イシュリー軍はキルヴァを先頭に山裾の側面を一気に駆け下った。闇夜の中、ゆるいとはいえ崖であり、それも雨に濡れて岩肌は滑りやすくもろくなっている。そんな悪条件にもかかわらず、キルヴァは愛馬の本能に任せつつ巧みに手綱を操り、崖の上にいた味方の精鋭五百騎全騎を率いて谷間に降り立った。 「構え!」 疾風の如くすぐさま隊列を整え、一斉に弓矢攻撃に移る。 「射よ!」 次の瞬間、地上から放たれた大量の矢の雨が崖の上のスザン軍に降り注ぐ。 アレンジー・ルドルは完全に意表を突かれた格好となった。 「おいおい。退くか、ここで。非常識な奴らだなー。にしても、ずいぶん機敏じゃねぇか。おかしいな、こっちに負傷兵や補給隊がいるはずなんだが。それにどう考えても頭数少ねぇよなぁ。こりゃあ、どっかに主力を温存してやがるなぁ。さあて、どうするか……しっかし、予定くるいまくりだな。奇策にハマり、谷底は無人、優位に立てる崖上は放棄、機動性は抜群、主力は姿が見えず、で、この天気。こりゃあ、こっちの奇襲を見越した迎撃戦だろ――うぉっ、下から矢かけかよ。あー、退避―、退避―いやいや逃げ場はねぇか。じゃ、せっかく登ったのになんだが、降りるか。どっちみちこのままじゃあこっちの本軍と鉢合わせだしな。まあ、予定とは違ったが、結果は同じならよしとするか。おい、合図だ、笛吹け、笛。突撃させろ。奴ら挟み撃ちにしてやる。おーい、おまえらー、降りるからついて来―い」 間延びした命令を下すのと、一気果敢に崖を駆け降りるのが同時だった。 アレンジー・ルドルはいつもながらに自軍の戦略の甘さを痛感していた。あまり認めたくないことだが、実際の戦闘には参加しないスザン軍の軍師らは、平気で机上の空論を叩きつける。理論上は筋が通っているのだが、実際にその通りに事が運ぶわけがない。それでもスザン国が内政、外交、戦闘いずれも他国と五分に渡り合っているのは現場の人間の努力の賜物によるもので、こと戦闘にいたっては、指揮官である人間の器量が作戦を上回るという幸運によるものだ。故に、敵方の戦略や敵将の力量次第では、いくらでも負け戦となりうる危険が常にある。 それはもしかしたら、いまこのときであるかもしれない、とアレンジー・ルドルはふと思った。懸念であればいいが、と自らに言い聞かせながら。 そもそも、スザン軍の戦略では、まずスザン軍奇襲部隊千名が敵の本陣を突く。そこでイシュリー軍との乱戦に持ち込み、おそらく待機しているはずの高所からの矢攻撃を牽制する。そこでイシュリー軍は高所に配置した人員を援軍として本軍に加勢させるはずで、そうなったあと、後詰めのスザン軍の突撃があり、形勢逆転、更に、峠をひそかに侵攻していたスザン軍の本軍が一帯を包囲、夜明けとともに戦闘終了――そういう筋書きであったのだ。 しかしこのたびの戦は、はじめから躓いている。 そしていままた、新たに予期せぬ展開をくらった。 「おいおい、ちょっと待て。なぜ逃げる。まだ戦ってもいない――」 イシュリー軍はアレンジーの部隊が崖を下って来た瞬間に敵前逃亡を開始した。その鮮やかな逃げっぷりはあっという間の出来事で、暗闇の中では視認は不可能だったが、遠ざかる馬蹄の轟きがそれを証明した。それも内奥に消えていった。 アレンジーの部隊は谷底に再び取り残された。そして少し離れた位置ではゲオルグ・ニーゼンも同じ憂き目に遭っていた。 「……なんだなんだ、奴らこの一帯の権利放棄かあ?俺たちの戦わずして勝利――あ、しまった。そういうことか。まずい。こりゃまずい。まずいまずいまずい」 イシュリー軍が姿を消した方角と真逆の谷の入口方面から、突如としてものすごい喚声が上がり、地軸をも震わすような馬蹄音と足音、甲冑の擦りあう音が谷間を埋め尽くし、鈍くかすかに光る青角灯の束が一気に押し寄せてきた。後攻めを担う、スザン軍の突撃部隊である。 止める間もなく、突撃の渦に巻き込まれる。 谷間に潜んでいるのがイシュリー軍に一杯食わされて放置された味方とは知らぬスザン軍は、雄叫びと共にそのまま突っ込んできたのだ。 闇と、雷雨が災いした。それからいまだそこらをうろつく獣の群れが混乱に拍車をかける。 場は瞬く間に凄惨な修羅場と化した。あちこちで血飛沫が舞う。狭い谷間はすぐに血の臭いが充満し、雨に流されるどころか荒れ狂う風に乗り、逃げ惑う獣や馬の嗅覚を刺激してより興奮させ、ぐずった鼻音や警戒と恐怖の鳴き声を漏らしつつ右往左往させた。 「やめろ!待て、待て、待て――!同志討ちだ!同志討ちだ――!」 アレンジーは声を限りに叫び続け、自身に振るわれる剣や槍のことごとくを右へ左へと受け流し、自ら戦闘停止の角笛を吹き鳴らし続けた。 だがそこへ、いつのまにか方向転換したイシュリー軍が怒涛の迫撃をかけてきた。 「突撃、突撃――!」 「狼煙を上げろ!援軍を呼べ!」 「いまだ、いけいけいけ――」 左右の崖に二手に分かれていたイシュリー軍はいまや合流し、千騎一丸となってスザン軍に襲いかかった。その統一された的確な行動、勢いたるや凄まじく、ばたばたと次から次へ斬り伏せられてゆく。 更に、計ったような間合いでスザン軍の突撃隊の背後からイシュリー軍の援軍が現れ、混乱し態勢の整わぬスザン軍を挟撃した。 スザン軍が目論んでいた展開そのままをイシュリー軍は実践してのけた。 夜襲攻撃そのものが失敗し、いまや圧倒的優位でなくなったスザン軍は地の利において苦戦を強いられ、急襲に遭い心理的にも威圧され、また天候の悪化と逃げ惑う牛の群れに翻弄され、まったく戦隊の統一がとれないまま、激しい乱戦に突入した。
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