硯に流し込んだ墨がとろりと広がった様な、そんな深い闇の中を、カタカタと軽快な下駄の音を立てて歩く人物が居た。歩く振動はどこか逸る気持ちを抑えている様で、寸の間も立ち止まる事無く、前へ前へと雨上がりの道を歩んでゆく。 夜の群雲から微かに覗いた月明かりで、ほんのりと浮かび上がった姿は、まだ歳若い青年だ。若者は夏によく映える藍染めの着物を着こなしており、懐具合がいつも宜しくない彼の為に、知り合いが格安で譲ってくれた、中々の一品だった。 身分はそう高くは無いのだろう、長屋の木戸が閉まる刻限が差し迫る中、供の者はおろか、提灯も持たずにいるのに、通い慣れた足取りで闇夜を物ともしなかった。 手には両手で包み隠せる程の、竹の皮で包んだ物を大事そうに持ち、腰から下げた煙草入れの根付がゆらゆらと揺れている。時折、その根付が闇夜にきらりと光るのは、あつらえた石が月明かりに反射するからなのか、それとも別の理由があるのかは解らない。ただ、その煙草入れの中には煙管は入っておらず、その代わりに小振りの矢立が入っていた。 若者は白壁の土塀を川向こうに臨み、橋を渡る事無く、川縁の道を長屋方面に向けてひたすらに歩く。 「やれやれ、すっかり遅くなってしまった。あにさまはご無事だろうか」 「さてねぇ……あれで結構、恐がりな性質だから」 「おや、あにさまはただの打ち身だろう?」 闇の中で交わされる会話は、確かに二人分だというのに、人の目に映るのは痩身の若者だけだった。大きな独り言と判断するには、声音が明らかに違う。少し甲高く、それでいて落ち着きのある声は、何処か雅楽の笙を思わせた。 柳の枝垂れが夜風にふらりと動くと、その声が若者へ静止しろと告げ、それを最後に喋らなくなってしまった。 若者は声の主に言われた通り、素直に立ち止まって暗闇に潜む何かを見つめる。すぐにはそこから歩き出そうとはせず、空いている手を無意識に煙草入れへと移動させた。 暫くそうして佇み、ねっとりとした風が再び柳を揺らすと、再び甲高い声が若者へ声を掛けてくる。 「今宵は風流な夜とは言い難いやもしれん」 「急いだ方が良いかな?」 「そうさね」 そう言われるなり、若者の足が忙しなく動き出す。左手の川向こうで、同じ方向へ動く影を目の端で捉え、若者の背筋をひやりとさせた。心の蔵は太鼓を叩く様に打ち付けており、大切な包みを持つ手には、緊張の汗がじわりと滲み出る。 意識を再び川向こうへやれば、相手は若者より足が速い様で、斜め前を駆けて行くのが解った。しかも気配は一つではなく、少なくとも二つはある。 「幸、はようせんか!」 「無体なことを言わないでおくれ!」 叱咤する声に情けない声を上げながら、若者は慣れぬ駆け足と緊張で、息切れして足が縺れそうだった。それでも必死に走るのは、川向こうの影は遠くでも解る程、殺気と血の香りがしたからだ。進行方向には自身番所も有るのだが、それは次の橋が掛かっている道を越えた、先に有る。大声で助けを求めても、相手の足が速いから先回りされてしまうし、幾ら考えても詰めているだろう番太は間に合わない。 橋の手前に右へ折れる分かれ道があるから、そこを曲がって入り組んだ地理を有効利用するしか、助かる術を思い付かなかった。 しかし、現実は無常だ。月が雲に隠れた闇の中、前の橋を渡る足音が耳に届き、若者はどうあっても逃げ切れないと悟ってしまう。 引き返そうという考えが掠めた時、信じられない物が目の前に在った。暗闇で見通しが悪かった為に、気が付くのが何拍か遅れたのだが、淡い月明かりの下でもそれは威風堂々とそこに在る。