「だめだ。セグランは私のために平気で無茶をする。だから、ひとりではだめだ。私も手伝う。なにをすればいい。教えて。お願いだ、セグラン」 セグランは顔を上げた。視線がぶつかる。 「……仰せの通りに。では、すぐにはじめます。もう既にステラの魂魄はここにはおりません。が、まだ完全に放れたわけでもありません。私はいまからあとを追います。王子は私とステラの手を握ってください。そして強く、心の中で私たちの名をお呼びください。ただし、声に出してはいけません。私に話しかけてもなりません。戻ってこられなくなる恐れがあります。よろしいですね?」 「わかった」 「では、はじめます。どうかお力をお貸しください」 セグランは皮手袋を脱ぎ捨て、ステラの眉間に左手の人差し指と中指を揃えて触れた。右の人差し指と中指は自分の眉間に添える。眼を閉じる。それから呼気を整え、ステラのそれに徐々に合わせてゆく。細く、細く、ゆっくりと、ゆっくりと……そして完全に重なったその刹那、間髪おかず、セグランの魂魄はふっと肉体を放れて、みるみる飛翔した。 遠く遠く遠く、遠く遠く遠く、遠く遠く遠くへ―----- 彼方へ、遥か彼方へ―----- セグランの魂魄はその肉体から一条の光の尾を引いて、まっしぐらに飛んでゆく。ステラの光の尾を追って。 いまにも意識が途切れそうなぎりぎりの精神をもって、セグランはステラを追った。 魂魄を追うのはこれがはじめてではないが、それでも、もっていかれそうだ、と思った。そもそも、自分程度の魔法知識で、十分な準備もなく、試みていい技ではない。 ―-----どこだ……。 ―-----どこにいる……? セグランは意識を集中させた。かつてない域まで研ぎ澄まし、ぐんぐん、ぐんぐんと、ステラの航跡に迫ってゆく。 ―-----いた。 呼びかけは、一度きり。二度はない。失敗すれば、もう追えない。意識を保てる人の限界域をだいぶ突破しているのだ。 ともすれば、自我を失いそうな局面において、だがセグランを支えるものがあった。 王子の声が聴こえる……。 キルヴァ様……。 心が、ふつふつと熱いもので滾る。力が、湧いてくる。 この一度の呼びかけに、すべてを注ぐ。 ―-----すべてを賭けて、呼ぶ―-----!
ステラ! あなたは、生きるのだ。 そちらではない、こちらだ―-----こちらだ。 そうだ、こちらだ。
共に、還ろう。 共に、還るのだ、王子のもとへ―----- 私たちの王子のもとへ―-----!
かっ、とセグランの眼が開かれた。と同時にくずおれる。 「セグラン」 キルヴァは破顔して、セグランの首にぎゅっと腕を巻きつけ抱きついた。 「よかった、セグラン」 セグランは荒々しく喘鳴を吐き出しながら、キルヴァの後頭部を撫でた。小さな手の温かさが、嬉しかった。 「……ただいま、戻りました。ステラも、無事です」 「うん、ありがとう」 「……ずっと、名前を呼んでいてくださいましたね……ありがとうございます。おかげで、助かりました。私ひとりでは戻っては来られなかったでしょう。病状は、どうにもなりませんが……しかし、魂魄さえあれば、時間はかかっても徐々に良くなるでしょう」 「まあ、乗りかかった船だ、あとは俺が看るさ」 ジアはセグランに水を渡した。 キルヴァは気恥ずかしげに離れ、セグランは受け取った水を一気に飲み干した。 そして一息ついて、言った。 「王子、私たちができることはすべてやりました。まもなく日が落ちます。夜になる前に、戻らねばなりません」 「……うん。でも、あの、もうちょっとだけ。ステラが眼を覚ますまでついていたい」 セグランは姿勢を正し、首を振った。 「いつ眼を覚ますかわからないものを待つわけにはいきません。お判りでしょう?王子が戻らねば、大変な騒ぎになります。大勢の人間が捜索に出ます。そうなったあとでは、今日あった出来事すべてが露見する危険があります。このことは、湖でも誓ったとおり、私と王子と、そしてジアの、絶対の秘密です。あなたはもうここへは来られません」 「えっ」 「あなたは今日ここへは来なかった。湖ではなにもなかった。そういうことにしなければならないのです。無論、天人のことはひとことも言ってはいけません。できれば忘れてほしいくらいですが、それは無理なことでしょう?」 「忘れるなんて、できない。でも、セグランの言うことは、わかる。正しいと、思う」 痛ましいくらいの努力で自らを納得させんとするキルヴァは、いつにもまして、大人びて見えた。 