ドロモス・ヨーデル・スザン王は風の天人の鉄壁の守護の中にいるとばかり思っていた。それをどう攻略するかと頭を痛めていたのだが、まさかこんな事態に直面するとは、予想外だった。 相当数の天人が、苦しみ悶えつつ、床を七転八倒していた。 六枚羽から八枚羽まで、耳を押さえ、頭を抱えるように、ある者は口から泡を吹きながら失神し、ある者はひどく痙攣し、ある者は嘔吐、ある者はのたうっている。白い羽がごっそりと抜け落ちて、異様な光景だった。 カーチスは眼を走らせた。 いた。 スザン王は放心したように部屋の隅に縮こまっていて、胸に、なにかを抱えている。 カーチスはスザン軍の国旗を無造作に投げ捨てた。鞍上より飛び降りる。足もとに敷かれた天人の羽根が舞い上がる。その手で腰に佩いた剣の柄を握り、無駄のない動作で鞘より刃を抜き放つ。 ゆっくりと、歩を進める。すぐ後にアシュランスが控えて、警戒を怠らず、具合の悪そうな天人たちに眼を光らせている。 「ドロモス・ヨーデル・スザン王でいらっしゃいますな」 齢六十を超えた王はげっそりと衰弱して見えた。どこにも一国の王たる覇気が感じられない。憔悴し、やつれ、眼は虚ろ、心ここにあらずといった顔でぶつぶつとひとりごとを呟いている。 だが、腰には王笏を差し、肩布も、指輪も、衣装も、王であることを示している。 「その首、我が主、キルヴァ・ダルトワ・イシュリー殿下の名の下にもらい受ける。覚悟召されよ」 カーチスの剣が一閃する。スザン王の首がごと、と落ち、鮮血が真上に噴いた。 その瞬間、魔法の心得のある者ならば楔が解けたことに気がついただろう。それは風の天人と国王との間に取り交わされた契約の終了を意味していたが、そのことを理解する者はこの場にいなかった。 カーチスはマントで顔を覆い、血飛沫を避けると同時に、片腕を伸ばして王の首を受け止めた。床に転げなかったのは、一応の敬意を払ったゆえだ。 「貸せ」 アシュランスが用意していた蓋つきの籠に納める。 カーチスは部下たちを散会させた。 「どこかに風の天人の子供がいるはずだ。捜せ」 「待てよ。それが、そうじゃないのか」 アシュランスの手がスザン王の亡骸を指す。腕の中にあるものは、円い卵に不恰好な羽が三枚生えていて、殻も羽根も灰色にくすんでいる。 カーチスとアシュランスは並んでその物体を眺めた。 「……二翼の子供、って言っていたろ?」 「だが見たところ、二翼も子供もいない」 「そういや、天人の子供って、どんなだ」 「俺が知るものか」 「そういや、天人って、卵から生まれるのか」 「俺が知るものか」 「訊いてみるか?」 「阿呆。奴らが本調子にならないうちに逃げるぞ。それ、さっさと掻っ攫え」 「どっちが上司だよ」 カーチスは恐る恐る卵に手を伸ばし、それを抱えた。三枚羽のうち一枚が、ぴくりと動いた。続く絶叫。危うく落とす寸前で、カーチスは慌てて角度を変え、抱き直す。 床に這う天人の苦しみようは尋常ではない。おそらく、ひとには害のない、天人特有の周波のようなものがあるのだろう。 カーチスは自分の馬の手綱を取って、小脇に卵を挟んだまま器用に跨りながら、馬首を返して言った。 「あー、悪いな。俺、なにも出来ねぇんだわ。けど忠告だけさせてもらうと、ここはやがて火の海になる。あんたたちも早いところ、逃げた方がいいぜ」 カーチスの合図で、撤収した。 後宮は燃え落ちた。火の回りは思った以上に早く、脱出がもう少し遅ければ炎と煙に巻かれて身動きがとれず、最悪の事態になっていただろう。 だが実際のところ、カーチス軍は拍子抜けするほど首尾よくスザン王の首を奪った。味方に犠牲者はなく、呆気ない、暴れたりない、物足りない、という意見も飛び交う中――カーチスの遊撃隊は首都の門前まで戻った。 静まり返る墓地の如く瓦解した首都は陰惨で、気が滅入った。 早いところ、帰途につきたい。 「各自馬に水と餌をやれ。帰り支度だ、急げ。ちょいと休んだらすぐに出発だ」 カーチスは姿の見えないアシュランスを呼ばわった。 「ここだ。王の首は俺が防腐処置をしとく。