「――また戦になるな」
二人は騎乗し、午後の日差しを反射して光る大理石の王城へ向かう。 蹄の音に紛れてしまいそうな王子の独り言を、リアは耳聡く聞き付けて眉をひそめた。
「戦、ですか?」
「これから北に渡るものたちが落ち着かぬようだ」
彼は夏に向けて北方へ移動する渡り鳥のことを言っているのだろう。動物の防衛本能からくる直観は、時には人間の預言者の言葉よりも信頼に足る類いの情報であることを、リアはラファエルを通して学んでいた。 フェルロン王国との戦争は終結した。フェルロンから南側は帝国の支配下にあるが、さらに北への侵軍は非常な困難を伴うだろう。 フェルロンの北東に連なる山脈の向こうは大国ルモーニアの勢力圏で、今回の戦争によってソランド帝国とルモーニア大公国が西大陸をほぼ二分する形になった。いや、高地フェルロンという天然の要塞を得た時点で、両国はようやく対等になれたというところか。 しばらくは北に睨みを利かせながら、帝国内の体制を整えるのが賢明である。この時期に再び戦が起これば、帝国の不利益に繋がる可能性が高い。それが帝国の要人たちの、共通した認識であるはずだった。
「沙汰が下るのもそう遠い日のことではなかろうな」
「は、沙汰とは……」
意味を計りかねて問い返したリアに、ラファエルはにやりと笑いかける。
「知っているぞ。父上が近々、“王太子”を戦に出そうと目論んでいることくらいはな」
リアはただ息を呑んで主の顔を凝視する。どこでそれを、と尋ねることは無意味だと経験上知っている。 とんだ愚人だと陰口を叩かれるこの王子が、実は城内の誰よりも優れた情報網を手にしていることは、おそらくリア一人しか気づいていない。そのリアでさえ、主がどのようにしてこの手の情報を集めているのか、正確には把握していないのだ。人か獣かは置いておくとしても、ラファエルはスパイの正体を決して口にしない。
「目論むだなんて人聞きの悪い。陛下と直接お話なさればよいのでは?」
曖昧な笑みを浮かべたリアに、王子は強い視線を向けた。
「後継者が愚鈍なお陰で陛下はお忙しい。この上煩わせるのは本意ではない」
それに、と付け加えて、ラファエルは空を仰ぐ。その拍子にか大きな口から欠伸が出た。 馬上で気持ちよさそうに伸びをする王子と並んで馬を進めながら、リアは辛抱強く次の言葉を待つ。
「城に閉じ込められているよりは、幾分かでも愉快な気分になれるに違いないさ。知っているか? はるか北の地では、寒さで鼻水が凍るそうだ」
「まさか」
「信じていないな? 僕はお前の美しい顔が垂れて凍った鼻水でカチコチになるのを見るのが、今から楽しみで仕方がないよ」
考えただけでも面白いと言わんばかりに、彼は一人でくっくと笑っている。しかしそんな寒さの中にいたら、人の顔を見て笑うどころではなくなるだろうとリアは思う。ラファエルの顔だってカチコチに凍ってしまうに違いないのだ。
「留守番を命ぜられないとも限りませんよ」
ラファエルは当然の如くリアを同行させるつもりのようだが、共回りをどのような面子にするかは、彼の一存では決められない。 偏屈な王子は、ふふんと鼻でせせら笑った。
「心配は無用だ。リアがいないところになど一日だって行かぬと、ごねてやるさ」
陛下を煩わせたくないと言った口が、もうこれだ。気苦労が絶えないであろう陛下に対し、リアは同情を禁じ得ない。
「わたしとて安心したいですよ……できるものなら」
ウィリアムとエドマンドが調子よく立て続けに鼻を鳴らす。 言葉こそ通じないがどうやら笑われたらしいと察しをつけ、リアは情けなくなって眉尻を下げた。馬に笑われるなど、あまり気分の良いものではない。 リア、と名を呼ぶ響きがどことなく頼りなく聞こえて、彼はラファエルを見つめる。青い瞳と大理石のように白い肌を持つ横顔は、既に笑ってはいない。 波打つ金糸の髪を風になびかせ、ソランド帝国の王太子はじっと前方を見据えていた。
「お前は何があろうと、僕と共にあるのだろうな?」
その視線の先には王城の尖搭がいくつも空に向かってそびえている。海の青とオリーブの緑、そして太陽を表す黄金をあしらった国旗が穏やかな風を受けてはためいているのが、遠目にも確認できた。 ラファエルが負うものを、リアは分かち合うことができない。それは二人とも、嫌というほど理解してはいる。
「ラファエル様。貴方はわたしの主で、最愛の友ですよ」
しかしそう答えることに、躊躇いは微塵もなかった。 リアの答えを聞くなり、ラファエルは手綱を引き絞って馬を急停止させる。慌ててそれに倣い無理に馬首を巡らせて振り返ったリアに、彼は顔中を崩すようにして笑んだ。
「お前のことは、信頼している」
一言ずつ区切るようにはっきりと述べられた言葉に、リアの胸がじんわりと熱くなった。はい、と頷いて笑い返す。 その隙をわざと突いたのか否か、ラファエルは勢いよく馬腹を蹴った。
「久しぶりに競争しよう!」
言い終える前にウィリアムが喜々として駆け出す。
「な、お待ちください、ラファエル様!」
スタートが一緒でないなんて卑怯ではないか。リアは頭の片隅でちらりとそんなことを思いながら、エドマンドに後を追わせる。 もつれるように前後しながら疾走する二頭の馬は、若草を散らして丘を下っていった。
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