「どうかしたのか?」 夜が明ける前に洞穴から這い出して以来、一度も足を止めなかったナディルが不意に立ち止まったのは、太陽が天頂近くまで昇り詰めた頃のことだった。ただならぬ気配を察して、シーナは硬い声で彼に問い掛ける。ナディルは答えず、振り仰いだ頭上をじっと見つめている。足並みを乱されて不満そうに鼻を鳴らすカリブーの首筋をなでてなだめてやりながら、シーナも彼の視線の先を追って上を見上げた。 雪を分厚く被った針葉樹の枝葉の間から、眩しいくらいによく晴れた空が垣間見えた。そのかなり低いところを、一羽のとんびが舞っている。いや、舞っているのではなくもがいていたのだ、と気付いたのは、とんびの翼が急に力を失ってその身体が物のように真っ逆さまに墜落してからである。鳥の身体は騒々しい音をたてて枝葉を折り、彼らの極近くの茂みに落下した。 「今のは?」 これには低く、分からないと返答があった。 「誰かに見られている気がした」 彼は訝し気に周囲を見渡す。その声には緊張の色があった。薄暗い山の中は静まり返り、人どころか動物の気配すら感じられない。 「……何もいないようだが」 シーナが言うと、彼は無言で頷く。そして、すぐに再びカリブーの手綱を引いて歩き始めた。 「急ごう」 追っ手の包囲が完成する前に、少しでも遠くへ。雪が止んでしまった今、シーナたちの跡を追うのは限りなく容易になってしまった。足跡さえ見つければ、それをたどるだけなのだ。出来得る限りの策としてシーナはカリブーに跨がり、見通しの悪いうっそうとした木立の中ばかりを進んでいるが、自分たちの後ろに延々と残された一人と一頭が歩いた痕跡を見ると、とても心穏やかではいられない。 それにしても、ナディルは恐ろしい程の健脚ぶりを披露していた。雪で足場の悪い山道を明け方から歩き通しなのに、一向に疲れた様子が見えないのだ。むしろ彼女が乗っているカリブーの動きの方が鈍くなっている気がする。 「道は合っているのか?」 ほとんど迷う素振りも見せないので、ただやみくもに歩いているだけなのではと、シーナは逆に不安になる。奥深い山の中の景色は代わり映えがなく、同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。時折開かれた雪原を見つけることもあったが、ナディルは決してそのような場所を通ろうとはしなかった。 「だいたいの方角なら掴んでいる」 彼は無愛想に答える。だいたいこの男は全てにおいてこの調子なので、シーナは若干の苛立ちを感じずにはいられなかった。そもそも彼女は、和やかな笑顔や美麗美句を一切含まない会話というものに慣れていない。三日三晩狭い洞穴の中で共に過ごしたにもかかわらず、ナディルの口から聞き出せたことはそう多くはなかった。彼が南方の地図にも記されないような小さな王国の出身であることや、国がソランド帝国の侵略にあってからは傭兵や行商をしてあてもなく流れ歩いているといった程度のことしか、シーナは知らされていない。 「そういえば、その髪の色は祖国の特徴か?」 ナディルの柔らかく縮れた髪が鮮やかな緑色をしていることに気付いたのは、それが太陽の光にさらされてからのことである。暗い洞穴の中では、黒髪と見分けが付かなかったのだ。 「それは今聞く必要があることなのか」 ナディルは振り返りもしない。普段ならば無礼な、と叱責しているところだが、王宮の中での常識が市井では通用しないことが分からないほど、シーナは愚かではない。 「珍しいと思ったから聞いているだけだ」 「あんたの好奇心を満たしてやる義務は俺にはないな」 「言いたくないのならば答えなくていい……怒らせる気はなかったんだ」 「怒ってなどいない」 シーナは深い溜息をついた。精一杯の誠意を持って接しているつもりだが、どうも会話がぎこちない。先の見通しはないが少なくともしばらくの間は行動を共にするのだから、ある程度は交流を深めようという考えが働いてもよさそうなものである。だが、ナディルにはそんな気はないらしい。 「疲れたか?