「起きたか。気分はどうだ?」
「悪くない。それより、一度ソリを停めてくれ」
何故? とシーナが問い返す。今は、一刻も早く人里に下りなければならない時だ。
「声が聞こえた。仲間が近くまで来ている筈だ」
ナディルの言葉に、エミリーは首を傾げて辺りを見渡した。 彼女は人影らしいものは何も見掛けていないし、人の声も聞いてはいない。 一方で、シーナは表情をさっと強張らせた。
「何故、仲間だと断言できる?」
「聞けば分かる。とにかく、停めてくれ。……出来れば崖っぷちじゃない、少し拓けたところで」
シーナは苦り切った顔をしている。理由は分からないが、彼女はナディルの判断に不満があることを隠そうともしない。 険悪な雰囲気に戸惑っていたエミリーだが、ふとナディルと視線がかちあって、弾かれたように御者台の方を振り返っていた。
「お父さん、ナディルさんがソリを停めてって言ってる。仲間が近くにいるんだって!」
なんだとぉ? と聞き返しながらも、ダニエルは緩やかに手綱を引いた。 なにぶん凍りついた雪上のことなので、急停止することは出来ない。無理に停めようとすればかえって危険が伴うため、ダニエルは巧みに馬を操り、徐々に速度を落とさせた。
やがて切り立った崖に接する大きなカーブを抜け、やや視界の悪い木立の中で、彼らを乗せたソリは静かに停止した。 風も止み、辺りは不気味なほどに静まり返っていた。シーナが何か口にし掛けたが、ナディルによって制される。 そこへどこからか聞こえてきたのは、あろうことか狼の遠吠えだった。それも、そう遠くではない。
エミリーは縋るような目で、父親とナディルを順に見比べる。 ダニエルは無言のまま、荷台に積んだ荷物を睨んでいる。 逃げるのならば出来るだけの荷を捨て、馬の負担を減らしてやらねばならない。おそらく、父はそう考えているのだろう。 狼の標的が彼らに定められたのかはまだ分からないが、この一帯が危険地帯になったことだけは疑いようがなかった。
「荷を捨てる必要はない」
その思考を読んだかのように、落ち着き払ったナディルの声が、ダニエルに向けられる。 三人が次に何をすべきか思案し沈黙する間に、ナディルはゆっくりと右手を口元へ持っていった。ピューイ、ピューイ、と指笛を二度鳴らす。 不意に、獣の遠吠えが止んだ。 誰も口を利かない。 ナディルは目を閉じて、じっと何かを待っているようである。シーナが緊張しているのが嫌でも伝わってくるので、自然とエミリーも両手を固く握りしめていた。 ナディルがふと目を開けたのと、彼らから少し離れた暗い茂みが音を立てて揺れたのが、ほぼ同時だった。 のそりと姿を見せたのは、人間ではなかった。
「やっ――」
エミリーの口から、喉を引っ掻くような不快感と共に短い悲鳴が飛び出す。
「静かに」
それを制した青年の声は、落ち着いているが厳しい叱責の色を含んでいる。
「ダニエル、馬を。暴れるといけない」
白い狼の巨体から視線を逸らさずに、彼はダニエルに告げる。 御者台でダニエルが動いたのが分かったが、エミリーは恐ろしくて父親の方を振り返ることすら出来なかった。横にいるシーナも、全身を硬直させている。 傷を庇いながら、ナディルはゆっくりと半身を起こした。
狼は落ち着きなく歩き回り、しきりにこちらの様子を窺っている。しかし、不思議と一定の距離以上は近寄ってこない。 普通は数十頭の群れで狩りをするものなのに、なぜかこの狼は仲間を連れていないようだった。 それに見ようによっては、どこか戸惑っているようにも見える。 ピュイ、とナディルが再び指笛を鳴らす。 青年と狼は、互いに動きを止めて見つめ合った。
視線をそらしたのは狼の方が先だった。 くぅん、と一つ、肉食獣にしてはかわいらしい声で鳴いて、呆気ないほど素早く身を翻す。 下草を揺らして白い毛並みが完全に見えなくなるのを、エミリーは呼吸すら忘れて見送っていた。ナディルが息をついたので、彼女ははっと我に返る。
「そりを出してくれ」
何事もなかったかのような口調で、ナディルはダニエルに告げた。
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