今の時代、職の中でも大工は花形で人気のある職業だ。おいそれと技術は身に付かないが、賃金も良く、火事の多い時期には引っ張りだこ。腕前の評判が良ければ、名だたる武家や大店からも依頼が舞い込み、仕事も大勢の人の目に見える「形」として残る為、やりがいがある。 幸太の兄・二太郎は、十になる前から腕利きの棟梁に引っ付いて歩き、自然と弟子の位置に納まっていた。知らぬ者が見たら、二太郎は棟梁の子供に見えたかもしれない。しかし目鼻顔立ち、体型までひっくるめて、二人は似ても似つかぬ風体だ。 棟梁は鬼瓦の様な厳つい顔の典型的な職人肌、二太郎は目元が涼しい役者の如し。 二太郎は酒も博打もやらず、女遊びも十人並み、それでいて真面目に仕事に打ち込むので、近所やお得意先の評判は大変良い。縁談相手としては申し分ない為に、棟梁を通じて幾度か打診があった程だ。 しかしそんな二太郎も、難が有るといえばその生真面目な所で、庶民が慣れ親しむ言葉遊びもトンと気が利かず、大真面目に返して寄越す。その上、ひたすら仕事一本できた割りには貧乏だ。 現実主義の女には、幾ら顔立ちが整っていても、将来に不安を感じてしまうのは無理のない話しだった。そして山と積まれた縁談も、煙に巻かれた様に自然と立ち消えてゆく。 だから当然、二十四になっても嫁がおらず、そこそこの長屋に一人住まいという気楽さを満喫している。最近まで弟の幸太も一緒に住んでいて、更に遡れば父親も同居していたその長屋は、言わば幸太の実家でもあった。 新月の暗い夜道であっても、明かりに頼らず歩けるくらいに慣れ親しんだ道程だ。それはこの界隈を縄張りにした柳の親分も同じ事で、三太に至っては同じ長屋の斜向かいだった。 だからこそ、先行く異変にすぐさま気付けたのかもしれない。三人の向かう長屋の木戸の前に、五,六人の長屋の住人が集まっていて、何やら押し問答をしている様だった。 幸太はすぐさま当たりをつけて駆け出し、それに柳の親分と三太が続く。 「あ、あにさま!!」 「あれまぁ、幸ちゃん!」 「幸太! 良かった、無事だったか……」 「二太郎が今から幸ちゃんを迎えに行くって、聞かなくってね。あたしらは夜四つになるから、今日は来ないって引き止めていた所だったのさ。それにしても、兄弟なんだねぇ……虫の知らせってやつかい?」 挫いた足を引き摺る二太郎の無茶を、近所総出で止めてくれていたと知り、幸太は頭を下げて礼を言う。二太郎も騒がせてしまった事を詫び、幸太を送ってくれた柳の親分と三太にも頭を下げた。 事が解決したと知るや、各々が自分の家へと入っていく。二太郎はそれを最後まで見送ってから、重ねて柳の親分に礼を言った。 「幸太を無事に送り届けて頂き、有り難うございました。今日は兄弟揃って世話になりっぱなしで……」 「なぁに、良いって事よ」 ひらひらと手を振って、尚も礼を尽くそうとする二太郎を止め、三太を引き連れて親分は番屋へと戻ってゆく。 帰ってゆく二人の背中を見送りながら、二太郎の肩の力が抜けてゆくのが幸太にも解った。心配させてしまったと思いながら、兄の怪我の様子をそっと盗み見る。 そこへ、今までひそりとも喋らなかった甲高い声が、二太郎へ話し掛けた。 「幸太は辻斬りに出くわした」 「何だって!?」 「ハク! あにさまには内緒だって、言ったじゃないか!」 「そうは言っておられまい。奴等、“幸太”だと解っておった節がある」 暗がりでも解るほど、二太郎の表情が固くなり、幸太は肝が縮む思いだった。硬い表情のまま二太郎が家に入ろうと促し、幸太は兄に手を貸してやりながら、辻斬りに狙われる理由に心当たりがなくて混乱する。 あんなに見通しの悪い夜道で、しかも川を挟んでいながら、人物特定ができるものなのだろうかと不審な点もある。幸太は考えれば考えるほど、何がどうしてそうなったのか理解できず、ふと、助けてくれた壁を思い出した。 周囲に溶け込む程の古めかしい壁。ずっしりと質量もあって、幻ではなかった。 家に入ってすぐの間に二人共座り、幸太は煙草入れを丁寧に卓袱台の上に置いてから、竹の皮に包んだ物も置く。二太郎もまた、幸太と全く同じ形で色違いの煙草入れを並べ置いた。 