「ダリー、ミシカ、支度の手伝いを頼む」 短い返答のあと、ダリーとミシカは手際よく馬に括りつけていた衣装箱二つを下ろし、敷物を敷いてその上で荷ほどきをはじめた。カズスとクレイは皆の馬を誘導し、湖で水を飲ませ、草地に連れて行き、手綱を解けぬよう樹の幹に括りつける。エディニィとアズガルはどちらともなく左右から近辺に異常がないか見回りに行った。 キルヴァは敷物の上で服を脱ぎ、着替えはじめた。ミシカが衣装箱から丁重な手つきで取り出した衣装を見て、クレイが悲鳴をあげた。 「うわっ、大真紅黄長衣!本物ですか!?うわわわわ、被り巻き布、肩帯、帯締め、腰紐、履物まで一式勢揃え……!いったい何事ですか、これは!」 「よく知っているな、クレイ」 「まさか!実物など見たことありませんよ!姿絵だけ――たった一度お目にかかったことがあるだけです!うわあ……すごい。これはすごい……本物だ……こんな、こんな、なんて……なんて美しい……王子、よく、よくお似合いです……素晴らしい……信じられない。この眼で、こんなに間近に本物を拝見できるなんて……」 感無量といった風情でいまにも泣き咽びそうなクレイに対して少し胡散臭いものでも見るような眼で眺めてカズスが訊いた。 「……まあ、確かに赤くてきれいだけどさ。この衣装、そんなにすごいの?どこが?」 「口を慎め!この衣装は、王族の方にだけ許された真紅であるばかりじゃなくて、ごく限られた祭典や儀礼にのみ着用を許されるものなんだぞ。王でさえ、一生のうちに袖を通される機会など数えるくらいしかないはずだ。主な用途は高位の王族の結婚か葬儀か王位継承か……それぐらいのものだ。この衣装に触れられるのもごく限られた人間で、管理もそれは厳重なはずなのに……ねぇ王子、よろしいのですか?こんな、我々の前で、それも湖のほとりで、十分な警護なく、しきたりも無視で、儀式もなにもないままなんて……いや、よくない。よくないですよ。こんな不用心なところ誰かに見られでもしたら一大事です!」 「そうだな。だから皆、他言無用だぞ。よいな」 「そんな、王子……勘弁してくださいよ。いえ、お似合いですよ?さすがにお似合いですけど、でもやはりこんなところを誰かに見られでもしたらまずいですって。俺たちも咎められるでしょうが、まあそれはやむを得ないとして、王子だってただではすみませんよ?」 クレイは泣きごとをぶつぶつ言いはじめた。キルヴァは平然と聞き流して、真紅の衣装を順番に、正確に、慎重に、すべて身につけた。上衣は立ち襟で丈は長く太腿まであり、脇にスリットがあるので腕の上げ下げはしやすいようになっている。下衣は裾のやや広がった薄いズボンを穿き、更にその上に横長の一枚布をそのまま腰に巻き、前で襞をつくり巻きつける。それから肩帯を右から左に斜めに掛け、帯を締め、腰紐を飾りに流し、被り布で頭を覆い、赤い王家の紋章の飾りで留める。最後に同布の履物を履く。 大真紅黄長衣――王家の真紅に黄色の糸での独特の意匠の刺繍を施した特別の儀礼服。これを纏うのは母の葬儀以来のことだ。 クレイが大騒ぎするのも無理からぬことだ、とキルヴァは思った。実際それだけの価値のあるものであり、滅多に人目に触れるものではない。このたびは自分の裁量で無断で持ち出したのだが、それもあってはならないことで、露見すればクレイの言うとおりなんらかの処罰が下るだろう。だが。 「……それでもよい。私にできることなどこのぐらいしかないのだ」 「いったいなにをなさるおつもりですか」 ダリーとミシカが一通り片づけをすませた頃、見回りからエディニィとアズガルが戻ってきた。 「まあ、素敵なお召し物ですね、王子!よくお似合いです」 エディニィが率直に褒めるのも面白くない様子でクレイが渋面する。アズガルさえ眼を瞠って訝しげに首を捻った。カズスは肩にとめたカドゥサにおやつをやりながら事の成り行きをぼんやり見ている。 