプーンを置き水を一口飲むと愛美を見つめて言った。

「愛美?お母さんはお父さんが亡くなってから寂しくて悲しくて仕方なった。それはお父さんが私たち家族を大事に思っていてくれたし本当に幸せだったからなの。そんなお父さんが亡くなってお母さん、どうしたらいいのかしばらく途方に暮れていた。でも、何時までもめそめそしていたら天国のお父さんに叱られるからって、気持ちを入れ替えて介護の仕事に専念して頑張ってきたの。多分これからもお父さんに笑われないように生きていくつもり。だからそのことは愛美にも分かっていて欲しいのね。」

母が改めてこういう話をするのは、父の死後初めてだった。
そしてもう一度水を飲むと
「昔、お母さんが短大へ通っていたことは知っているよね?」と、母は愛美に問いかけ再び話し始めた。

昔母は、保母になる為、千葉の短大に通っていた。その2年の夏、習志野市内の総合病院で小児病棟の子供たちに紙芝居を読み聞かせるボランティアをしていたというのだ。

その頃、准一の父親、平柳彰夫もインターンとして同じ病院の外科に赴任していたのである。
しばらくしてお互い意識するようになり母の気さくで明るい笑顔と平柳の真面目で仕事熱心な性格に二人は恋に落ちた。

しかし仕事柄二人の関係はできるだけ表に出さないように院内ではあまり話しはしなかった。平柳の実家は群馬県桐生市の渡良瀬川沿いにある小さな時計屋を営んでいた。

昔から続く老舗であったが、時代のあおりを受け平柳が医師になって数年後店を閉めた。次男だった平柳にとって後を継ぐ煩わしさは無かったが、国立大学とはいえ6年間学費を仕送りしてくれた父親に感謝していた。

母と平柳の恋愛関係は母が習志野市内の保育園の保母として働くようになってからも続いた。平柳はインターン後もそのまま総合病院の新人医師として勤務した。

しかし二人が付き合い始めて4年目にある出来事が起きた。

平柳への縁談だった。院長の友人が経営する病院の娘だということだった。もちろん断ったが一度会うだけでいいからという約束で見合いの真似事をさせられてしまった。その時、母に見合いのことは知らせていなかった。

もちろん本気ではなかったし母に余計な心配をさせたくなかったからである。

後日、場所を変えて顔合わせが行われた。

乗り気ではない平柳は、相手の女性に関心を寄せなかった。しかし、真面目で仕事熱心な平柳を相手の両親はとても気に入りぜひ娘の婿になって欲しいと願った。

女性の父親は市内で病院を経営する菊本と言いった。
その令嬢は都内の薬科大を卒業し実家の病院で薬剤師として働いていた。
平柳のことは医師会でも噂に上がり最近ではまれに期待される人材であった。その日は何事も無く見合いは終わり数日が過ぎた。

しばらくして平柳は院長に呼ばれ付き合っている女性のことを問い立たされた。平柳は正直に結婚を前提に付き合っていることを告げた。
しかし二人の愛はもろく壊れさられてしまったのである。その頃、平柳の実家は店を閉め経済的に苦しい生活を送っていた。

そこへ菊本理事長が圧力を仕掛け結婚を理由に金銭的面倒を見たいと申し出たのである。

このことは後になって知ったことだったが両親から結婚を勧められ彼自身も悩んだ。それともう一つ大きな理由が、愛美の母への圧力だった。当時努めていた保育園へ抽象的な投稿をしたのである。

愛美の母は園長から退職を告げられ途方にくれた。その後、菊本病院の職員と言う者から手切れ金を渡され別れること強要されたのである。

もちろん愛美の母は平柳を信じたが、話が進む縁談にどうすることも出来ず、実家の小田原に戻ったのである。その後、平柳は菊本令嬢と結婚することになったが、結婚と引き換えに別姓の願いをしていたのである。だから戸籍上は菊本であるが医師として関わる以上は旧姓の平柳を名乗っていたのである。

