第一章 絶対の秘密を持つということ
セグランはすぐさま異変に気がついた。シュイの湖はオーラン山脈の雪解け水と地下水脈が流れ込むため波が立たないことはない。だがいま湖面は磨き上げられた鏡のように平らで歪みひとつなく、柔らかな朝の光を反射して輝いている。 なにかが、おかしい。 湖に飛び込む寸前、湖岸に眼を走らせたがこれと言って不審なものは見あたらなかった。 それがわかったのは、水に身を躍らせてからだった。 身体を万力で押しつぶされるような水圧に襲われた。束の間呼吸ができなくなり、手足が大きく痙攣する。そのまま沈めば、二度と浮上できなかったであろう。だが同時にこの湖に仕掛けられたからくりがどんなものなのか、だいたいの想像がついた。 セグランは眼を瞑り、身体から一切の力を抜いて、呼吸を細く、細く、整えた。心臓の鼓動数と呼吸数を合わせ、気で辺りを撫でるように探った。 ……どこかに、水の力を抑えている原因があるはずだ。 慎重に、だが素早く探ってゆく。見つからない。どこだ。どこにある。 ……まずい、意識が遠くなりかけてきた。このままでは溺れてしまう……。 と、そのとき、キルヴァ王子の叫び声が聞こえた。様子がおかしいことに気がついたのだろう。隠れ場所から飛び出してきて、湖岸に膝をつき、地面に爪を立て、前のめりになって、必死にセグランの名を呼んでいる。 セグランは気力を振り絞った。こんなところで死んではいられない。王子をひとりになどできない。決してひとりにしないと、あの日、私は誓ったじゃないか。 ……あった。あれだ。 ちょうど、天人が浮いている場所の真下の湖底に赤黒い青銅の短刀が打ち込まれていた。その刃から、ただならぬ気配を感じる。 セグランは水面に顔だけ浮かべた。ただそれだけの動作なのに身体がちぎれそうだ。 「……水よ、水よ。我の声を聞け、我が声に答えよ。私の肉は水でつくられ、私の命は水に還り、私の魂は水を廻る。さればいま、水の中にあって自由を得るは自然の理なり。我を開放せよ、我を開放せよ、我を邪なる戒めより開放せよ……」 ふと、身体の自由が利いた。セグランはこの機を逃さなかった。大きく息を吸い、止める。そのまま身体を捻って、昼なお暗い湖底を目指した。 柄を握り、短刀を一気に引き抜く。その途端、湖に張り巡らされた魔法は不意に消滅した。 セグランは翼をひろげたまま、斜め仰向けに漂う天人のすぐそばに浮上した。湖に小波が戻っている。もう動かしても大丈夫だろう。 「セグラン、大丈夫!?」 「はい、ご心配をおかけしました。ただいま戻りますのでもう少し待っていてください」 キルヴァは蒼褪めたいまにも泣きそうな顔で無理に笑顔をつくってみせた。相当怖い思いをしたに違いない。だがそれでも、気丈にふるまうところはさすがに王の子だ。 セグランは短刀を口にくわえ、考慮の末、天人を曳くように岸へと運んだ。だがこの命がけの救助も、物語のはじめにすぎなかった。
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