腹が減ったのなら右側の荷の中に食料があるから勝手に食え」 半日もカリブーに跨っていれば疲れないわけはなかったが、同じ道のりを歩き通しで平然としている相手にそう告げることには気が進まなかった。弱音を吐いて負けたような気分にはなりたくない。 それに食料と言っても、きっとあの得体の知れない粉末だろう。小麦やとうもろこしやチーズや薬草、とにかくいろんな物を粉にして混ぜた代物で、栄養価の高い携帯食品だそうだ。食べる分だけ水を加えてこね、モチ状にして食す。腹持ちはいいが、味がひどい。洞窟の中で散々食べたせいで、いい加減うんざりしていた。またあれを口に入れるくらいなら、空腹を我慢したほうがまだましというものだ。無表情のままパクついているナディルを見ると、余計に食欲が失せる。 他のものはないのかと聞いたこともあったが、贅沢言うなと切り捨てられ、危うく喧嘩になるところだった。 「私は大丈夫だ。お前こそ休まなくていいのか?」 「俺は慣れている。今は休んでいる暇はない」 ナディルが焦っているのは、彼女にも痛いほどよく分かっていた。実際、吹雪が小康状態になる度に出発しようとする彼を思い止まらせるのは大変な作業だったのだ。山の天気は変わりやすい。特にバノヴェの吹雪は一日やそこらで止むことはなく、いくら小降りになったからといってうかつに外へ出れば遭難するだけだ。完全に風が凪いで雲一つない青空が見えるまで、嵐が去ったとは言えない。シーナはそう力説し、事実彼女の言う通りに天候が動くので、ナディルも渋々納得した。結局丸三日間も洞穴の中に閉じ込められていたが、おそらく追っ手も吹雪に阻まれて捜索は遅れている筈だ。今は、そう信じて進むしかない。 ふと、シーナは不思議な気持ちになった。もう何日も湯を浴びていないどころか、自慢だった髪をすくことすらしていない。毎日手入れがされていた指先にはしもやけが出来、赤銅色の長い髪は無造作に束ねられてフードの中に押し込まれている。五日前の自分なら、今頃は暖かな王宮で側近たちと賑やかな昼餉の時間を楽しんでいた筈だ。その頃既に父王は戦死し、ソランド帝国軍が間近に迫っていたといえど、どうして自分一人が生き残り、見知らぬ男に連れられて亡命しようとしているなどと想像出来ただろうか。 フェルロン王国は一体どこで、何を間違えたのだろう。もしもどこかの時点で何か別の決断が下されていたのなら、シーナは今も王女として幸福な時を過ごしていただろうか。その満ち足りた時が、ひどく脆いものだということも知らずに。 「お前は、ユマが憎いか?」 自然と口をついて出た問いかけにも、ナディルはやはり前を向いたままだった。一層深い茂みの中へと分け入って行く。 「分かりきったことを聞くな」 不機嫌な声だ。それでも、シーナはこの若者が受けた痛みを察することが出来た。いや、きっと同じ思いを知っているのだ。 今は亡き、両親や側近たちの顔が脳裏に浮かんでは消えた。歴史ある重厚な石造りの城。貴族たちが集う美しい造形の施された庭園や、数人の者しか知らない秘密の裏庭。四季折々に変化する、猛々しい連山。そして、いつも民の活気にあふれていたバノヴェの都。その全てを、彼女は愛していた。 それが何故、奪われなければならなかったのだろう。ただ力ずくで奪われ、逃げ出さなければならない。祖国の土地に留まることさえ許されない。一体何故? シーナは、寒さで血の気の引いた唇を強く噛み締めた。 取り返したい。奪われたものの、全てを。 己に与えられた力が、過小なものだと分かっていても。 「わたしは幸せに育ちすぎた……」 この世に、こんなにも強く禍々しい想いがあるなんて知らなかったのだ。 「無知とは恐ろしいものだな」 暗い心に内側から蝕まれていく気がする。それでも構わないと思っている自分自身を、シーナは扱いかねていた。 「同感だ」 初めて得られた賛同に、シーナはぐっと眉根を寄せて渋面になる。 「お前、それはわたしに対する厭味か?」 「いや、俺自身のことを言っている」 初めてちらりと振り返ったナディルの口元には、皮肉げな微笑が刻まれていた。
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