愛美の母は過ぎた青春時代の思い出を淡々と話したが零れる涙にはその時の熱い感情が今も感じ取れた。

「お母さんはそれでよかったの?」と、力の無い声で愛美は聞いた。

「いいも悪いも時代がそうだったら仕方なかったの。彰夫さんがお母さんを選べば実家の両親も悲しむし、自分の職も失う羽目になるところだったのよ、当時、菊本理事長は医師会の会長をしていたから・・何も言い返すことはできなかったの」と母は答えた。

その後母は、地元の保育園に採用されそこへ教材を届けに来る父と知り合ったのである。
もちろん母は傷ついた心を引きずっていたので恋愛感情など持てずにいたが、根気良く大きな心で待ち続けたお父さんと結婚することになった。

母は、「彰夫さんとの別れがあったからお父さんと巡り合えたし貴方たちを授かったの。だからお母さんは幸せだったのよ」と言った。

しかし愛美は混乱していた。なぜなら自分が愛した男性が母の初恋の相手でもあり、准一の父親なのである。

時空を超えて様々な思いが錯誤した。そして愛美はふと頭を過ぎったことがある。

「准一・・・そうだ!准一の気持ちだ!」

愛美は以前、平柳との関係を准一に話したことがある。

しかし名前は言ってない。確かに言っていない。だから私が以前付き合っていた男性が自分の父親だとは知らない筈だ・・。

しかし、もし、准一がそのことを知ったらどう思うか・・・。それは恐ろしかった。なぜならその話をした頃愛美は平柳のことを父親を殺した医者だと思っていたからである。

准一は愛美以上にそのことを悲しみその相手を許せないと言っていた。もし、その男性が自分の父親だと分かれば・・・。ましてや准一の心には深い悲しみと寂しさが刻まれている。それらが重なった時・・・・。

愛美は震えた・・。しかしそんな筈は無いと心に言い聞かせ打消した。

愛美は母に自分も平柳を愛したことを話さなかった、いえ話せなかった。

なぜなら平柳は愛美自身を愛してくれていたと確信しているからである。
もちろん母と重なる部分もあったかもしれない。しかしそれは親子だから仕方ないことで、平柳が愛美の中の母を愛したわけではなかったからだ。

「お母さん、今でもその人のこと愛してるの?」と愛美が聞くと、

「お母さんはお父さんと結婚するって決めたときに彰夫さんのことは全て断ち切ったの。だから今思う気持ちは過去の気持ちで愛情ではないのよ。だけどやっぱりこんなに早く逝ってしまうことは寂しいことね」
と、声を詰まらせて言った。

同じ男性を愛した母と娘の悲しい結末に愛美は心を打ちひしがれる思いで一杯だった。
ただ今思うことは、あのままもし平柳と続いていたとしたならば、母はきっと悲しんだに違いない。

昔愛した男性と自分の娘が不倫関係にあるなんて・・。愛美はこれだけは絶対に母には言えないことだと胸の奥深くしまった。

すっかり冷めてしまったドリアにスプーンをつけた。母も食が進まないようでただチーズをかき混ぜていた。

「お母さん、お父さんも天国に逝ってしまったけど、私はいつまでもお母さんの娘だし、お姉ちゃんだっていつもお母さんのこと気にしてるから安心してね。」と愛美自身ぼろぼろの心を隠して母を元気付けた。

愛美の暖かい優しさに母も「ありがとう・・ね」と呟き、ドリアを口に運んだ。

半分ほど食事を済ませたところで二人は店を出て向かい側のビジネスホテルに入った。

生憎シングルしか空いていなかったが、後で准一が愛美を訪れると言っていたので都合はよかった。

フロントに准一のことを告げると、明日午前11時の出棺までは見送ることにして二人はそれぞれの部屋に分かれた。


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