白神(しらみわ)神社の門前には短いけれど緩やかな坂の参道が有り、それに沿って多くの欅が立ち並んでいた。欅は全て同じ時期に植えられており、葉を茂らせ均等に成長した並木通りは、神社までの道程を浄化しているかの様に清浄で美しい。 参道の始まりの場所では、水茶店が軒を連ねて毎日賑やかな声が聞こえ、商家や武家屋敷へ続く道と、街道へ向かう道に分かれていた。その、街道へ向かう道の方角に幸太の茶店が在る。 近辺に住む者が参拝した際に立ち寄るには少し外れていて、街道から入る者は、目的地へ到着する寸前の茶屋には目もくれずに通り過ぎてしまう、商売をするには立地条件は厳しい場所だった。しかしそんな場所だからこそ、まだ若い幸太が店を構える事が出来たのだ。 店はお世辞にも立派とは口に出来ぬうらぶれた小屋を、兄の二太郎が手を加えて使える様にした。食器等の必需品は、既に店を構えているお富の口利きで、損料屋から安く借り入れ、歩き回る下っ引きの三太が店の存在を触れて回る。そうやって周囲に支えられていたから、茶屋娘も居ない幸太の店が立ち行く事ができたのだ。 しかし何より潰れずにいたのは、幸太が作る菓子の贔屓がついた事だろう。 幸太が父や二太郎と住んでいた表長屋には、評判の菓子屋が店を構えていて、兄を見習った幸太はその店の雑用を頼まれもせずに手伝い、大店となって魚河岸近辺に店を移す際、主人自ら幸太の弟子入りを父親に乞うたのだ。 その大店で五年、主人の親戚筋を頼って上方で三年修行して、昨年の春に帰って来た。御菓子司の肩書きが無いものの、白神神社の宮司の好意で板場を借りて菓子を作り、ささやかながら饅頭などを茶店に出していた。 幸太の作る菓子は、一見すると何の変哲も無い素朴な菓子なのだが、一度口にすると病み付きになるほど美味い。肌理の細かい餅はしっとりと柔らかく、それでいて口の中でもたつかない。餡は甘さが控えめで、甘茶にも渋茶にも合う。煎餅は薄焼きで香ばしく、特に塩だけで焼いたものが美味い。 人手や予算の問題で、一日に一種類の菓子しか作れない為に、まだ少人数の者にしか知れておらず、数少ないという所から希少価値が生まれて、贔屓客の口から中々噂が広まらないのだから、何とも複雑な実状だった。 そしてそんな幸太の菓子に惚れ込んだのが、白神神社の敷地内にある神宮寺の社僧・常行(じょうあん)で、幸太が上方へ行く前からの贔屓でもある。 何しろ幸太が上方から帰って来ると知るや、茶屋を出す為の手配を率先して後押しし、目の届く場所に店を出させた上、宮司に口利きしたのも常行なのだから筋金入りだ。 今日も今日とて、欅の葉から零れた陽射しを掻い潜り、常行は軽い足取りでひょこひょこと腰掛け茶屋へ姿を見せる。神宮寺を任されているとはいえ、まだ三十路半ばを超えた若い僧で、体躯は大柄で腕っ節は火消しより強いとの噂だった。事実、祭りの喧嘩仲裁を、喜び勇んで割って入る様な、豪胆な人物なのだ。 「幸太、来てやったぞ」 「こんにちは、常行さま。おつとめは終わったのですか?」 「拙僧に説く気か?」 にやり、と坊主とは思えない悪人面で笑いながら、どっかりと座って茶と菓子を催促すると、幸太は苦笑いを浮かべて手早く要望に答える。毎日、同じ時間に姿を見せて、同じやり取りをする為に、双方心得たものだった。 幸太が茶の準備をしている間、常行はちらりと奥の棚を見やる。そこには幸太の煙草入れ――付喪神のハクがあり、仕事中に落としたり傷つけたりしない様に、幸太はいつもそこへ置いていたのだ。 「珍妙な事よの」 「……?」 「親父殿はまだ帰らぬか」 「師走まで戻らないと思います。やはり放浪が性に合うみたいで……」 淹れたての茶と菓子を盆に乗せ、困った顔をした幸太が顔を上げる。