「皆はあちらに下がっていてくれ。アズガル、君も。大丈夫、なにも危険なことはない」 キルヴァは持参した聖水で唇と手を清めた。 「これから私の古い友人のために葬送剣舞を舞う。少しの間静かに見ていてくれないか」 「……葬送剣舞?しかし、肝心の剣は?持ってきていませんが」 ダリーが疑問を口にした。 「剣はいい。代りのものがある。さあ、皆下がれ」 キルヴァが背を向けるとほぼ同時にカドゥサがカズスの肩より羽ばたいて、近くの樹にとまる。皆も少し離れて、クレイの説教のもと、姿勢を正してキルヴァを見守った。 キルヴァはある方角を眺めて、腕を十字に交差して左足を引き、腰を折って深々と一礼した。懐から蒼い鞘の短刀を一振り抜き、その鞘をいったん押し戴いてから聖布を広げた上に置く。それからもう一振りいつも持ち歩く短刀を抜き、こちらの鞘は地面に置く。両手に柄を握り、更に深く拝礼し、そのままの姿勢でしばらく黙祷を捧げたのちにごく小さな声で申し述べた。 「我が古き良き友人ジアに厚く感謝申し上げる。私の我が儘によりあなたには多大な迷惑と負担をかけたことをお詫びしたい。またあなたの親切に対してなんの恩にも報えぬままあなたを失ったことが辛くてならない。なにより、あなたとの約束をかなえられなかったこと、とても残念に思うよ、ジア」 キルヴァは顔を上げ、「カドゥサ!」と小さく叫んだ。カドゥサはすぐにやってきて、キルヴァの肩にとまった。 「……見えるかい?あのときのヒナだよ。カドゥサと名をつけた。はじめのうちは食べ物を食べないし、馴れなくて苦労したけど、いまでは私の友達だ。セグランも、いまここにはいないけど、なんとか元気でやっているようだ。……私も、頑張っているよ」 キルヴァは微笑んですっくと立った。カドゥサが浅く飛び離れる。 「……本当は庵まで行きたかったよ。だけど、あそこは私とセグランの秘密の場所にしようと思う。かまわないよね?返事はいらない、たぶん、あなたのことだ、いいと言ってくれると思うから。だから、いまはここで許してほしい。――ここに、私、キルヴァ・ダルトワ・イシュリーがあなたのために祈りを捧げる」 ゆっくりと、キルヴァは舞いはじめた。大きな動作も、小さな動作も、指先まで丁寧に型が決められている。音は立てず、呼気も小さく整えて、きわめてゆるく、ひとつひとつの型を絶え間なく連ねていく。さながら川の流れのように。風の形に袖が膨らみ、帯が揺れ、上衣の裾がたなびく。高く立ち、低く屈む。右腕は天を指し、左腕はまっすぐに、片膝を曲げて片足で一呼吸停止する。眼を瞑ったまま、まわる、まわる、まわる。平伏し、すぐに宙を斬るしぐさで腕を大きく交差する。勝負とばかりに身構えて、一呼吸、前に出て、押し通す。右に避け、左に避け、身体を捻りながら短刀を縦に振りおろす。翻る袖。 舞いながら、キルヴァはジアの訃報をセグランより知らされたときの衝撃を思い出した。 ただ一度、少しの時間を共有しただけなのに、坊と呼んだあの老爺をとても好きになっていた。思いもがけないほどの信頼を寄せていることに気がついたのは、何年も何年も経ってからだ。だから、再会を約束しながら果たせなかったことが悔しかった。そんなに離れているわけでもないのに、自由に会いに行けない身の上が恨めしかった。深い悲しみが、胸を衝いた。 キルヴァは葬送歌を歌いはじめた。高低差に余裕のある深みのある声が樹木の梢を揺らし、爽やかに渡る風に乗り、高み高みへと流れてゆく。空の向こうへと、吸い込まれてゆく。舞いと歌と祈りのすべてをキルヴァはジアに送った。 その眠りが安らかであるようにと切に願って、キルヴァは静かに顔を伏せ、ふわりと軽い動作で膝を折り、短刀をそれぞれ鞘に戻して葬送剣舞を終えた。
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