キルヴァは苦しさを我慢した表情で、ジアに寄って、手を握り締めた。 「でも、せめてステラがどうなったかは知りたい。よくなっても、わ、悪くなっても……絶対に恨まないから、教えてくれる?」 「それとわからない方法でセグランに伝えよう」 「ありがとう」 セグランは、ジアに詳細を話さなかったことは正解だったと思った。万が一ジアがステラに色々訊かれても、知らなければ答えようがない。湖で起こったことは、本当の意味で自分と王子の二人だけの暗黙の秘密なのだ。 「王子」 ジアはキルヴァの手を取ったまま、ぎこちなく膝を折った。 もう、坊とは呼べなかった。 「あなたは賢い。自分がどんな身分であるのか、きちんとわきまえておられる。ときにはその垣根を払い、ときにはその垣根を高くする。なにがよくて、なにがいけないか、なにが正しくて、なにが悪なのか、それが人の基準では測れないとき、自らの心に従うすべをもはや身に着けておられる。だから、どうか覚えておいてくだされ。天人は、人の力では扱いきれぬ者、人の心ではわかりあえぬ者……人ならぬ者なのだと」 ジアはキルヴァの手を押し戴いて、鈍い動作で立ち上がった。 「さあ、行きなさい。山の夜は早い。獣も出よう。途中まで送りたいが、この者についてなければならんのでな」 「……いつも面倒ばかりかけて申し訳ありません。いつかこの身でご恩が返せればよいのですが」 「もういい。それより、気をつけろ。天人は群れる生き物だ。おそらく、この者の行方を捜しているはず。おまえたちには天人の気配が染みついている……自分じゃわからなくとも、ついているんだ。いきなり襲われても不思議じゃない。帰る前に、これを塗っていけ」 渡された小さな袋は口が紐で閉じられていて、中には黒い粉末が入っていた。 「……なんですか?」 「なんでもいい。水で溶いて、肌の露出した部分に塗るんだ。少量でいい。余ったら、持って行け。あとでなにかの役に立つこともあるかもしれん」 ジアはセグランの二の腕をぐっと掴んで引き寄せ、キルヴァの耳にはいらぬよう、ほんの小さな声で戒めた。 「……覚えておけ。このさきなにがあっても、決して天人を敵に回すな」 「……はい」 「よし、行け」 「はい。あなたもどうか、ご健勝で。―-----王子、そろそろ参りましょう」 キルヴァはステラの傍にいた。今日逢ったばかりなのに、なぜかとても近しく感じられて離れ難い。だが、セグランが呼んでいる。もう行かなければ。 「……いつか、もう一度逢えるような気がする。だから、さよならは、言わない」 またね、とキルヴァは誰にも聞こえないように呟いた。 ジアの指示のもと、天人避けの薬を塗って作業小屋の外に出てみると、もう日暮れ時だった。紅と橙色の夕焼けが空を染め、紫色の雲が薄くたなびいている。風は清々しくも冷たく、夜の到来を告げていた。 なにかが、聴こえた。 キルヴァははっとした。 「そうだ!ねぇ、裏に鳥のヒナがいたけど、あの子はどうしてここにいるの?」 「しまった、餌をやらんと。いやいや、昨日の大風でな、巣から落ちたらしい。怪我をしとったから連れてきて手当てをしたまま、すっかり忘れておったわ」 「ねぇ、あのヒナ、私が引き取ってはだめ?きちんと世話をして、大事にする。野生の鳥は、一度人の手から餌をもらったら野生に戻れないと、聞いたことがある。だから結局死んじゃうって……ね、セグラン、父上には私からお話しするから、連れて帰りたい。もし私に任せてくれるなら、だけど……」 ジアとセグランは顔を見合わせた。すぐに天人と重ねていることはわかった。それゆえ放っておけないのだということが。 「そうですね。親方さえ、よければ」 「あれはギィ大鷹のオスのヒナで、成長するとばかでかくなるが、いいのかね」 「大きく立派に育ったら、見せに来るよ!約束する!」 「ほぉ、そりゃあ楽しみだ。じゃあ、任せるとしようか」 「ありがとう!」 本当に嬉しそうにキルヴァが笑ったので、ジアもセグランも、鳥を飼うということがどれだけ面倒で大変な手続きが必要であるかは保留することにした。 キルヴァは胸にギィ大鷹のヒナをそっと抱えて庵をあとにした。 ジアは二人が見えなくなるまで見送った。
だが、約束は果たされることはなかった。 キルヴァは、ジアとはそれが最後の別れになった。
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