階段を上がると僕の視界に入ったのは一気に現実に連れ戻されるような現状だった。当たり前だけど埃かぶった祠は埃くさいままだ。淀んだ空気に思わずむせ返る僕。曇りガラスのように濁った空気を振払うように僕はかぶりを振った。この剣よりなにより、僕はこの祠をなんとかしなくてはいけないのだ。僕とクルーは顔を見合わせて項垂れた。まだ半分も終わってない。それなのに明かり取り用の窓からは茜色を帯びはじめた陽が差し込んでいて、どうやら僕は数時間、地下空間で気を失っていたらしい。 「くるっぷー」 「そうだね、リュ―兄にも手伝ってもらおうか」 あんまり気が進まないけど仕方ない。だって二人じゃ終わりそうにないもの。それにリュ―兄ならきっと喜んでやってくれるだろう。 「あっ、この剣のこともリュ―兄に聞いてみようかな。ね?」 僕はクルーの顔を覗き込んだ。するとクルーは困ったように小首を傾げる。その反応の意味がわからなくて僕まで首を傾げてしまった。その反応は何? 「クルーはこの剣のこと、知ってるの?」 クルーはほんの少し間を置いたあと、小さくかぶりを振った。でもね、クルーはそう言うように顔を上げる。けれどその先を僕は聞くことができなかった。クルーが話そうとした時、祠の外からガラスの割れる音が聞こえたからだ。それも一枚じゃない、数枚が連続して割れる音。その激しさに僕は思わず肩をすくめた。 「何の音?」 「くるっぷー」 僕とクルーは顔を見合わせた。自慢じゃないがロッコ村は激しさと無縁の村なのだ。ガラスが割れるだけで話題騒然の村で、これはただごとじゃない。外のざわめきが僅かに聞こえてくる。それとともにまた破壊音。木の筋がじわじわと折れていく音が聞こえ、数秒後に重低音が地面を響く。大木を切り倒す時と同じ音だ。同時に切り裂くような悲鳴が聞こえて僕は両目を瞑ってしまった。 ――怖い。僕の足は震えていた。何が起こっているのかわからない分、その恐怖はひとしおだ。僕は両膝を抱えるように座り込んだ。僕の両膝が震えている。力が入らない。そんな僕を安心させるようにクルーが僕の頬をなめてくれた。クルーのざらついた舌のあたたかさが僕を安心させてくれる。 「ありがとう、クルー」 「くっぷぅ」 クルーがぎゅっと両目を瞑る。僕は笑って、クルーののど元を撫でてやった。クルーのおかげで少しずつ、少しずつ僕の気分が落ち着いていく。 「そうだ、リュ―兄は?」 そして、真っ先に浮かんだのはリュ―兄のことだった。こんなところにへたりこんでいる場合じゃない、リュ―兄が巻き混まれていたら大変だ。僕はすぐさま立ちあがった。リュ―兄を守らなきゃ。リュ―兄の家族は僕らだけなんだから。僕は拳を握って気合いを入ると、祠の外へと飛び出した。 祠の外は僕が思った以上の惨劇だった。村の建物のガラスというガラスが全て割れている。無数の切り傷を体につけた植栽が地面に横たわっているし、建物の壁面には鋭い刃物で斬りつけたような痕が無数に残っていた。何より、この血の匂い。僕は鉄臭い匂いによろめき、祠にもたれかかった。反射的にセーターのネックを自分の鼻下までずり上げる。しかし、もちろん鉄臭さは消えなかった。
何だ、この惨劇は。
何が起こったらこんな風になるんだろう。僕は状況を把握しようと周りを見渡した。けれど混乱した頭には何一つ情報は入ってこない。ただ僕の視界に映るものをただ見ているだけ。人の騒ぎ声と悲鳴が聞こえた気がしたけれど、それも僕の耳に入ってこなかった。それでも考えなければと自分に何度も言い聞かせたが、僕の脳は理解するより先にショートするらしい。ぐらり、僕の視界が揺れる。足の力が抜けて僕は重力に従って倒れこんだ。 「サン!」 そこへ、倒れた僕を誰かの腕が抱きとめてくれた。おかげで僕は堅い地面にぶつかることなく、それどころか安心できるようなぬくもりが僕の体を伝う。 「サン、大丈夫か?!」 体を揺さぶられ、僕はうっすらと目を開けた。見慣れた赤茶色の髪と同色の目。ぼやけていた視界は徐々に定まり、青年の顔を形作る。彼の真ん丸の目が僕を心配そうに僕を見つめている。いつもは穏やかに緩んでいる目元が今は皺が寄り、ひどく厳しい顔つきだと思った。 「……リュ―兄?」 僕の目の前に居たのはリュー兄だった。リュ―兄は僕が意識を取り戻したのを確認すると、安心したように微笑んだ。それからリュ―兄は僕の手を取り、僕が立ち上がるようひっぱりあげた。なんとか僕は自分の両足で立ち上がったが、やはり漂ってきた血の匂いに再度倒れてしまいそうだ。 「これはどうなってるの?」 「なんと説明していいのやら」 リュ―兄は眉をひそめ、何とも言えないと言って肩をすくめた。僕は頷いた。 「ただ、風が」 風?リュ―兄の言葉に僕が眉を寄せた、その瞬間。一陣の風が吹き、僕は風の強さに驚いて身を縮めた。
――後に思えばこの時、僕がすぐに走り出せばよかったのだ。もしくは地面に伏せればよかった。けれど僕はそのどれもをすることができなかった。この風がまさか全ての元凶だなんて思いもしなかったから。
「サン!」 名前を呼ばれ、気が付いた時には僕はリュ―兄の腕の中に居た。リュ―兄は覆いかぶさるように僕とクルーを抱きしめる。鳥が一斉に飛び立つ音と森の木々が枝をこすりあわせる音が聞こえた。いつもならいくら強い風が吹いたってこんな音聞こえないのに。 風は過ぎ去ってもなお、しばらく僕は身を堅くして周囲の様子をうかがっていた。ハルにはめずらしい無風の時間が続く。いや、もしかしたら弱風が吹いていたかもしれないが、あれだけの強風の後では気にならなかった。 「すごい風だったね」 ね、リュ―兄。僕はリュ―兄に声をかけた。けれど返事がない。 「リュ―兄?」 僕はリュ―兄の背を叩く。そして、固まってしまった。掌に感じたぬるりとした感触に思考が止まる。なんの言葉も出てこなくて、呻くように呟いた「リュ―兄」の言葉は声になっていたかどうか。僅かに上体を引けば、リュー兄の体が僕の方へ倒れこんできた。 僕は思わず息を呑んだ。僕のひざ元に倒れこんできたリュー兄の背中が、左肩から右腰にかけて大きく裂けている。裂け目から赤黒い血がしみだして、リュ―兄のシャツとベストを赤黒く染めていくのが、僕の目にも見てとれた。僕の鼻を刺激する血の匂い。僕は自分の赤く濡れた掌を呆然と見つめた。 「リュ―兄」 リュ―兄が、僕の呼びかけに答えることはなかった。
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