ゲオルグ・ニーゼンはアレンジー・ルドルとの距離を詰めてそっと耳打ちした。 「どういうことだ」 「わからん。わからんが、あれはスザンの伝令馬に間違いない。タルダム殿下はお亡くなりになられた……襲撃に遭い、打ち滅ぼされたということなのだろう」 アレンジー・ルドルはキルヴァの傍まで馬を進めた。さりげなく、キルヴァの周囲をダリー・スエンディーを筆頭に他五名の近衛が囲って防衛態勢を整えている。 「こちらが陽動だったのか」 「はい」 「負傷者や補給隊が見当たらないが、どうした」 「谷には無数の横道があります。そこに隠しました。ここにいるのは少数精鋭の私直属の機動部隊のみです。あとはすべての兵力を本軍として集結させ、国境線の前線基地奪回のためあちらに向かいました。私の役目はあなたがたを迎撃し、夜明けまで足止めすることでした」 伝令の決死の叫びが徐々にスザン軍に浸透してゆく。 急速にざわめきが大きくなり、混乱の様相を呈してきた。 だがアレンジー・ルドルとゲオルグ・ニーゼンの両名は微動だにせず、二人ひとつの彫像の如く頑なな姿勢でキルヴァとじっと睨みあっていた。 「このまま我々がおとなしく退くと思うか?」 「せめて一矢なりとも報いねば殿下の無念は晴れまい。そう、たとえば御首をちょうだいできれば帳尻が合うというもの」 「首でなくとも、死の奏上でもかまわんさ。――弓矢部隊、攻撃用意!」 キルヴァに思うところのないアレンジー・ルドルの決断は早かった。ものものしい気迫のこもった大音声が谷間の岩肌に反響しながら駆け抜け、降ってわいた訃報に動揺し揺らいでいた全部隊の意識を強引に収束させた。 ほとんど一斉に、びぃん、と弦が鳴る。 狙いが定められる。 スザン兵はとっとと散って、イシュリー兵は立ち往生していた。 キルヴァは腹に力を込めてあらん限りの声もて呼ばわった。 「――来い、カドゥサ!」 高みから、まっしぐらに飛来したギィ大鷹の鮮烈な姿に弓矢部隊は慌てて攻撃を中止した。すべての鳥は神聖なる生き物で、いかなる理由があろうとも傷つけてはならないという掟がある。まして矢を向けるなど言語道断で、万が一にも的中すれば死罪は免れない。 灰色の翼をひろげ、ゆっくり、悠然とキルヴァの頭上を旋回するギィ大鷹は、その存在で、たった一羽でスザン軍の攻撃の手を停止させた。 「……なんとまあ」 呆れたように口を聞いたのはゲオルグ・ニーゼンであった。 「神聖なる鳥の中でも最も強く、稀少で、利口なギィ大鷹を、それも滅多にひとに慣れないオスを飼いならすとは……本当に類まれな資質を持たれた方だ、あなたは。いや、実におもしろい。興味深い。ここは潔く我らは退きましょう。だが、ただ去るのも芸がない上、愚直にすぎる。ここは置き土産をしていきましょう。それでよかろう」 アレンジー・ルドルはゲオルグ・ニーゼンを一瞥して、そのまなざしの中に敢て言葉にしない提案を憮然とした面持ちで了承した。腕を振り、法螺貝を鳴らすよう合図する。 「退却、退却――!」 「全軍退却、全軍退却――!」 ダリー・スエンディーとミシカ・オブライエンがアレンジー・ルドルとゲオルグ・ニーゼンの行く手をそれぞれ遮った。 「あなたがたのどちらか、或いは両方でもかまわないが、残ってくれ。人質とさせてもらう」 アレンジー・ルドルはふてぶてしく鼻を鳴らした。 「ほう、ここは笑うところか?俺を人質だと?できるものなら捕らえてみろ!と、言いたいところだが、生憎いまは忙しい。負け戦は引き際が肝心だからな。――それにおまえたちも俺たちにかまっている余裕などないだろうよ」 せせら嗤い、両眼に鈍い危険な光が灯される。口元が歪んだ。二言、三言、小声でなにごとか呟くと、間髪おかず、天空に向かって吠えるように高々と呼ばわった。 「――我ら偽りなき契約のもとに、ここに来たれ、ラーク・シャーサ!炎の天人よ!!」 次の刹那、朝の生まれたばかりの柔らかい光を打ち消して、炎の雨が獰猛なる勢いで降り注いだ。 拳大の火炎の飛沫が隕石群の如く襲い来る。 たちまち辺り一帯阿鼻叫喚の騒ぎとなり、一瞬にして形勢逆転に陥った。 あまりに強烈な不意打ちをくらったため、アレンジー・ルドルとゲオルグ・ニーゼンにはまんまと逃げられた。だが、不幸中の幸いというべきか、スザン軍の重要人物たる二人の近くにいたためか、キルヴァたちは炎の第一波を浴びることはなかった。だが事態は切迫しているということはすぐに判明した。 ひらひらと躍り爆ぜる炎を全身に纏って晴れた空から垂直に天人が降下してきた。 六枚の翼をわずかにひろげて、地上には完全に立つことなく、やや浮いている。 白い長い襞のある衣で肌を隠し、短く刈った金色の髪と生気のない整った美貌、尖った顎、平たい胸、均整のとれた長身。間違いなく男性の天人である。 突如として現れた炎の天人は無表情のまま両腕をひろげ、掌を太陽に翳した。すると手の中に炎の球体が一点浮き上がり、ごぼごぼと沸騰しながらあっという間に巨大に膨れてそのまま上空にすーっと持ち上がってゆく。また天人もまっすぐに浮上して、球体よりもやや高い位置にて留まる。 これからなにが起こるのか、誰の目にも明らかだった。 キルヴァはセグランを残してきた方角を振り向いた。瞠目した。セグランが、ジェミスもそのあとに続いているが、ものすごい勢いで駆けつけてくる。よりによって炎の攻撃の集中砲火を浴びそうなこの場所に。 「逃げろ」 キルヴァは必死に叫んだ。 「来るな!戻れ、セグラン!だめだ、危険――」 キルヴァの声は途絶した。上空を回遊していたカドゥサが不意に身体の向きを変え、攻撃の態勢を取ったのだ。天人に襲いかかろうと尖った爪を武器に掴みかかってゆく姿を眼の端に捕らえる。止める間もなく、カドゥサが天人に接触しようとしたまさにその瞬間、炎の球体が炸裂した。
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