二太郎は幸太が話し出すのを待ち、それに答えて幸太が切り出す。 「あにさま、実は辻斬りから私を守ってくれた壁が居るのです」 「――壁?」 二太郎の聞き間違いではないかと問い返す言葉に頷き、どう説明したら良いのか逡巡する。壁に意思が宿っているとしか説明できず、感想を抱いたそのままを二太郎に話した。 不可思議な出来事に兄弟揃って首を捻っていると、何処からともなく甲高い声が喋り出す。 「あれは“ぬりかべ”だ。人の前に立ち塞がるだけで、それ以上の悪さはしない」 「おや、ぬりかべは幸ちゃんを助けてくれたのかい?」 笙の音に良く似た声は二つになり、同じ甲高い音でも音域が微妙に違う事が解る。そしてその声の主を知っている二太郎と幸太は、卓袱台の上に視線を落としていた。 そこには幸太が持って来た竹の皮に包んだ塊と、兄弟揃いの煙草入れがある。その煙草入れの根付が、ほんのりと淡いひかりを発光させてちろちろと動いていた。その正体は付喪神(つくもがみ)と言い、『あやかし』の一種だ。 二人が持っている根付は、同じ職人の手による『鳳凰』で、幸太の根付が『鳳』で雄、二太郎の根付が『凰』の雌。本物の『鳳凰』ではないけれど、腕の良い職人に作られた為なのか、本物と同じ声音を持っていた。 幸太の困った特異体質を見かねた父親が、この付喪神となった根付を持たせ、後に偶然二太郎が質屋でつがいを見つけて手に入れた。煙草入れの布地が色違いだったので、幸太の『鳳』は白(ハク)、二太郎の『凰』は紅(ベニ)と名付けたのだ。 二太郎が貧乏であるという理由の一部は、実はこの根付(煙草入れ)が原因だったのだが、本人は余り気にしていない様子なので、誰も口を挟まない。たまの贅沢だと思えば、色町で花を買うより可愛いものだから。 その付喪神達のやり取りに、兄弟が耳を傾けて更に考える。辻斬りが幸太を狙った理由や、ぬりかべという妖怪が何故幸太を守ったのか、謎が解けない。行き詰まったからなのか、二太郎が辻斬りに関する事を徐に喋り出す。 「最近、この界隈で辻斬りが多いから、俺の方から出向いていたんだが……やはり辻斬りの事を言っておけば良かった」 「その辺は主の落ち度ではあるが、無事だったのだし、良しとせよ」 ハクと兄のやり取りを聞きながら、幸太は成る程、と納得していた。特別な用も無いのに幸太の腰掛茶屋まで足を伸ばし、質素堅実を我でゆく兄が、滅多に口にしない甘味を摘まみながら、他愛ない世間話をして帰ってゆく。そんな最近の兄の珍しい行動に、合点がいったのだ。 いつもなら、三日に一度は幸太の方から二太郎の住まいへ顔を見せる。頻繁に現れる辻斬りに遭遇したらと、兄なりの不器用な気遣いだったのだが、その気遣いは見事に仇となってしまった。 「何で幸ちゃんが狙われたのかねぇ。アタイにはとんと解らないよ」 「あれだけの血臭は、昨日今日で染み付くもんじゃあない。幸太、心当たりは?」 「そんなの無いって、ハクが一番知っているじゃないか……」 「ハクは何故、“幸太”が狙われたのだと思ったんだ?」 二太郎の質問に、ハクは発光させるのを寸の間止めて押し黙る。付喪神であるハクに、感じた事の理由なぞ意味が無いからだ。そう思ったからそれが事実であり、それ以外はない。 あやかしと人の物事の捉え方の違いは、時折、こんな風に会話を止めてしまう。それを重々承知している双方は、考えても出ない答えを追求するのを止めた。よもやこの長屋まで辻斬りが襲ってくる訳も無し、一先ず幸太は小腹が空いたと理由をつけて立ち上がる。 「あにさま、夕餉は?」 「先刻、お富さん達が見舞いにと重箱を置いていったが……見ただけで腹が膨れた気がして、まだだ」 「それであの通りを歩いていたんだ」 幸太はお富と行き会った事を話し、お富の反応に二太郎は「お富さんらしい」と苦笑して返した。そんな二太郎の様子を見た後、付喪神達も辻斬りの話題から離れ、人目を気にしなくても良いとばかりに喋り出す。 どうやら彼等の関心事は、お富と貫二郎がどうやって夫婦になったのかという一点らしい。幸太がそっと離れて様子を窺えば、二太郎に向かってハクとベニが講釈を始めた所だった。