シーナの目をじっと見返していた男は、やがて小さな瓶を懐から出して彼女の前に置いた。 「飲め。ただし、全部は飲むなよ」 素っ気なく言って立ち上がり、元いた場所に座り直す。 「わたしを殺せ。それがお前の望みだろう!?」 声を荒らげるシーナには見向きもせず、男はけだるげに片膝を抱えて背後の壁にもたれ掛かった。 「死にたいならそれを飲んでみろ。毒が入っているかもしれない」 「何……?」 男が何を意図しているのか、シーナにはわからなかった。いかにも面倒臭そうな口調でそんなことを言われても、あまり信憑性がない。 それでもシーナは瓶をわしづかみにし、中身を煽った。半ば自棄になっていたのかもしれない。しかし一息に半分ほど飲んで、それが強いブランデーであることを知る。味はあまり上等ではない。しかし自分の身体に変化がないことで、少なくとも即効性の毒は入っていないことが証明された。アルコールは、冷え切っていた彼女の身体を内側から温めようとする。 「俺に近寄られるのがそんなに嫌なら、そこのカリブーにでも抱き着いていろ。また凍えてもこれ以上の世話は出来ないからな」 シーナは呆然とする。この男は雪山で倒れている彼女を助け、自らの体温で彼女の身体を温めようとしていたのだ。しかし、敵国の兵士が、一体何のために? 「お前……何のつもりだ。わたしがフェルロンの王女だと知っていながら」 男はふんと鼻を鳴らして、自分の着ている灰色の軍服をつまむ。 「これは借りただけだ。別にいつ脱ぎ捨てたっていい。あんたが俺の服を返してくれるならな」 男の指摘に、シーナは自分が男物の質素な服を着ていることに初めて気が付いた。大きさが合わなくて、不格好にだぶついている。 「わたしの服は……」 「濡れていたから全部脱がせた」 男は事もなげに言い放つ。シーナが耳まで赤くなったのは、何もブランデーの酔いが回ったせいだけではない。 「み、見たのかっ」 なんという恥辱だろう。シーナはこの時初めて、自分のような年頃の娘が若い男と二人きりでいる危険について思い至った。男は不愉快そうに、形のよい眉根を寄せる。 「俺があんたの裸に一瞬でも見とれていたら、今頃あんたは石みたいに冷たくなっていた筈だ。妙な勘違いはするな」 シーナはぐっと言葉に詰まる。それはもっともなことで、納得のいく説明だったが、どこか面白くない。 「……何故、すぐに言わなかった。その軍服を着ていれば誤解を生むのは当然だろう」 最初の時点でこの男に敵意がないことが分かっていれば、力を使うこともなかった。体力、精神力を無駄に擦り減らしてしまった。 「事情を説明する前に暴れ出したのはあんただ」 反論のしようがなく、シーナは押し黙る。にこりとも笑わない男の顔が小憎らしい。 「吹雪がおさまり次第ここを出る。それまで身体を休めておけ」 「わたしをどうするつもりだ」 「決めていない。とりあえず、安全で暖かくて飢えないところに移動する」 シーナは警戒しつつも、男の隣に移動した。充分な明かりがない中、一つの嘘も見逃すまいと男の顔を間近に覗き込む。 「お前の目的は何だ」 追われている王女を助けて、一体何の得があるだろう。ソランドに売れば相応の見返りはあるかもしれない。それとも、もっと別の狙いがあるのか――? 「雪の中に行き倒れている人を見つけて、あんたは助けないのか」 「はぐらかすな。お前はフェルロンの民か?」 「違う。旅の途中だ」 ただの善意と受け止めるには無理があり過ぎる。フェルロン人が敬愛する王家の姫を助けたというなら話は分かるが、彼はそれも違うと言う。ますます分からない。考えること自体にうんざりしてきて、シーナは男から顔をそむけ、膝を抱えた。 「もういい。……疲れた」 そもそも、今生きていることが奇跡なのだ。死ぬ覚悟はしていた筈だ。もう恐れるものも、失って困るものもない。いざとなったら自害するだけのこと。 そう決めたら、不思議と心が落ち着いた。今はこのまま眠ってしまおう。 不意に男の腕が伸びてきて、身体を抱き寄せられた。シーナはとっさに身を引こうとしたが男は強引に、彼女の頭を自分の胸に抱き込んだ。 「何もしない。こんなところで凍えたくないだけだ」 彼女の頭上から男は言う。男の胸に密着した右耳から、穏やかな鼓動が聞こえてきた。確かに、こうしている方がはるかに暖かい。男の寒さにかじかんだ指が、さらりとシーナの長い髪を撫で付ける。ランプのほのかな明かりに照らされた彼女の豊かな赤銅色の髪は、月光を浴びた静かな湖面のように控えめな輝きを放っていた。 「俺の国もソランドに奪われた。家族も、友も、全て」 やがて告げた男の声音には、どこか頑なな響きがあった。それゆえに、その言葉はすとんとシーナの胸の中に落ち着く。同じ想いを味わわされた者がいたのだ。この、孤独と絶望を。 「何故、生きる道を選んだ?」 死んだほうがよほどマシだとは思わなかったのか。一体何が、彼を死の誘惑から遠ざけたのだろう。 「俺が選んだわけじゃない」 そうか、とシーナは呟いて、目を閉じた。男の単調な声と心臓の音を聞いているうちに、眠くなってきていた。このまま目が覚めなければいいのに、とどこかで思う。 「お前、名は」 ナディル、と答えた男の声は、既に遠い――。
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