風景の一部として何ら不可思議な点は無いのだが、通い慣れたこの道を熟知している若者にとって、それは明らかに不可思議だった。 川向こうの区域は武家の下屋敷が多く有り、こちら側は商人の家屋敷と、生活に少し余裕のある町人が住まう長屋でひしめき合っている。この道に面した戸口は商家の裏口で、木戸を叩いて助けを求めたとしても、この時間帯は母屋の方に人が居るので、家人が扉を開けた時には若者の息は無いだろう。だからこそ、必死に表通りへ出る道を目指したのだ。 だが、その分岐点である分かれ道は無く、その代わりに行き止まりになっていた。 「……あ、れ? 変だな……」 切れ切れの呼吸を整えながら、身長を遥かに越えた土塀を見つめる。武家屋敷の白壁程ではないけれど、立派な作りをした古めかしい壁が、若者の行く手を阻んでいた。 恐る恐る近付いて、若者は手を壁に触れさせる。冷たくてどっしりとした質感は、確かに壁がそこに存在すると主張していた。 自分の記憶を覆すその壁は、若者の行き先を阻んだだけではなかった様で、壁向こうでは息の荒い男の声が聞こえた。悔し紛れに壁を蹴り、川向こうの道を走って引き返す様子が間近で聞き取れる。背後から回り込むつもりなのだろう。 「困ったね……あにさまの長屋も番屋も、向こう側だ……」 「呆けておる場合か!とく、走れ!」 一縷の望みを胸に、すぐ近くの商家を頼ろうとし、裏木戸まで歩けずにへたり込んでしまう。若者の膝はガクガクと震え、今や不可思議な壁に手を着いて、やっと立てる状態だった。 ふと、若者は壁に触れている手を見やり、もう一度壁を見上げる。もしか、という思いに駆られて、口を開いた。 「私は白神神社の門前に小さな腰掛茶屋を出している幸太という者です。あにさまを見舞いにこの先へ行きたいので、通して貰えませんか」 そう言うなり、くるりと壁に背を向ける。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、もう一度振り返ると、若者の良く見知った道が開けていた。正面から吹く風は湿気を含んでいるけれど、血生臭さが無く、自身番の提灯が先に見える。 「有り難うございます」 「幸、急げ!」 見えなくなった壁に対して頭を下げると、若者は気力を振り絞って足を踏み出す。まだ覚束無い足を必死に動かして、追いつかれやしないかと背後を見やれば、またあの壁がそこに在り、無言の励ましを受けた心持ちになる。 ほうほうの体で自身番へ駆け込んで助けを求めるまで、気は休まらなかったけれど、あの壁が助けてくれたのだと思うには、充分過ぎる出来事だった。
* * *
自身番所には幸太と顔馴染みの目明し・柳の親分と、手下の三太が夜番をしていた。親分の名は捨吉といい、柳の木が多い界隈を縄張りにした事から、名前より「柳」で通っている。ごろつき上がりの多い岡っ引きの親分衆の中で、驚くほど気性が優しく、実際にも甘党だ。下っ引きの三太は幸太と「太」の字が同じ事や、歳や幼い頃の住まいが近かった事から、意気投合した馴染みでもある。 その二人の姿を見て安心したのか、幸太は番屋に入った途端に腰が抜けてしまう。そんな様子に何事かと慌てて駆け寄った二人に、幸太が掻い摘んで事情を話すと、血の気の多い三太が表へ飛び出していった。すぐに親分の制止の声が掛からなければ、そのまま闇夜に消えてしまっていただろう。 柳の親分は幸太の話しを聞き終わると、「ふぅむ」と妙な声を出して逡巡し、自分が飲むつもりだった温かい甘酒を幸太に勧めた。 「実はこの所、辻斬りが横行しておってな」 「え、辻斬りですか!?」 「お前さん、目を付けられちまったみてぇだな」 親分の言葉に衝撃を受けたのは、幸太ではなく三太の方だった。