いつもエディニィより心配されるので今日は言われる前に防寒用の黒いマントを羽織った。 外はいつにもまして暗かった。見上げれば空を雲が蔽い月も星も見当たらぬ。吹く風は強さを増し、湿気を帯びて、生温い。 陣中は落ち着いており、目立って不審な点はない。国境線が見えるところまで来て、暗闇に浮き上がるスザンの赤い火の帯を見つめる。 「今夜半か、明日早朝にも、雨が降るな」 「おそらくな」 答えたのはステラで、髪の先端がかろうじて地面につかないという距離を保ちながら浮遊している。 その声が幾分素っ気ないような気がして、キルヴァはステラの左手の指先を掬うように軽く持ち上げ、引き寄せた。 「いかがした」 「なにが」 「そなた、ここのところ不機嫌ではないか?」 「私が不機嫌なのは、おまえがためだ」 意表を突かれたステラの冷たい返答にキルヴァは心あたりを探った。 「私がなにかしたのか」 「他の娘と、婚約しただろう」 「え?婚約?――ああ、マリュカ姫のことか。まあ、典型的政略結婚だな。まさかウージン王自らが婚姻の申し出をくれるとはさすがに想定外だったが、同盟手段としては一般的で新しくもない。こちらにしても姫の身柄を国内に預かることでライヒェンとの絆が強いものになるならば断る理由はない。姫には年齢の離れた夫で申し訳ないが私で我慢してもらおう。それで、それがどうかしたのか」 ステラが言った。 「おまえは私を嫁にするのかと思っていた」 キルヴァは絶句した。 ステラは侘びしげに微笑んだ。 「私の独りよがりで残念だ」 キルヴァは動転した。頭の中が真っ白になった。ステラとの再会の折よりも激しく、否、かつてないほど激しく。胸の中を、嵐が吹きすさぶ。流星を見つけたのを発端として、ステラとの邂逅をはじめに思い出がどっと押し寄せる。火の天人と知らされたとき、蒼い吐血を浴びたとき、王家の名において新たな名を与えたとき、魂魄を取り戻さんがために祈ったとき、再会を願った別れのとき、そして戦場で十年の空白の時を経て運命の再会を果たした瞬間――。 キルヴァは食い入るようにステラを見つめて、その細い指をぎゅうっと強く握ったまま、ぽつりと我知らぬまま、呟いた。 「そなたを好きなのは私だけだと思っていた」 「そんなわけがなかろう」 呆れたように言うステラの声はキルヴァの耳に届きながら、届いてはいなかった。 「そなたは私の憧れで、私はそなたより遥かに年下で、ただの人間で、そなたは十二翼天で、そんなにも美しくて……私など到底及ばない、手など届かぬ存在だと……こうして傍にいることさえ奇跡のようなものなのに……」 「私はおまえがために十二翼天となった。すべての禍からおまえを守りたいがためだ。そしておまえがために一族を離れ、地上にいる。私の気持ちは知っているかと思っていた」 キルヴァは黙ってかぶりを振った。 ステラは頭を掻いた。 「まあいい。やっと届いたようだしな。少し遅かったが、仕方ない。嫁にはなれずとも傍にはいられよう。それぐらいは許せよ」 キルヴァはステラの手を胸に引き寄せた。動悸がおさまらない。狂ったように脈打っている。意識が弾けて、正気は残っておらず、この場には剥き出しの心だけがあった。 「……そなたを私の妻にできるならば……」 どこか遠い場所で、キルヴァは自分の声を聴いていた。 「……そのためならば……」 ほとんど無意識のまま、キルヴァはステラを抱き寄せた。 「……私は神に背いてもかまわない……」 嵐の到来を予感させる夜の闇の中、急転直下の勢いで火が点いた二人のやり取りに、その場に居ながらにして眼中外扱いをされた感のあるカズスは蒼褪めていた。 天人と人間。 それだけでも禁忌の間柄なのに、恋情なんて不吉以外のなにものでもない。 だが、カズスは諌められなかった。 心のどこかで、羨望の気持ちがあらわになった。このときはそれと自分でもわからなかったのだが。 カズスは眼を背けた。唇が切れるほど噛みしめて、掌に爪を食いこませながら。
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