常行もそんな幸太の顔を見て困った顔をし、難儀な父親だとぼやいた。 二太郎と幸太の父は放浪癖があって、二人が親の手から離れた途端に、まるで出奔するかの如く旅へ出た。慌てた二太郎が行方を捜して居場所を突き止め、せめて暮れと正月には戻る事を約束させて、今に至る。 二人の息子が可愛くないという訳ではなく、本当に放浪が性分なのだろう。幸太が上方に居る時に何度も顔を見せていた事からも、それは窺える。 「一度、親父殿を拙僧に説かせろ。放浪の虫も治してみせるぞ」 「それでは余計に寄り付かなくなってしまいます」 苦笑して幸太がそう言うと、常行は今日の菓子である串団子を頬張りながら、豪快に笑い飛ばした。その様子から、本気で説く気が無いのだと知り、幸太はホッと胸を撫で下ろす。 そんな時、参道から外れてこちらに向かって歩いてくる侍の姿が幸太の視界に入り、昨晩の辻斬りとの遭遇を思い出して全身総毛立つ。それが棚の上のハクにも伝染したのか、カタリ、と小さく音を立てた。 明らかに真っ直ぐ幸太の茶店に向かって来るのが解ると、狭い茶屋の中で後ずさりして、よしずを立てただけの壁にぶつかって倒してしまい、まだ事情を知らない常行を驚かせる。 「どうした、幸太」 「少しお尋ねしたいのだが、宜しいか?」 常行と同時に若い侍が言葉を発し、幸太はその瞬間にドッと冷や汗を掻く。倒したよしずの上まであとずさっていたのだが、侍の言葉に凍り付いてしまった。 そんな幸太の様子に少し不審な顔を見せたが、侍は追求はせずにそのまま聞きたい事を言った。 「五十くらいの侍を見ませんでしたか。私の父で、心の蔵が芳しくないので捜しているのです」 「この近辺に用が有るのなら、そこの神社ではないか? この先は街道で何も無いぞ」 「先程、敷地内を捜したのですが、おりませんでした。お坊はそちらの……?」 「拙僧は茶屋に来たばかりだが、どちらでも見てはおらぬな」 そう常行が言うと、常時この場に居ただろう幸太へ二人の視線が集まる。その頃には漸く落ち着きを取り戻し、よしずを慌てて立て直しながら、首を振って「誰も来ていません」と答えた。茶屋としても問題の有る発言だったのだが、若い侍も落胆するに見合う答えでもあった。 彼に対する不当な態度も含めて、幸太は居た堪れなくなり、おずおずと侍に近付く。 武家でありながら何処か砕けた雰囲気のある若い侍は、どうやらこの地に到着したばかりの様だった。旅装を解いたばかりの様で、まだ踵が泥で汚れている。袴も皺が寄っていて、慌てて捜しに出た様子が、鬢からほつれたひと房から見て取れた。 幸太が声を掛けようとした時、背後からただならぬ気配を感じて振り返ると、黒い大きな塊が突進して来る所だった。それが何なのか理解する前に、幸太の名を叫ぶハクの声を聞き、そして自分の脇から伸びた白刃の切っ先を目にする。 ガタン、という音が聞こえた瞬間に目を瞑ってしまい、自分が引き倒されて尻餅をついたという事くらいしか解らなかった。続いた音が、金属独特のぶつかる音と擦れ合う音で、目を開いてみると常行の腕が見える。社僧の癖に太く鍛え上げられた腕は、幸太の体を守る様に抱きかかえていた。 幸太は何が起こったのか確認しようと顔を上げ、目の前で侍二人が鍔迫り合いをしている様を目にした。黒い塊に見えたのは武家らしき男で、良く見れば頭巾を被り、着物も濃い色だったので黒い塊に見えたのだった。 激しい鍔迫り合いを回避する為に、その男が強引に若侍を押し返し、颯爽と街道の方へ駆けてゆく。幸太はその後ろ姿よりも、その武家が手にしていた刀の禍々しさに気分が悪くなった。 「幸太、大丈夫か!? あやつ、何者なのか心当たりは?」 「昨晩の、辻斬りだと……あッ!」 先程、警告の声を発した付喪神のハクの事を思い出し、幸太は慌てて振り返る。