リアストン暦九百九十三年、ノーレッサの月、第十八日目、イシュリー国第五領地スザン国国境に設けられた前線基地に、イシュリー軍は続々と集結しつつあった。 先のこの前線基地奪回を目的とした戦と異なり、このたびはディレク王よりスザンを総攻撃の上、国王ドロモス・ヨーデル・スザンの首を奪取するよう王命が下っている。だが戦隊の指揮については怪我の具合がおもわしくないことを理由に断念せざるを得ないとして、軍師リューゲル・ダッファリー共々王宮にて待機する通達があった。 代わりに、総指揮官をキルヴァ王子に委ねることを表明し、その笏杖を手渡すことによって、指揮権を譲渡した。 事実上、キルヴァ王子の近い将来の戴冠をも視野に入れた、国を背負っての初戦であった。
前線基地及び周辺一帯は緊迫した空気に包まれていた。 開戦間近、号令以下いつなりとも出兵できるように各隊待機の命が下って幾日か経った。 緊張と高揚と倦怠と不安と悲哀が混濁として澱む中、イシュリー兵の多くは自主訓練、武器の整備、体力温存に努め、小隊長以上の役職に就くものはよく自分の隊の面倒をみるため全力をかけていた。細かな指示が明日の命を左右するとあって、視察や情報管理の面でも徹底して報告を義務付けた結果、隊として機能する不具合はほぼ解消されつつあった。
キルヴァは多忙を極めていた。 故に、キルヴァ直属の近衛兵七名、加えてこのたびの作戦では参謀を務める次軍師セグラン、その近衛兵九名と筆頭近衛兵ジェミス・ウィルゴーも全面的に忙しかった。 いましがた、一時的に留守を任された第四領地副領主リュトリュス・アルモニーより伝言を預かって基地を訪れていた使者が返信を携えて領地へ帰っていった。 ミシカ・オブライエンは使者を基地の外まで見送りついでに配給の不足がないかとあちこち声をかけながら、内通者が潜んでいないか眼を配り、ひそかにその報告を受けつつキルヴァのもとへと戻る途中、カーチス・ゴートと出くわした。 「ひとりか。王子の警護はどうした」 「アズガルとステラが就いている。あんたこそなんでこんなところでふらふらと……飯は食べたのかい?」 「いや」 「まだなら一緒においで。食いっぱぐれて夜更けに出陣だなんてことになったら大変だろう。腹が空いては戦なんてできやしないよ。さいわい今日の食事当番はエディニィだから私が作るより断然ましさ」 「飯はありがたいが、あんた、いくら味方の陣とはいえこんな暗くなってから女がひとりで出歩くな。危ねぇだろう」 「危ない?なにが」 きょとんとしてミシカは首を傾げた。 「襲われたらどうする」 「は?私が?ばかを言うな、私を襲う物好きな男がどこにいるってんだ。エディニィならともかく、ありえんよ。そんな心配は無用だ」 だが、言っている傍から「ミシカー」と声援やら口笛やら秋波やらがとんでくる。それらの大半は決して野次ではなく、嘘でもなく、真剣な気持ちがこもっているのだが、問題は、ミシカがそれらをまるで歯牙にもかけておらず、本気にしていないという点だった。 「……不用心すぎる」 カーチスはぼそっと言った。ミシカの耳には届いていない。 ミシカはほとんど無防備にカーチスに笑いかけた。 「正直、あんたがいてくれて心強いよ。あんたを寄こした軍師殿にも感謝しなきゃならんね。あんたの戦器量は私らもよく知っているからさ、王子のために働いてくれるならこっちの負担もだいぶ軽減されるってもんだ。だから、いまあんたに倒れられたら困るんだ、飯と睡眠はできるだけきちんととって――聞いているのかい」 「ミシカ」 「ん?」 「俺の嫁になってくれ」 沈黙。 「……なんだって?」 「このスザン戦が一段落したらでいい。俺の嫁になれ。いいな」 ミシカは眼をぱちくりさせた。