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作品名:暁香の王 作者:さち子

第8回   一章(5)


 その夜は、天幕も張らないような野宿だった。二人は毛布に包まり、身を寄せ合って眠る。ナディルと行動を共にするようになってから、シーナは次第にこの男の腕の中で眠ることに慣れてきていた。
 何の拍子にか、シーナは目を覚ました。周囲はまだ暗い。ナディルの腕が彼女の頭を覆うように被さっている。
 辺りは静まり返っている。しかし何かがおかしかった。身体が強張る。暗闇が、静寂が怖い。
 その時、頭上で木の枝がしなって微かな音をたてた。鼓動が跳ね上がる。
 ――木の上に何かいる。
 起き上がろうにも、ナディルの腕が鉛のように重たくて動きが取れない。枕にしているカリブーの背が、落ち着かなげに身じろいだ。
 とにかくナディルを起こそうと声を上げかけて、しかしシーナの顔面は彼の胸に強く押し付けられた。
「……っ……」
 明らかに意志のある手の動きといつもより少し早い心臓の音。彼は既に眠りから覚めていたのだ。
 静かにしていろと言うことなのか。
 無意識のうちに、ナディルの服の裾を握りしめる。そわりと背筋を這うような緊張感に、冷や汗がにじんだ。
 カリブーが唐突に立ち上がったのと、シーナの身体がバネ仕掛けのように跳ね起きたのが同時だった。いや、正確にはナディルが彼女の襟首を掴んで引き起こしたのだ。
「走れ!」
 ナディルの切迫した声に、悲痛な獣の鳴き声が重なる。起こされた勢いのまま、シーナはつんのめるようにして駆け出していた。
 家畜の甲高いいななきと、唸るような、複数の野獣の声。
 振り返ることなど、恐ろしくて出来ない。
 シーナは朧げな陰影を落とす木々の間を夢中で摺り抜けていく。何が起きたのか、考える余裕もなかった。ただ本能的な恐怖に駆られ、どこへ向かうのかも分からないまま、無茶苦茶に走る。
 すぐに息が切れた。まだいくらも走っていない。
 木の根に足を取られてよろめいたところを、脇から支えられる。
 ナディルだ。いつの間にか追い付いてきたらしい。実際、一人でいたのはほんの短い時間に過ぎなかったのだろう。
 途端に、シーナは腰が抜けそうになる。口の中がからからに渇いて声も出なかった。彼はそのまま、半ばシーナを抱えるようにして、闇の中をさらに駆けた。
 ナディルがようやく足を止めたのは、空がぼんやりと白み出してからである。
「少し休もう」
 大小様々な岩が転がる、足場の悪い小さな沢だ。シーナは雪が氷のように固まって滑りやすくなった岩の上にへたり込んだ。ナディルの先導があったとはいえ、夜の山道を長時間走ったのだ。体力はとうに限界を越えて、身体中が悲鳴を上げているのが分かった。
「一体……何が起きたんだ」
 口をきくのも億劫だったが、まずはそう問わなければなるまい。シーナにも何となく、予想はついていたが。
「雪豹の群れだ。数が多すぎて相手にしきれん」
 隣に腰を下ろした彼の声にも、疲労感がただよっている。
「あの子、カリブーは……」
 大きな角は武器にもなるし、足も早い。木に括りつけていた手綱さえ解いてしまえば、自力で逃げ延びているかもしれない。
「あいつがいなきゃ、今頃は俺たちが喰われてた。おそらく国境も近いから、徒歩でも今日の日暮れまでにはマーラに出る筈だが」
 ナディルは雪解け水を手ですくって口に含み、さらに顔を洗う。シーナはそんな彼の横顔をまじまじと見つめた。
 この男、一体何を言っているのだろう。ぴり、と頬が引きつった。
「……囮、にしたのか?」
 手綱を解いて逃がしたのではなかったのか。そのために後から追い付いてきたものと思っていたのに。
 ナディルはうっとおしそうに濡れた前髪をかき上げた。
「あれは逃げ遅れたものを狙う。カリブー一頭あてがっておけば、人間まで喰う気は起きないだろう」
 無意識のうちに、右手を振り上げていた。だがその掌が彼の顔面に届く前に、難無く手首を掴まれる。朝もやの中でようやくはっきりと見え始めたナディルの顔が、不愉快そうに歪んだ。
「……なぜ、助けなかったんだ」
 動物だろうと一つの命であることに変わりはない。それをなぜ、こうも簡単に淡々とした顔で捨ててしまえるのだろう。
「俺たちが助かるためだ。他に何がある」
 嫌そうに言い捨てて、彼は掴んでいたシーナの手を離す。
「お前には情というものがないのか!?」
 足場の悪い雪山を、シーナを乗せて忍耐強く歩いてくれた。夜は温もりを分けてくれた。その優しげな目は、人間の言うことを理解しているようにすら見えたのに。
 怒りと悔しさで目頭が熱くなる。
 いつ死んでもいいと思っていた。むしろ、誰かが殺しに来てくれないかとさえ願っていた。どこへ行くあてもない。ソランド帝国への復讐心も確かにあった。しかし本当は国を相手に戦うのは不可能に近いと諦めていた。そんな権力も気力も持っていないから。
 あるのは、心に巣くう憎悪だけ。
 こんなぼろきれみたいな人間のどこに、他の命の上に立って生きる権利があるというのだろう。こんなことになるのなら、生き延びたりなどするのではなかった。
 結局、この事態を予測出来なかった自分に非があるのだと悟る。ナディルは、偶然拾った人間を助けようとしていただけだ。彼を非難するのは間違っている。
 シーナは目尻の涙を乱暴な手つきで拭い、立ち上がった。
「助けてくれたことには感謝している。だが、ここでお別れだ」
「ここまで来ておいて、今さら何を」 
 短く嘆息してシーナを見上げたナディルの目は、既にどんな感情も表してはいない。その静かな双眸を見返しているうちに、激情は波のように去っていった。ただ、鉛のように重い疲労感だけが残る。シーナは苦笑して、小さく首を横に振った。
「もう見たくないんだ」
 これ以上の犠牲は見たくない。不の連鎖を断ち切る方法は一つしかなかった。


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