棚の上には何も無く、常行の腕から抜け出して、棚の方に這って進むと、下に落ちた煙草入れを目にして色を無くした。 付喪神はその性質上、壊れたら死ぬ運命にあるのだ。ハクは根付が命を得た付喪神で、頑丈な素材で彫られているものの、落下して壊れないなどという保障は何処にもない。 目を瞑った時の音は、棚からハクが落ちた音だったのだと理解した途端、泣きそうになる。 「幸太、怪我は? 痛む所なぞ、無いだろうな?」 特徴のある声音に、張り詰めていたものが崩れて涙が零れ落ち、煙草入れごと大事に抱える。若侍がその様子を見ながら刀を鞘におさめ、常行を見やった。 常行はその行動の意味を知っていたが、幸太が侍に斬られそうになった事情は解らない。幸太の肩を撫でてやりながら、落ち着くのをじっと待った。 「しまった、今の男を追うべきでした」 「何やら危険な臭いがするので、追わずとも宜しかろう。それより見事な剣捌き。幸太は拙僧の弟分みたいなもの、篤く礼を申す」 「いえ、咄嗟の事ゆえ、彼の袖口を裂いてしまいました」 そう言った若侍の言葉通り、幸太の袖は刀によって切り裂かれていた。先程、幸太が目にした白刃は、この若侍が幸太を守る為に突き出した刀の切っ先で、彼が居なかったら幸太の命は無かっただろう。 若侍の声に我に返った幸太は、涙でぐしゃぐしゃにした顔を上げて、言葉にならない礼を言おうとしゃくり上げる。辻斬りに二度も襲われたという事実よりも、ハクを失いそうだった事の方が衝撃が強く、その分だけ安堵感で涙が止まらないのだった。 「幸太、店を閉めて、一先ずわしの所へ来い。二太郎への繋ぎは小坊主にでも行かせる」 「まだ潜んでいるかもしれませんから付き添います」 若侍の有り難い言葉に、常行も幸太も深く感謝し、茶屋の店仕舞いを手早く進めてゆく。茶店は基本的に簡単な作りなので、店仕舞いはすぐに済んでしまい、売れ残った菓子や私物を持って、急ぎ足で白神神社へと向かった。
白神神社の外れにある路傍には道祖神が祭られており、旅人を出迎えたり見送ったりしている、近所の者なら誰もが知っていた賽の神だ。付近の農民達の手で毎日花を生けたりお供え物をし、古くから大事にしてきている。 背後から追っ手が来ていない事を確かめ、頭巾を被った侍はその道祖神の近くにある窪地に身を潜める。大きな楡の木が木陰を作り、走ったのと頭巾で蒸す暑さを緩和させてくれた。 周囲に人影が無い事を念入りに確かめ、頭巾を取り去る。町中ではいざ知らず、この長閑な街道で頭巾を被った武士など、目立って仕方が無いからだ。 新鮮な空気を肺に送り込んでから、抜き身のままだった刀を鞘へ戻そうとする。するとその瞬間、奇妙な声がした。 「二度も仕留め損ねるとは情けない」 「あれが本当に生き残りなのか」 「そうさ、間違いも多かったけど、今度こそ間違いない」 「殺さなくても良いのではないか?」 「怖気づいたのかい? 生き残りならばお前さんの顔を見ているだろうよ。そうしたらお前さん、お仕舞いだねぇ」 「何故、今頃になって生き残りが出てくるのだ!」 「ヒトの事情なんて知るものか。私は血が見たいだけさ」 最後の言葉に聞くに堪えないと、鞘へ収めてしまう。数秒の静寂の後、小鳥達がさえずり始めて、長閑な時間が再び動き出した。 そんなうららかな現実とは違い、侍の表情は暗く、俯いた為に影を色濃く落としていた。歳を重ねた分だけ深く刻んできた皺は強く浮き出ており、激しい感情で体が小刻みに震えている。 そこで小半時ほど時間をやり過ごして冷静さを取り戻した後、侍は誰にも見咎められる事無く、来た道を何食わぬ顔で戻っていった。
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