真っ青な顔で親分に詰め寄り、捲し立てて「早いとこ、下手人を上げましょうや!」と息巻く。しかし親分はそんな三太に困った顔を向け、武家にたかが目明しや町方が手入れ出来る訳が無いと窘めた。 悲鳴とも聞こえる三太の声に、慰めにもならない様な親分の言葉が続く。 「きゃっつ等、二本差し以外なら誰でも構やしねぇ。だから“辻”斬りって言うのさ」 「行きずりなら、もう狙われやしませんよね?」 「そいつぁどうかな」 この返答に、幸太も三太も息を呑む。幸太は先程の恐怖が蘇って、ぞわぞわと首筋の辺りがざわめき、三太は理不尽な成り行きに腹を立てて言葉も無い。そんな若者達へ複雑な眼差しを向け、親分は幸太を兄の長屋まで送って行こうと申し出てくれた。 まだ口をつけていない甘酒を飲めと言われ、幸太は素直に甘酒を喉へと流し込む。温かくて甘い物は、恐怖で縮こまった心と体を和らげてくれた。 幸太が徐々に落ち着きを取り戻したのを眺めながら、柳の親分は三太に外の様子を探れと指示を出す。けして遠くまで行くなと釘を刺し、親分も簡単に身支度を整えた。 「二太郎は梯子から落ちたらしいが、尻と足を強く打ち付けただけで、大したこたぁねぇぞ」 「親分さん、あにさまを見舞って下さったんですか?」 「あいつを現場から担いで、万年床に押し込んだのは俺だ。ちと、働き過ぎなんだよ」 にやりと笑う親分に、幸太は深く頭を下げて礼を言う。兄・二太郎はよく働くのだが、匙加減を知らない。放っておくと、休み無しなんて事が平気で起こるのだ。 大工仕事だから、疲れは死に繋がってしまう。棟梁が気の利いた人でなければ、とうの昔に命を落としていたかもしれない。今回も棟梁が柳の親分に頼んで、強引に長屋へ帰したくらいなので、怪我を押して明日も現場へ行く心積もりだろう。 幸太は自分が先刻まで死に掛けた事を忘れ、兄の心配で頭の中がいっぱいになる。ただの打ち身だと聞いていたけれど、まさか梯子から落ちたとは思わなかったのだ。せいぜい、歩いていて何処かに脛をぶつけたとか、ぼぅっと歩いていて柱に頭をぶつかったとか、そんな風だと思い込んでいた。 そんな幸太の考えを読み取ったのか、親分は苦笑して続ける。 「お前さんと違って、二太郎は頑丈だ。あいつなら一里駆けてもへばったりしねぇし、真冬に川へ飛び込んだって、風邪の方が裸足で逃げ出す。今日はたまたま、落ちる先に近所の悪ガキが居たんで、避けようとして受け身が取れなかっただけだ」 親分の大きな手が幸太の肩口を力強くトントンと叩き、甘酒を飲み干した湯飲みを取り上げる。ひょい、と三太が顔を出して、誰も居ないと告げると、親分は幸太に行こうかと誘った。 先程まで笑っていた膝も元に戻り、そろそろと幸太は番屋から出る。両脇を親分と三太が固めてくれたので安心していたけれど、自分のせいでこの二人が襲われたらと思うと、気が気でなかった。心配性の幸太を三太が元気付けようとし、他愛ない世間話を持ち掛ける。 「振り売りの源吉って知っているか? 何でも壁に追い掛けられたって、奇妙な事を言っているらしいぜ」 「え、か、壁?」 幸太はギクリとして立ち止まる。それを恐怖からくるものと勘違いして、親分が三太へ恐がらせてどうすると言っていたが、実はそうではない。幸太は先程の壁に助けられた事は、この二人には言ってはいない。信じてくれるとは思えなかったし、何となく喋るべきではないと思ったのだ。 強い不安を感じるとする癖なのか、幸太の手は再び煙草入れに触れる。助けてくれた壁の事を、言うや否か。 「恐くねぇって、最後まで話しを聞きな。