突然、ごおっと突風が襲った。ほんの一瞬のことだが足元からすくわれるような感触にひやりとした危険を感じ、キルヴァは身を屈めたまま顔を上げなかった。ややあって、ひとつ肩で息を吐きながら立ち上がり、前を見てはっとした。 「王子!」 アズガルを除く全員の叫びが重なった。そして臨戦態勢をとる。エディニィとクレイが正面を、ダリーとミシカが左右を、アズガルとカズスが背面を固め、それぞれ武器を掲げてキルヴァを囲う。頭上には鋭い鳴き声を迸らせながらカドゥサが低く旋回している。 「ゆっくりと、頭を下げてください」 近衛長のダリーの指示に、だがキルヴァは従わなかった。かぶりを振って、厳かに佇む。 正面にひと群れの天人がたむろしていた。どのくらいの数だろう、正確にはわからないが三、四十人もいるだろうか。地上には誰ひとりとして降り立たず、僅かに宙に浮いたまま、身を寄せ合うようにくっついてこちらを見ている。色の濃度の程度の差は若干あれ、皆、金髪蒼眼で、すらりと背の高い痩躯に、ほとんど肌を露出しない袖も裾も長い白い衣を纏っていた。翼の数はまちまちで、それぞれ異なっている。高く盛り上がった白い翼を動かしている者はなく、きゅっと閉じたままじっとして、午後の陽射しを浴びている。 不思議と、脅威は感じなかった。驚いたことに親近感が湧いてきた。指先から、熱いものが身体中を駆け巡る。キルヴァは、ずっと待っていた運命にようやく巡り会えた、と思った。 だが、蒼い一条の傷痕を持つ翼の天人は、そこには見当たらなかった。 軽い落胆と共にキルヴァがふっと身体の力を抜くと、それを合図としたかのように天人の群れはざあっと一斉に舞い上がった。巻き起こる風は螺旋を描き、ひと連なりとなって上空へと吸い込まれていく。 そして、その場にただひとりが残った。 金髪蒼眼、短髪、長身痩躯、色素は薄く、頬のこけた、少し角のある美貌、白い衣装、翼はたたまれているようで数はわからない。だが、一目でステラではないことは知れた。天人にも性別があり、翼以外の肉体的特徴は人間とさほど変わらず、明らかに男性だった。 「……おまえの歌に惹かれてね、皆集まってきたんだ。深く、伸びやかに響くいい声は、我らの好むものだ。これでも歌の出来の良し悪しには喧しくてね、おまえの歌は、悪くない。ひとにしちゃあ随分力強く歌に心を響かせている……ジアにも、きっと届いたことだろうよ」 キルヴァはエディニィとクレイを押しやった。 「皆、下がれ」 「危険です、王子」 「承服致しかねます」 エディニィとクレイが異を唱え、同調するように他の誰も離れなかった。 「いいから下がれ。彼は敵ではないと、言っているのだ。どうも私の歌に惹かれてやって来ただけのことらしい。こんな機会は稀だろう、少し話がしてみたい」 「えっ。王子、天人の言葉がわかるんですか!?」 カズスが仰天の声を上げる。キルヴァはああ、と応えた。 「少しな。王家の者の嗜み程度には、だが。わかったら退け。離れるのに文句があるのだったらそこにいてもいい。ただ邪魔をするな」 不承不承、エディニィとクレイが脇に退く。キルヴァは手を振り、もう二、三歩下がらせた。それから天人に向きなおり、頭を垂れ、両手を胸において、そのまま掌を下にしたまま肘を伸ばし、脇へゆっくりと下ろし、左足を浅く引いてお辞儀した。 「我々流の挨拶か」 「間違っていたらすいません」 「いや、合っている。しかしひとの子とはいえ、一国の王子が腰の低いことだな」 「武器の矛先を向けた非礼のお詫びまでです。へりくだっているわけではありません。なぜ私のことを王子とご存知なのですか」 「ジアに聞いた」 「ジアをご存知なのですか」 「まあな。おまえの懐にあるその短刀、一方はジアが鍛えたものだろう」 「はい。何年も前にもらったものです。……いまとなっては形見になってしまいましたね」 「その柄の細工が納得のいく形になるまで苦労していた。何度もやり直していたな。いい加減に妥協しておけばよかろうと思ったくらいしつこかったぞ」 「大事にします。そうか、ジアは私のためにそんなに頑張ってくれたのか。やはり最後に一目だけでも会っておきたかったな……あなたはジアを看取ったのですか?」 「なぜそうなる」 「ふと思っただけです。不快に思われたのでしたらお詫びします」 「……看取るには看取った。ひとの子にできることなどなにもなかったが、ひとりで逝かせるよりはいくぶんましだろう。俺でも、いないよりは」 「ありがとうございます。少しほっとしました。ひとりで倒れて看取る者がいないなんて、孤独すぎる。あの小屋は山裾とはいえ奥まった場所にあるし、人が訪ねるとも思えない。私は友人からジアの訃報を知らされたのですが、その友人もそのときは遥か遠方の地にいたはずで、どうやってそのことを知りえたのかずっと不思議だったのです。あなたが教えてくださったのですね」 「死ぬ間際にひとつ頼まれたことがあった。俺はそれをかなえただけで、死の知らせはついでのようなものだ。……それにしても、おまえ」 「はい」 天人はキルヴァを凝視した。蒼眼は不愉快そうでもあり、愉快そうでもある。間が合って、天人は顎を撫でるしぐさをしながら不意に翼を広げた。 背後で気色ばむ気配がした。それを片手で制しながら、キルヴァは翼が十枚あることを数えた。十翼とは上位の天人だ。最高が長の十三翼で、次が十二翼、その次が十翼だ。翼の数だけ力を保有する天人も、上位ほど数が少ない。二桁の翼の天人は滅多に人前には姿を現さない希少種だ。 「不思議な奴だ。我らと対等に口をきくだけでもたいしたものだが、我らに対してまるで物怖じしないその資質はひとには珍しいぞ」 「あなたがそれを許してくださったからでしょう。あなたは私などいつでも殺すことができた。でもあなたはそうなさらなかった」 「我ら風の者は気まぐれだからな。おもしろければそれでいいのさ。ひとつ、教えてやろう。俺はジアの頼みで、セグランというひとの子にあるものを預けた。それは、おまえ宛のものだ。ジアはそれをおまえに渡すか渡さぬかの判断はそいつに任せると言っていた。さきほどおまえは懐の短刀が形見と言ったな。ということは、あれはまだお前の手には渡っていないということだろう。機会があれば訊ねてみるがいい」 「……ジアが、私に?」 「そうだ。あれは、我ら天人とひとの運命を左右する力を持っている恐ろしいものだ。願わくば、おまえの手元には届かぬように」 「ではなぜわざわざ教えてくださったのです」 「気まぐれさ。俺はもう行く」 「またこうしてお話できますか」 「……おまえはひとの子としてはよく我らの言語に通じている方なのだろうが、いかんせん発音が聞き苦しい。まずそれを直せ」 言い捨てて、風の天人は大きく翼を上下した。次の瞬間には空の彼方に消えていた。
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