駄馬に曳かせたソリは、さほどの速度ではないが滑らかに山道を下りていく。 エミリーはその荷台の上で毛布に包まっていた。ぴりぴりと皮膚が切れてしまいそうな寒風を受けながら、後ろへ後ろへと流れていく白い梢を眺める。 国境地帯であるレイオーニ山の中腹にある家から麓の集落までは、傾斜はきつくないものの細く曲がりくねった一本道が続いていた。この道を使うのは、隣国へ抜けようとする旅人が時たまある以外、エミリーと彼女の父親であるダニエルしかいない。 そのダニエルは今、湾曲の激しい雪道から谷底へ落ち込まないように、ソリの操縦に全神経を集中させている。とはいえ一年を通して何度も往復している道なので、御者も馬も慣れたものだ。 ただいつもと勝手が違うのは二人の客人、しかも一人は怪我人を、同じ荷台に乗せていることであった。 三人も乗れば粗末な荷台はいっぱいである。荷物は最小限のものしか積め込めず、作りかけの薬草は小屋に残してくるしかなかった。 両手を組み合わせて瞑目し、隣国の戦禍を逃れてきた少女は何か熱心に祈っている。 その膝を枕にして、珍しい緑色の髪をした青年が眠っていた。寒さのためか負った傷のためか、端正なその顔は死人のように青ざめている。 町に下りて医者を呼んでくると父親が言い出したのは、今日の明け方のことだ。 ダニエルは薬師だったが、人里離れた彼らの家でできる治療には限界があった。さらに不運なことに、春から秋にかけて野山で採集し精製した薬を売り払ってしまった今の時期は、手持ちの治療薬はほとんど残されていなかった。化膿止めも鎮痛剤も、三日もすれば底を尽いてしまう。 一人で外出しようとしたダニエルは、しかし当のナディルによって引き止められた。 マーラと友好的な関係にあったフェルロン王国が滅ぼされ、南の侵略者たちが国境付近までうろつくようになった今の情勢を考えれば、ダニエル親子も早々に町へ避難した方が賢明だと言うのである。 容態の安定しない重傷者をソリに乗せて運ぶことにダニエルは難色を示した。第一、冬の間に精製する薬草の手入れを怠れば、春の稼ぎがなくなってしまう。 しかし、ソランド軍の兵士がこの小屋を見つけたら、年頃の娘の安全は保証されないだろうとナディルが付け足したことで、ダニエルは折れた。実際、彼らが日常的に利用する沢をほんの少し遡っただけのところで略奪者と化した兵士らに襲われた経緯を聞かされた後とあっては、彼の言葉は他の何よりも説得力があった。 エミリーはその時に自分の方へと投げられた、青年の少し険しい眼差しが脳裏に焼き付いて離れない。 気がつけば彼の存在を目で追ってしまう己にうろたえた彼女は、眠っている彼の方を見ないように、今もわざと変化に乏しい森の風景を見つめていた。 見上げると幾重にも覆いかぶさった枝葉の向こうで、太陽は既に南の高い位置に差し掛かっている。 早朝に荷台に乗り込んでから、少女たちの間に会話は一切なかった。
「シーナさん、お腹は空いてない? 食べ物も少し持って来たんだけど」
恐る恐る声をかけると、長い睫毛が揺れて金色の瞳がエミリーを見返す。そしてふっと頭上を仰いだ。 その何気ない仕種の一つを取っても、彼女は人目を引き付ける。 粗末な身なりをしていても、シーナという娘には内から濃く香り立つ何かがあるようだった。自分などとは育ちが違うのだということくらいは、彼女の立ち居振る舞いを見ていれば分かる。 バノヴェの貴族の令嬢だろうという父親の推測はあながち間違ったものではなさそうだが、エミリーは二人の流れ者の素性を尋ねることを禁じられていた。 人命救助は当然のこととしても、如何にもいわくありげな様子の男女である。保身のためにも決して深入りしてはならないと、ダニエルはいつになく厳しい声音で娘に言い渡していたのだった。 「もうそんな時刻か。あなたは気にせず食べてくれ。わたしはいらないから」
「でも、昨日も今朝もほとんど食べてないじゃない。体に毒よ」
シーナは目を伏せ、微かに首を横に振ってみせた。その白い顔には疲労の色が濃い。 エミリーは一つ溜め息を落としたが、彼女の好奇心は既に限界値に達していた。すぐに気を取り直し、横目でちらりと父親の背中を窺ってから、声をひそめて尋ねた。
「あの、さっきから何をお祈りしているのか、聞いてもいい?」
これには長い沈黙があった。入らぬ詮索をしてしまったかと不安になったころ、ぽつりと独り言のような答えが返ってきた。
「懺悔していた」
ほっそりとした手が、膝に頭を預けて眠る青年の頬に触れる。 淡く色付いた指先の行方を食い入るように見つめていた己に気づき、エミリーは一人赤面して俯く。 しかし幸いにも異国の少女は、そんな彼女の様子を気にとめる気配すらなかった。
「わたしは聖人を裏切った罪人……祈りを捧げる資格などないのは承知の上だがせめて、死者の魂が無事に主の御元に召されるように、と」
少し考え込むような間を置いてから、それから、と付け足す。
「この者の魂が無事地上に繋ぎ留められるようにと」
表情の変化に乏しい少女の顔が、この時ばかりは切なげに歪む。
ナディルさんはシーナさんの大事な人なのだ、とエミリーは思った。一人取り残されたような孤独感と焦燥感が、ぐっと喉元まで込み上げてくるようだ。
「ずいぶん愁傷だな」
不意にした声にエミリーは目を見開き、自然と身を乗り出していた。
「ナディルさんっ……」
シーナの膝の上で、眠っていた筈の青年がいつの間にか目を開けている。 シーナは少しばかり罰の悪そうな顔をして、彼に触れていた手をさりげなく退かした。
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