彼女は首にかけていた小さな袋を取出し、ナディルに差し出した。その中には、日頃シーナが身につけていた装飾品の一部が入っている。母から譲り受けた形見も含まれていたが、多大な犠牲を払ってまでシーナを助けようとしてくれたこの男に礼をするためなら、手放すのも惜しくはない。もう必要のない物だった。 「たいしたものは入っていないが、売れば多少の値はつく筈だ。受け取ってくれないか」 しかし、ナディルはじっと彼女を見上げたまま、袋を受け取ろうとはしない。 「あんたも勝手な人間だな」 「それはお互い様だろう」 彼女が目元を和ませたその時、ナディルの顔付きが急に変わった。違和感を覚えたのもつかの間、覆いかぶさってきたナディルに押し倒される。声を上げる暇もなかった。 ナディルは低い姿勢のまま、シーナを抱えて岩陰に転がり込む。その途中、身体一つ分も離れていない場所に矢が突き立った。それで彼女にもようやく事態を飲み込めた。 とうとう追っ手に見つかったのだ。 「俺から離れるな。隙を見て逃げるぞ」 対岸の茂みの向こうから放たれた矢は、次々と河原に突き刺さる。おそらく敵の数は多い。しかもこちらには対抗出来るような飛び道具がなかった。 だが、ナディルの声は落ち着いていた。 「勝算はあるのか?」 「さてな」 仮にこの場はしのげたとしても、足跡を辿られればすぐに追い付かれる。今度こそ逃げ道はない。 このままでは二人とも殺される。 「わたしが――」 衝動に突き動かされるように、シーナは走り出していた。 今度は自分が囮になればいい。標的である王女を始末すれば、逃亡の手引きをした男の方までは深追いされないかもしれない。 雪の凍り付いた地面に足を取られ、よろめく。その拍子にナディルから借りていた外套のフードが脱げた。矢を射かける敵の目からも、赤銅色の長い髪とまだ幼さの残る少女の顔が、昇り出した太陽の光に照らされてはっきりと確認出来たに違いなかった。 (殺せばいい。わたしはもう逃げも隠れもしない) 生き延びるよりも今ここで殺される方が、はるかに意味があるに違いないのだ。 シーナはその場に立ち尽くし、固く目を閉じる。父や、母や、自分を可愛がり守ってくれた大切な人たちの顔を心に思い浮かべようとした。 (今、参ります――) そう念じた時だ。重い衝撃を感じた。 地面に倒れ込みながら、彼女は心の中でうめく。この程度の衝撃では、きっと人は死ねない。自分の命がまだあることに軽い落胆を覚えながら、彼女は目を開ける。 目の前に、素早く立ち上がるナディルの後姿があった。その腹部には、深々と矢が突き立っていた。 「……やめろ!!」 身体は思うように動かない。声を張り上げるのが精一杯だった。 彼は振り向きもしない。シーナを背中に庇ったまま剣を抜き、射られた矢の一本を切り伏せる。同時に、他の矢が彼の左足を貫いた。 「ナディル……!!」 ナディルは体勢を崩して膝を折る。シーナは彼の肩を乱暴につかんだ。 湧き上がってくるのは、止めようのない怒りだった。 「なぜ」 なぜ邪魔をする。なぜ引き止める。なぜ自ら犠牲になろうとする。 「馬鹿な真似を……なぜだ――答えろ!」 いつの間にか攻撃は止んでいた。ナディルが負傷したのを見て、戦闘力が失われたものと判断したのだろうか。抵抗が少なくなったところで、生け捕りにするつもりなのかもしれない。 灰色の服を来た兵士たちの姿が対岸にちらつくのを目で追ってから、シーナは彼の横に膝をついた。 「……俺だって嫌なんだ」 「何……?」 矢傷からは鮮血が噴き出して、雪の上に紅い染みを広げていく。ナディルの顔は蒼白だった。しかし血を吐いて汚れた唇には、なぜか微笑が浮かんでいる。 シーナはその顔面を力一杯殴り付けたい衝動を必死にこらえた。なぜ両目から涙があふれてこぼれ落ちていくのか、彼女自身にも理解できない。 悪かった、と詫びるナディルの声が、弱々しくかすれる。そうしてそのまま力を失った身体を、シーナは抱きかかえた。緑色の柔らかく縮れた髪に、顔を埋める。 「お前が命を懸ける理由など、何一つないじゃないか」 それなのに、なぜ。 一つも納得がいかなかった。カリブーを見捨てたように、見殺しにして逃げれば良かったではないか。王女の家来でも、下僕でもないのだから。 「教えてくれ……一体何のために?」 (わたしが守られる理由を教えてくれ。そうまでして生きねばならない理由を) 返答はなかった。シーナの腕の中でぐったりと目を閉じた彼は、既に意識がないようだった。 こんなことが、あっていいはずがない。 激情が身体中を駆け巡るのを止められなかった。 「シーナ・フェルロンだな」 男の大きな声が頭上からすると共に、目の前に剣の切っ先が突きつけられた。周囲を軍靴の荒々しい足音に取り囲まれる。 「両手を挙げて立て」 彼女はナディルの頭を強く胸に抱き寄せ、それから真っ直ぐに顔を上げた。 腕の中の身体は、まだ温もりを宿している。 「この男を射たのは誰だ」 言い終える前に、兵士の持つ剣先がシーナの顎にひやりと当たった。 「立てと言った筈だ。歯向かえばこの場で殺すぞ」 シーナの金色の双眸がぎらりと異様な光を放つ。駆け巡り、凝縮され、放出される、“力”。 正面に立って彼女に剣を突きつけていた兵士は、爆風を受けたような案配で後方に吹き飛ばされた。一瞬にして岩に叩きつけられた兵士は大量の血を吐き、事切れている。 残りの者たちは一気に殺気立った。 「……っ貴様、一体何をした!?」 殺せ、と口々に叫び、剣を抜く。 シーナの視線がゆっくりと彼らの姿をないでいった。兵士があと七人いることを確認する。 彼女の心は彼女自身も不思議に思うほど静まり返っていた。ただ、全身をめぐる血が、沸騰したように熱かった。
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