その壁、道を塞ぐだけで何にもしないんだけど、足を伸ばして武家屋敷の方へ商売広げようって日に限って、通せん坊するんだってさ」 「振り売りが武家屋敷だと?」 柳の親分もそれは初耳だった様で、また妙な声を上げて考え込んでしまう。幸太も親分も立ち止まったままだったので、急に何か拙い事を言ったのかと、三太は不安そうに二人を見比べる。 立ち往生している三人へ、場にそぐわない明るい声が掛かり、三太はホッと胸を撫で下ろした。 「おや、柳の親分さんじゃないですか。子連れで何処へおでかけで?」 「子連れ……って、お富さん、そりゃないよ!」 「ふふふ、三太の坊やも大きくなったもんだねぇ。おやおや、もう一人は幸ちゃんじゃないのさ。二太郎の見舞いかい?」 小紋ちりめんの着物を粋に着こなし、しゃきしゃきと歩み寄ってきたのは、小料理屋を営んでいるお富という女性だった。安くて美味いと評判の店は繁盛しており、客足が絶える時間が無い程だ。男の客の八割はお富の気立てと容姿が目当てという噂だが、彼女の旦那が強面で口には出せない。 夜道を女一人かと思いきや、お富の背後にのっそりと大男が突っ立っている。四角い顔立ちに太い眉、開けば拳が入りそうな大きな口をした、お富の旦那・貫二郎だ。 簡単に挨拶を交わし、親分は二人へ辻斬りが出た事を告げた。流石の辻斬りも、貫二郎が傍に居るお富を狙うとは思えないけれど、念には念を入れておいても損は無い。案の定、お富は笑って心配要らないと言い、それでも親分の心遣いに感謝の言葉で締め括る。 「親分さんも三太も、お武家相手で気を揉むでしょうが、被害を最小限にして下さいまし」 「努力はしているつもりだがなぁ」 「! ちょいと、親分さん! ひょっとして幸ちゃん、辻斬りに……!!?」 「何とか番屋に駆け込んでくれたが、二太郎の長屋までは気が抜けねぇから、送って行く所さ」 お富が真っ青な顔で幸太の体中を調べ、怪我一つ無い事を確かめて安堵の笑みを浮かべる。そして徐に幸太を抱き寄せ、無事で良かったと喜んでくれた。 気恥ずかしさから幸太がお富の腕をすり抜け、居住まいを正して親分の後ろへと避難する。実はこのお富、亡くなった幸太の母親とは歳の離れた妹で、自分に子が出来ない事から、幸太を実の子の様に可愛がっていた。 幸太が数えで十九、お富が三十路に入ったばかりなので、姉弟と言われても不思議は無いけれど、お富は母親の気分なのだ。 幸太は親分の背に隠れながら大丈夫だからとお富に言った時、頭上から降りてきた何かに額付近をなでなでされて、度肝を抜かれる。親分の掌より遥かに大きなそれは貫二郎のもので、料理ダコが妙な具合に当たって、複雑な気分だった。 そんな過保護な二人を親分が笑い飛ばし、無事に二太郎の長屋まで送っていくと約束をした。夜四つ近く、長屋の木戸も閉まってしまうし、今晩は兄弟水入らずだろうと付け加えて。 親分と二太郎の傍なら安心だと、お富は納得して漸く別れる。後に残された静寂が、親分に妙な笑いを引き出した。 「ははは、幸太も店持ちの一人前になったってぇのに、お富さんは相変わらずの様だな」 「……子ども扱いされる程、私の事が心配なんでしょうか……」 「二太郎さんはしっかり者だけど、幸太はのんびり者だからじゃねぇの?」 「うう……」 「そういう三太も、うっかり者だがな。さ、行くぞ」 親分にさらりと言われた厳しい言葉に、三太の頬がぷっくり膨らむ。それでも言い返さないのは、自覚があるからなのだろう。きっと良い目明しになると幸太は思い、二人に守られながら夜道を急いだ。
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