口を開けては、閉じて、また開けては、閉じた。 「冗談」 「あいにく、本気だ」 カーチスの向こう、既に西の方に日は没し、紺青の色が深まりを増す中、一切のざわめきがミシカの鼓膜より途絶えた。 思わず足を止めて棒立ちになったミシカの手首をカーチスの強張った厳つい手が掴み、王子の天幕までそのまま引いていった。その間、ミシカは一言も口がきけなかった。 キルヴァの天幕ではエディニィ・ローパスの手による炊き出しの準備がほぼ整ったところであった。 「味、どう?」 休息していたクレイ・シュナルツァーがちょうどよいところに顔を出したので、エディニィは味見役に手招きした。 「申し分ないですねぇ」 「本当?」 「ええ、鶏ガラだしのすごくおいしいスープです。ところで、スザンでダリーの血縁者らしき男を拾ったとか」 「他人の空似かもしれないからまだダリーには言わないでよ。って言うか、なんであんたが知っているの。私、王子にしか報告してないのに」 「私の地獄耳をなめてはいけません」 得意げに胸を張るクレイをエディニィは抑えた口調で諌めた。 「……あちこち首突っ込むのもほどほどにしておきなさいよね。いつか仇になるわよ」 「はいはいはい、ご忠告いたみいります。さて、ではスープも完成、肉もこんがりと旨そうに焼けましたので、そろそろ王子をお呼びしましょうか。ああいいですよ、私が行きます。あなたはスープが焦げないように火加減でも見ていてください」 夜が間近に迫っていた。既にどの天幕にも青角灯が下げられて薄暗闇の中でぼうっと灯っている。クレイは音程の狂った鼻歌をうたいながら、すぐ斜め前方に張った軍議専用天幕へと向かった。 軍議は大詰めだった。 エディニィのもたらしたスザンの新たな情報を取り入れたセグランの軍略をもとに、作戦の概要はほぼ決定されつつあった。 天幕内には大きな円卓が中央に据えられ、二十余名がキルヴァを中心に円卓を囲っていた。円卓にはスザンの国土地図がひろげられ、キルヴァの眼が指が地図上を這う。 「スザンの糧道は八箇所。だがその中でも重要拠点がこの二箇所。まずここを押さえる。地方から首都に物資が運び込まれないようにするのだ」 「押さえた糧食はいかがしますか。確保ですか、燃やしますか」 「燃やさぬ。せっかくの貴重な食べ物を粗末にするなど罰があたるぞ」 「しかし、運搬するには人手が足りません。兵を余分に割くのならば人員の割り当てを見直さねばなりません」 「見直さずともよい。それは別の手立てを考えている。それよりも、気がかりなのはスザンの“天人兵”だ。我らとライヒェンが同盟を結んだ以上、スザンは窮地に追い込まれた。戦力は出し惜しみせぬに違いない。だが我々は極力天人との衝突を回避せねばならぬ――セグラン、なにか策はないのか」 「天人は揉めて勝てる相手ではございません。相手にせぬことが肝要です。ならば、いまこちらからは仕掛けず、しばしお待ちください」 「どの程度“待つ”?」 「あと数日中には」 「その前に攻撃があったときは?」 「戦略的撤退です」 「参謀がこう申すのだ、万が一のときにはとにかく逃げるとしよう。皆には急な進軍と急な撤退があるやも知れぬ旨を説明し、備えさせよ。以上、本日は解散」 言ってキルヴァは表に出た。迎えに来たクレイと鉢合わせする。用心のためすぐ傍に控えていたアズガルとステラが後に続き、間をおかず、セグランとジェミスも退出してきた。 キルヴァの天幕に戻ると、全員が揃った。 エディニィがてきぱきと食卓を整え、夕食がはじまった。雑談と笑話、それぞれの思いを胸に秘めながら、ひとときの平安を噛みしめる。
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