風が唸る、とはきっとこのことなんだろう。 風は馬が土を蹴る音すら掻き消すほど大きく、ぼくは耳元を過ぎる風の音の恐ろしさに思わず耳を塞ぎそうになった。けれど馬から手は離せない。今、手を離せばぼくは確実に地面へ叩きつけられるだろう。こんな猛スピードで森を駆け抜ける馬から落ちれば――それこそ恐ろしいことになる。 ぼくがここまで速く馬を走らせたのは初めてだった。こんな道のない場所を駆け抜けるのも。でもぼくはこの茂みを抜けるのが一番の近道だと知っていたんだ。そしてぼくは急いでいた、ぼくは近道を選ばなくてはならなかった。 地面に生える雑草を蹴散らして馬は進んでいく。日の当たらないせいか、色の抜けた木の幹がぼくの横を現れては過ぎ、現れては過ぎる。目にも止まらぬともこのことだろう。 生気を失ったような細い木々はおばけのようだとぼくは思う。ふと、木の枝がぼくの頬にかすった。痛みにぼくは両目を瞑る。けれど、決して馬は止めない。ぼくの原動力は不安、ただそれだけだったけど。 夜のような森の中をひたすら掛けて10分ぐらいだろうか、ふと森の中の光が強くなるのをぼくは感じた。光の強さは次第に増して、2本の杉の木の間を駆け抜けた瞬間、ぼくの視界が一気にひらけた。 丘だ、ぼくは小高い丘の上へ出た。丘の脇道を下れば街に出る。ぼくは馬の速度を落とし、ゆっくりと丘の先端へと歩みを進めた。 「天(テイエン)」 その言葉はちゃんと音になったかどうか。ぼくはごくりと喉を鳴らした。ぼくのこめかみを汗が伝った。 眼下の地上に広がる森。風に揺られ大きなうなりを見せる木々。そして、その真ん中に一つの大きな都市が見えた。あれはぼくのめざす街だ。 でもぼくの視線は都市ではなく、ぼくの眼前に広がる紫の空に注がれていた。まるで夕方のような空には、鮮やかな白が映えている。 白く、大きな雲のかたまり。 半端じゃなく大きい雲だ。遠いながらにそれが、絵で見たそのままであることはわかった。渦を膜巻くように動く雲は、流れずその場にとどまったまま強い威圧感を称える。あまりの見事さにぼくは見とれてしまった。 奇麗、だけど恐い。壮絶な奇麗さはぼくに更なる不安を抱かせた。ぼくの胸が騒ぐ。この不安が現実になりませんように。ぼくはただ、そう願った。
――けれど。
あっ!とぼくは短く声を上げた。瞬間、空が乱れる。雲が散る。
――――落ちる!
「レイ!」 唐突に、目が覚めた。 僕の視界にはいつもの見慣れた天井。僕は呆然とその天井を見つめた。自分の息づかいがいやに荒い。激しく上下する自分の胸元が視界の端に映っている。僕は自分の顔を両手でなぞった。何度触っても僕は僕、オルト=サンだ。 オルト=サン。サン。 僕は繰り返し自分の名前を呼んだ。そうしないと自分が誰なのかわからなくなりそうだ。正確に言うと僕が誰なのか忘れそうだという方が正しい。普通ならあり得ないことだとは思うが、幼い頃の記憶がすっぽり抜け落ちている僕にとってはあり得ないことじゃないのだ。 数秒経って僕の意識がようやくはっきりとしてきた頃、あぁそうか、今のは夢だったんだと気が付く。僕は深く息を吸い込み、長く息を吐き出した。僕のこめかみを汗が伝っている。汗で濡れたシャツを肌からはがしながら、僕は腕で額の汗を拭った。その時だ、腕が自分のまつげと頬に触れて、僕は初めて気が付いた。
……涙?
涙が僕の頬を伝っている。頬のひんやりした感触に僕はただ戸惑うしかなかった。僕は一体何の夢を見た?かけらも覚えていないから不思議だ。自分で叫んでおきながら『レイ』が一体何なのかもわからない。この涙は苦しさからなのか、嬉しさからなのか。多分答えは前者だけれど、何の感情かはっきりとはわからなかった。だけどこういう時、僕は決まって涙を流すんだ。これだけは現実。
|
|