最終的に『だから二太郎も早く嫁を貰え』と締め括られるのを知っているので、幸太は笑いを噛み殺し、白湯を作る為に火を熾す。 不安が拭えた訳ではないけれど、二太郎と付喪神達の声を聞いていると、幸太は何とかなるのではないのかと思えてしまう。それに幸太にとって、あやかしより武家の人々の方が遠い世界の話しなのだ。確かに今も尚、恐怖感がじっとりと肌に残っているものの、過ぎてしまえば実感が無いというのが本音だった。 お富が残していった重箱を卓上へ並べ、講釈から説教へ転じている付喪神のをやんわり宥めて、兄弟揃って箸に手を付ける。人心地着いて気が緩んだのか、二太郎はふと、幸太が持ってきた包みへと目を留めた。 「幸太、これは?」 「饅頭です。お茶漬けにして食べようと思って持ってきたんですけど、用無しになってしまいましたね」 「…………そうか」 お富達の寄越した心遣いが無ければ、二太郎の夕餉が饅頭茶漬けになってたと察し、付喪神達は文字通り閉口した。付喪神達は「物」のあやかしなので、食べるという観念が無いけれど、幸太が思っているより二太郎が甘味を苦手としている事は知っており、思わず饒舌だった舌を引っ込めてしまったのだ。 付喪神に舌があるかどうかはこの際問題ではなく、あやかしでさえ気付いたというのに、弟である幸太がまるで頓着しないのだから呆れ返るのも無理はない。 三太が評した通り、幸太が「のんびり者」だからなのか、誰もが強く言えずにいる。悪気がないのだから始末に負えないのだけれど、幸太の顔を見ると済し崩しにあやふやになってしまうから不思議だった。 そんな幸太にとって一大事となった辻斬りとの遭遇は、この後多くの人々を巻き込んだ騒動となるのだが、まだ人もあやかしも、先行きの展望を想像しない、静かな夜を過ごしていた――。
* * *
久しく雨の恵みに包まれぬ蒼い空へ、真っ直ぐ伸び上がる青い竹の姿は、からからに乾いた大地の代弁者の如く、雨を寄越せと空を突き刺す槍に見える。槍は規律正しく空を目指し、それを支え添う様に、白壁は人の住まう家屋敷をぐるりと囲っていた。 白壁に守られた敷地内では、雪解けと同じ時期に元服を迎えた若侍が二人向かい合っている。立ち姿は竹に似て真っ直ぐ背筋が伸び、袴の裾から覗く白い足は白壁に溶け込んでしまいそうだった。 二つの姿は、合わせ鏡を見ている錯覚を覚える程に似通っており、白壁が無ければ竹林の一部と見誤ったかもしれない。しかし彼らは竹では無いし、近くで見れば全く似ていない別人だと解る。 白壁を背にして立っていた若者が、顔を上げて片割れを見つめる。俯かず、目を逸らさずにいた片割れの双眸とかち合い、後ろ暗い事など無くとも背中の産毛が総毛立った。それを気付かれまいとして、腹に力を籠めて真っ直ぐに見つめ返す。 相対した彼は、左肩が少し下がっているのが不恰好な筈なのに、眩しく見えるのは下がる理由を知っているからだ。いずれ己もそうなるべくしてなるのだと、先を越された思いが先走る。 顔を上げるのを待っていたかの様に、息を小さく吸い込んでから口を開く。発した音は肺や喉に響き、空気を微量に震わせて双方の耳へ届いて、しっとりと身体に浸透してゆく。届いた言葉を噛み締めて、醜い感情が払拭された事にさえ気付かずに目を瞠っていると、ゆるりと頬を緩ませて片割れが微笑んだ。 微笑んだ瞳が優しい色をしていたのは、白壁の向こうに広がる竹林の色を映していたからなのか、元より宿していた色が陽の光に反射して淡く見えたのかは知りようも無く、その色が己にも宿っているなど考えも及ばない。 強い風が鋭利に尖った笹を揺らしてざわめき、耳を塞ぎたくなる様な音の洪水へ、続く言葉を全て飲み込んで、二つの影はしなって折れない竹に紛れた。 騒音の中の静寂が終わりを告げて平時へと戻った頃、若侍の姿無く、ただ風に攫われた笹が、一葉、二葉、ひらりひらりと舞うだけだった。 真っ直ぐに伸びる槍は空を目指し、空は雲を追い流す風を抱いている。気紛れな風は天恵を未だ連れて来る気配を見せず、大地はただ、その時を待つのだ。
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