豪雨止まぬ戦場にまぎれもない突撃指令の角笛が鳴り響く。 それはスザン軍六万の重装兵と三万の騎兵の眼と鼻の先、真正面の山中から聞こえてきた。 「戦闘用意!」 ビョルセンの一声で、ザッ、ザン、と六万の重装兵が滑らかに停止し、盾を構え、腰に佩いた剣を抜き放ち、突撃態勢をとる。 だが、いつまで待っても「かかれ!」と次なる指令は下りなかった。 ここにきて、ビョルセンは異変を嗅ぎ取った。角笛は鳴ったものの、兵の潜む気配がまるでない。雨に消されているとはいえ、人馬の体臭もない。地面に耳をつけて様子を窺わせてみても、静かすぎる。 ビョルセンは功を急いていまにも突進をかけそうな緊張を強いられている六万の兵の武者ぶるいを、だが、一旦断たねばならなかった。 「総員待機!」 失望のざわめきがひろがり、突撃態勢が解除される。肩すかしをくらって緊張が弛緩した、そのときだった。 「突撃!」 「突撃――!」 キルヴァはビョルセンの見せた一瞬の隙を逃さなかった。 俄かに雄叫びが上がり、左翼よりひそかに移動して好機をうかがっていたイシュリー軍ナジーヴァ・ゲルトミーチェの重装騎兵二万と右翼にてじっとしていたキルヴァ直属の軽装騎兵一万が、同時にスザン軍後方部隊の両側面を包囲進撃した。 機先を制されたスザン軍は崩れた。武装解除の直後であったため油断を衝かれた恰好で、陣形は乱れに乱れた。大軍であるため一度崩れれば各指揮官の号令も指令も行き届かず、組織だった反撃態勢はほとんど不可能で、はじめの攻撃で致命傷を負わなかった兵たちも隊列を組む余裕などなく、すぐに各個の戦いがはじまった。 雨とぬかるみで視界と足場が悪いことも手伝って、双方、乱戦となった。 一方キルヴァは先陣を切って攻め込んだあと、間髪置かず、左右両翼後に控えていた弓矢隊二万を動員し、スザン軍の両側背深く展開させた。 最初の包囲網から逃れようと戦線離脱したスザン兵を次々に近距離から狙い撃ちしていく。 イシュリー軍参謀職に就く次軍師セグランの計略による接近戦と遠距離戦を見事に融合した二重両翼包囲は敢行された。 刻々と犠牲者の数は増えていき、早くもスザン兵の潰走がではじめていた。 右翼騎兵隊を率いるゲオルグ・ニーゼンがイシュリー軍の弓矢隊の一斉弓射攻撃を逃れて駆けつけたときには既に乱戦の真っただ中で、命令系統のいずれも機能不能な状態だった。陣形を再度整えようにも、これを阻止せんとするイシュリー側の軽装騎兵が、小隊長をはじめとして指揮官らしき人物を対象に集中的に攻撃の手を加えていったらしく、統率をはかろうにもはかれない具合であった。 「ビョルセン・メオネス将軍は何処か!」 ゲオルグは叫んだ。 足元にはビョルセン付きの副将や近衛、斥候が広い範囲に斃れている。イシュリー軍の猛攻を受けた爪痕が見受けられた。重装兵は部隊としてまとまってはおらず、戦闘はそこかしこで繰り広げられ、ゲオルグ自身イシュリー軍の若いが腕の立つ騎兵の浅い攻撃を凌ぎながら、しばらくあたりを捜索し、死体の顔を覗き込んだり、絶えず呼ばわったりと、手を尽くしたが、ビョルセン・メオネスを見つけることは出来なかった。 「まいったなー。あのしぶといご老体がそう簡単にくたばるわけもないと思うんだがなー」 「いかがしますか」 訊いたのはゲオルグ直属の近衛兵長シンギス・ヒュリスカヤで、ビョルセン将軍探索のため一時散開していた部下全員を招集してから言った。 「このままでは」 「あ―待て待て。不吉なことを言うのはよせ。余計に参っちまう。繊細な俺にはもっと優しくだな」 「それで、どうなさるのです」 「おまえも意外に短気だよなあ。せめて最後まで言わせてくれてもいいのによう。ま、いいや。ここは一時退却だ。さいわい俺の隊はほとんど無傷だろ、負傷者で助かりそうなやつを優先して収容しろ。そのあとは、ま、状況によるな」 「報告によれば、イシュリー軍の軽装騎兵の中にキルヴァ王子がおられたようですが」 「いま捜させている」 「発見したのちは?」 「俺が行く」 「それでは我が軍が指揮官を欠いてしまいます。僭越ながら、私にその任をお与えください」 「だめだだめだ、俺は王子とは因縁があるんだ。俺が行く。行くったら行く」 「お言葉ですが、ビョルセン将軍、アレンジー将軍、両名とも陣中不在のいま、我が軍の指揮を執られるのはあなたさましかおられません。軍規にもはっきりとその旨明記されております。アボルト副将も留守のいま、ここは、私が参ります」 シンギスの淡々としながらも押しの強い口調にゲオルグが言い負かされそうになったときである。 細い弓弦の音が響いて、雨のため勢いを失速させながらもきれいな弧を描きつつ、一本の矢がゲオルグの真上に降って来た。 ゲオルグは、これを素手で掴んだ。 いつのまにか完全に包囲されていた。 そして正面に現れたのは。
|
|