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作品名:暁香の王 作者:さち子

第3回   一章(2)



 全身に鈍い痛みを感じて、シーナは小さなうめき声をたてた。暗がりの中で一番に目に入ったのは、人間の男の横顔だった。そのあまりの近さに、彼女は全身を硬直させる。自分が見知らぬ男の両腕に抱き抱えられているのだと理解するのに、たいした時間はかからなかった。そしてシーナは、男の肩に縫い付けられた腕章を見つけて目を見開く。男は見間違えようのない、敵国の国旗が付いた軍服を着ていた。この男、ソランド帝国の兵士だ。
 反射的にその腕から逃れようとして、彼女は身体をよじった。だがその動きは逆に男の注意をひいたらしく、彼女を抱き抱える腕にも力が入る。
「……放せ、無礼者っ」
「耳元でわめくな」
 険悪な声と共に、顎を無造作につかまれる。今まで一度だってこのように乱暴に触れられたことはない。そのおぞましさに、シーナは全身の血が泡立つような恐怖を覚えた。
「誰か……!!」
 顔を背け、何とかして男から逃れようと手足をばたつかせる。振り回した手が、男の肩や顔を打つのが分かった。それもすぐに男の大きな手によって封じられてしまう。
「あんたの護衛は全員死んだ」
 シーナは一瞬動きを止め、間近にある男の黒い双眸を凝視した。男が何のことを言っているのか、すぐに分かった。
(この兵士は、わたしの素性を知っている)
 殺される、とそう思った。
「もう誰もいない」
 男の静かな言葉は、シーナの心を正確にえぐった。
 もう誰もいない。自分を守ってくれる者など。真っ白な雪の中に倒れた、最後の一人の死に顔が脳裏に蘇る。
「黙れっ――!!」
 キン、と耳鳴りがした。体内の熱がぎゅっと額に集まって、一気に放出される。それはほんの一瞬の感覚。
 男が受けた衝撃を、シーナもつかまれた手首越しに知ることが出来た。男の表情が苦しげに歪み、彼女を拘束していた力が少しだけ緩む。シーナは男を突き飛ばし、その場から這うようにして距離を取ろうとした。しかしすぐに壁に突き当たる。
 そこは、動物の穴倉のような薄暗くて狭苦しい空間だった。鼠でも出てきそうな洞穴の中を、たったひとつのランプがぼんやりと照らしている。じめじめとした黒土の天井は立ち上がれば頭がつかえそうな程に低い。出口は男が座っている方にあるだけで、逃げ道は全くなかった。さらに、狭い出口をふさぐようにして一頭の大きなカリブーが横たわっており、人間たちの騒ぎに不安を感じたのか、しきりに鼻を鳴らしている。
 心臓が狂ったように早鐘を打っている。油断なく男を睨み据えながら、シーナは息苦しさにあえいだ。“力”を暴走させてしまった。全身にかかる負荷に耐えながら、彼女は懸命に思考を巡らせる。身を守るには、この“力”を使うしかない。自分を守ってくれるのは、もう自分自身しかいないのだから。
「この程度か」
 男は低く言い、薄い唇に不穏な笑みを浮かべた。
「ベルグリッドの血も衰えたものだな」
 聖人ベルグリッドは、天から“力”を授かっていた。その“力”によって不治の病を癒し、人の心を読み、果ては天候まで操ったという。それは遠く現在まで受け継がれ、ベルグリッドの血を引く者たちは程度の差こそあれ、何かしらの特殊な能力を身につけている。直系の子孫であるフェルロン王家の第一王女シーナは、最も濃く聖人の血を受け継いでおり、したがってその能力も顕著に現れている筈だった。
 それを、この兵士は笑った。この程度か、と。
「……貴様、王家を愚弄するのか」
 シーナは怒りで声が震えるのを抑えることが出来なかった。ゆっくりと、男が立ち上がる。
「ならば俺を殺してみろ。こんな打撃じゃ、人は死なない」
「それ以上近付くな!」
 一歩踏み出した男の足元の土が飛び散った。そこには、一瞬にして大人の握りこぶしほどの大きさの穴が出来ている。しかし男はそんなものには目もくれず、シーナの前にしゃがみ込んだ。目の前にある男の顔は驚くほど若く人形のように整っていて、しかしどこかやつれた印象を彼女に与えた。
「あんた、人に向けてその力を使ったことなんかないだろう。温室育ちのお姫様だもんな。……狙いがぶれてるぜ?」
 ひどい目眩がした。同時に大粒の涙が両目からこぼれ落ちるのを、シーナは止めることが出来ない。
 全て見透かされている。シーナは涙を拭うこともせず、そのまま男を真っ直ぐに睨み返した。この上、敵国の兵士の前で俯くことだけはしたくない。鳴咽を堪えて食いしばった歯の間から、彼女はうめくように言葉を発する。
「殺すなら殺せばいい」
 これ以上生き恥をさらすことには耐えられない。父は国土を戦場にすまいと国境を守るために出陣して死んだ。母はシーナを逃がすため、自らおとりとなり城に残って殺された。側近たちはシーナを守るために次々と敵に討ち掛かっていった――。しかし、国は滅んだのだ。自分はもう、王女ではない。たった独りで生き延びる価値が、一体どこにあるというのだろう。
 命乞いはしない。たとえ全てを奪われても、身体に流れる王家の血は変わらない筈。


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