キルヴァは両の手を握り、拳を作った状態で胸の中央で交差し、踵をつけ、まっすぐに姿勢を正して眼を瞑り、月神ラーク・テアに祈りを捧げていた。 月が冴え冴えと美しく照る夜だった。天満星が輝き、雲はない。風は微風で、少し肌寒い。 キルヴァが祈り終えるのを待っていた間合いで、そっと忍び寄る気配があった。 「……お風邪を召します。どうぞ羽織ってください」 「……ああ、すまないエディニィ」 差し出された丈の長い黒マントをキルヴァは受け取った。 辺りは寝静まっている。 天幕ごとに小さく灯された青角灯が季節外れの蛍のように点々と瞬いていた。 キルヴァの天幕は夜営のほぼ中央に設営されていた。そのすぐ右隣にダリーら近衛のための天幕がひとつ、左隣に次軍師セグランのための天幕がひとつ、この三つの天幕を囲うように指揮官らの天幕が円状に張られ、更にその外に一般兵の天幕が密集して展開していた。 キルヴァの近衛は交替で宿直に当たるため、二人は常に外で監視の眼を光らせ、ひとりは天幕の内側を仕切った中で護衛と雑用を兼務する。あとの三名は、一人は休み、二人は交代要員として待機する。 今日は、エディニィは休みで自由の身なのだが、一時休戦中とはいえ戦線にいるので自主的に休みを返上し、食事を作ったり、洗濯をしたり、掃除をしたり、キルヴァの身の回りの世話を焼いてくれた。それらを黙って行い、常に見えないところで働いてくれていることを、キルヴァはちゃんと知っていた。 「いつも君には世話をかける。ありがとう。今日の夕食のツミレ鍋も、とても旨かった」 「お口に合ってよかったです。では、私はこれで」 「エディニィ」 「……はい」 キルヴァは眼を伏せて畏まっているエディニィに顔を上げるように言い、笑いかけた。 「皆で囲む食事は、いいものだな。楽しくて温かい……腹も膨れるが、なにか心も満たされるような感じがするのだ」 エディニィの口元がやわらかく綻ぶのを見て、キルヴァの気持ちもよりほぐれる。 「さっきカズスがな、食事の前に私がセグランを贔屓にしているとむくれていたが、それは違う。私は君たちもセグラン同様、大切に思っている。私が孤独であったとき、助けを必要としていたとき、いつも君たちがいてくれた。その都度私がどんなに心強かったか……先だっての戦だってそうだ。私ひとりではあのような無茶はできなかった。君たちが支えてくれたから、被害も最小でスザンの侵攻を食い止めることができたのだ」 「……身に過ぎるお言葉です」 キルヴァは小さくかぶりを振り、笑みをひそめてエディニィを見つめた。 「君は、最近なにか悩みでもあるのか」 唐突な問いに、エディニィは怯んだ様子で表情が強張った。 「普段はなんでもないようだが、私の前では以前よりよそよそしいような気がするのだ」 「それは……」 言葉に詰まり、適当な言い訳を探しあぐねているように不自然に眼を泳がせていたが、ややあって、エディニィは暗いまなざしを伏せて俯いた。 「……それは、お気のせいですわ」 「気のせいか」 「はい」 「……そうか」 「……はい」 わかった、と嘯いて、キルヴァはそれ以上の追及を止した。人には誰しも言いたくないことだってある。それをむやみに暴くのはよくない。だが、そうとわかっていても釈然としない気持ちが残って、胸に燻る。月を振り仰ぐ。心を決めた。それから後ろを振り返る。 「皆、いるな」 特別招集する必要はなかった。呼応にはほとんどすぐに全員が現れた。最後にセグランが天幕の入口をついと手で除けて、無言で出てきたが、既に外出用の支度を済ませている。 キルヴァは黙ってついて来いというしぐさをして、人目につかぬよう、野営地を抜けた。 ここいらは起伏のある丘陵地帯で、地形さえ覚えていれば人目を避ける場所をみつけることは容易であった。 青角灯を手に下げて雑草を踏みしだき、辺りに一切の生き物の気配がないことを確認し合い、なだらかな丘陵に立つ。風はわずかに湿気を孕んでいる。空気は澄んでいて、軽い。月光がかすかに互いの輪郭を浮き上がらせる深い暗闇の中、キルヴァは夜に身を委ねるように静かな声もて告げた。 「君たちに私の秘密の友人を紹介しよう。――ステラ!我がもとに来たれ」 ほどなく、頭上で大きな羽ばたきが聞こえた。月光が遮られ、不穏な影に覆われる。瞬間、キルヴァは囲われた。セグランと、彼のあとからひょっこりついて来たジェミスを除いたダリーら六名が所定の位置に守護に就く。それぞれ武器を備えて殺気を放っている。 ゆっくりと降りてきて、白い十二翼を広げたまま少し離れたところにふわりと浮く。片一方の手を腰にあて、もう一方の手では長い髪を掻きあげて、ステラは憮然として言った。 「……なぜ私は敵視されねばならんのだ」 「すまぬ。まだ皆、そなたのことを信用していないのだ」 「私はおまえ以外になんと思われようと構わん。で、なんの用だ」 「私は構うのだ。そなたには皆とも仲良くしてほしい。皆、私の大事な輩だ。きちんと紹介したくて、だからこんな夜分だが呼んだのだ」 「仲良く、だと?なぜだ」 「私はどちらも大事だからだ」 ステラは面白そうにくすっと笑った。闇の中でもその微笑はたとえようもないほど美しい。 「おまえは私が大事なのか。なぜだ」 「なぜって……」 改めて訊かれるとキルヴァは答えに窮した。確かな答えが見当たらない。だが。 「……そなたはずっと私の憧れだったから……」 記憶にあるよりも遥かに美しいステラにキルヴァの胸は脈動を速めた。言葉を失ってしまい、黙りこんだとき、横からセグランの声がした。 「王子、天人語では皆にわかりませんよ。紹介するのでしょう?」 キルヴァははっとした。迂闊にも見惚れてしまっていた。気恥ずかしさにややしどろもどろになりながら、キルヴァは皆の武装を解かせ、向き合って言った。 「紹介しよう。炎の天人、ラーク・シャーサのステラだ。さっきは私の秘密の友人と言ったが、本当のところはまだ友人ではない……だが大切なひとだ。私の……いや、よそう。とにかく、今後ステラに警戒の必要はない。すぐには無理だろうが、ゆっくりでいい、どうか皆にも信用してほしいのだ……」
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