おまえはさっさとそっちの用を済ませろ」 「ああ。じゃ、頼む」 「任せろ」 アシュランスはカーチスにとっとと行け、というしぐさをして作業に戻った。 カーチスはひとりその場を離れた。 しっかりと三翼の卵を抱きかかえ、徒歩で上空を見上げながら、十翼天人の姿を捜す。 「おおい、十翼天人様よお。待たせたなあ、どこにいるんだあー。降りて来て――」 ばさっ、と後方で羽ばたき音がして、踝の辺りに風が渦巻いた。肩越しに振り返る。そこにいたのは十翼天人ではなく、六翼を大きく開いた、長い金髪にひと編みだけ細い三つ編みを揺らした、華奢な肢体の女性型天人だった。 怨嗟と憤りに血走った蒼瞳と眼がぶつかる。まずい、とカーチスは思った。 天人の、怒りに折れた指、卵を奪おうと突き出される腕、そしてかまいたちの如き風。 瞬間、カーチスは両腕と胸を残して、細切れにされた。 六翼の風の天人はカーチスの鮮血が飛び散った三翼の卵を夢中で奪い返した。それから身体の向きを変えた。腕を乱暴に振り上げる。支配する風を手の中に溜める。近くにいる人間共を一掃せん、としたその矢先――眼にも止まらぬ勢いで十翼天人が割り入った。 「やめろ」 鋭い恫喝に六翼天人がびくりと震え、手の中の風が散じる。 十翼天人は厳しいまなざしで変わり果てたカーチスの亡骸を一瞥し、六翼天人の腕におさまる三翼の卵を眺めて、苦痛の表情を浮かべた。 「貴様、なんてことを」 アシュランスが異変に気がついたのはこのときだった。突如、天空から斬り込むように十翼天人が降下してきて、地上すれすれの低位置で停止し、翼をひろげた状態で、こちらに背を向けたまま、声を荒げている。 ふと漂ってきた、微かな血の臭い。 アシュランスは王の首の加工を中断し、悪い予感に苛まれて起立した。 「カーチス?」 そちらに行く。十翼天人の翼が邪魔で、カーチスの姿が見えない。 慇懃無礼に礼をして傍までいったものの、カーチスは見当たらず、代わりに六翼の天人が増えていて、アシュランスは訝った。 「あれ? っかしいな、カーチス――あー、俺たちの隊長には会って……なくはないな。それ俺たちが奪還した卵だもんな。あいつ、どこでなにやって――」 アシュランスは苛々しながら辺りを見回した。ある一点に、眼が止まる。どくん、と鼓動が跳ねた。 近づく。 はじめ、それがカーチスだとはわからなかった。 ほんの眼と鼻の先に、ばらばらになった肉塊が血の池に転がっている。原型をとどめているのは両腕と胸だけ。むっとするような血臭。地面は血を吸って黒ずんでいる。 「……カー……チ、ス?」 十翼天は視線を落とした。 「すまぬ」 アシュランスは、惨死体から眼を背けた。 あんなものは、カーチスじゃない。なにかの間違いだ、そうに決まっている。 「……いったい、なんの悪ふざけだ? あんたの言う然るべき礼とやらの、冗談か? ちっとも笑えんね」 「すまぬ」 「謝るな。カーチスはどこだ」 「すまぬ」 「謝るなと言っている。カーチスはどこだ、どこにいる」 「すまぬ」 「黙れ。いいから、さっさとカーチスを出せ!」 十翼天は沈痛な面持ちで、腕を持ち上げ、すっとそれを指した。 アシュランスは黙ってかぶりを振った。眼が、虚空をさまよいはじめた。 「……誤解が、生じた。おまえらも、我らの子供をかどわかした者らの一味とみなされて、攻撃の対象となった。こちらの、失態だ。許しは、請わぬ。命の購いは命でしか購えぬこと、俺はよく知っている」 言って、十翼天人は大地に足を下ろした。長い息をついて、ゆっくりと跪く。白い衣の裾が土を掃く。 「俺の名はアノン。恩義を仇で返した咎を受け、この身が滅ぶまでその死に報いよう」 宣誓は、しかしアシュランスを素通りした。 アシュランスは卵を大事そうに抱えたかたちのままの、カーチスの腕に触れた。 まだ、温かい。 絶叫。絶叫。絶叫。 アシュランスは悲憤の咆哮を放ち、拳を地に叩きつけて蹲った。 カーチス・ゴートの最期だった。
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