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作品名:暁香の王 作者:さち子

第2回   一章(1)


 フェルロン王国の首都バノヴェは、ソランド帝国の兵士たちがもたらす異様な熱気に包まれていた。あちこちで略奪者と化した兵士たちの歓声が上がる。時折、逃げ遅れたバノヴェの住民らしき女子供の悲鳴が混ざる。
 その西の外れ、城壁近くのとある粗末な家屋の中で、イーグルは己の失態を呪っていた。出来ることなら耳をふさいで何も聞こえないようにしてしまいたかったが、それは叶わない。彼の武器は取り上げられ、後ろ手にきつく縛られた両腕は柱にくくり付けられている。したたかに殴られた左目の辺りがじくじくと痛んだ。元は白銀の長い髪の先が、滴っていく血を吸って赤黒くなっているのが見える。

(――なんて様だ)
 
 イーグルは血がにじむほど強く唇をかみ締めた。自分があんな所でヘマをやらかさなければ、今頃はバノヴェを守るフェルロン軍がソランド軍を圧倒していたかもしれない。少なくとも、こうも簡単に王都が落ちることはなかった筈だ。
 フェルロンの由緒ある軍人の家系の三男に生まれたイーグルが間諜の一人としてソランド軍に送り込まれたのは、ソランド帝国がフェルロン王国の領土に狙いを定めた頃のことである。間諜になるための訓練を終えたばかりで、彼はまだ十九歳だった。それから二年あまり、彼は慎重にそして忠実に仕事をこなしてきた。何人かの仲間の間諜が捕まって処刑される場面にも居合わせてきた。とうとう、その順番が回ってきたらしい。
 あの時、焦っていたのは確かだった。ソランド軍は一両日中にも首都バノヴェが見える所にまで進軍していたのだ。ソランドの指揮官はいつ、どうやってバノヴェを攻撃するつもりなのか。何か、紙のほんの切れ端でもいい。情報が欲しい。夜を待って指揮官の天幕に忍び込んだが、結局捕まってしまった。
 どれくらいの時間気を失っていたのか、正確には分からない。彼に分かるのは、祖国フェルロンが滅亡したということと、このバノヴェの片隅で自分が処刑されるのを待たねばならないということだけだった。
 悔しい。
 結局、何一つ守ることが出来なかった。

(家族は無事でいるだろうか。城にいた筈の、王妃や王女は――?)

 その時、イーグルはふと顔を上げた。背後にある扉が微かにきしんで開き、誰かが入ってくる気配がする。

「あなたは明日の朝に処刑されるようですよ」

 そんなささやきが聞こえた。若々しい、どこか笑いを含んだような声だ。
 処刑のことなど、どうでもよかった。出来ることはもう何もない。生き延びたとして、帰る場所などないのだから。目の前で祖国を踏み荒らされる痛みに比べたら、自分の首が切り落とされることなどたいした痛みではない。覚悟ならとうの昔に出来ている。それよりも、怒りと悔しさで頭がどうにかなってしまいそうだった。
 だが、ひょいと自分を覗き込んできたその若者の顔を見て、イーグルはあっけに取られてしまった。

「レイド……」
「おやまぁ、せっかくのきれいな顔が台無しだ」

 レイドはからかうように言い、くすりと笑う。同時に引き抜いたナイフでイーグルを拘束していた縄を解く。イーグルは感覚のない手首をさすりながら、自分よりも年下の、そばかすの浮いた顔を見やる。

「お前、なぜここに……」
「なぜって、助けに来たに決まっているじゃないですか」

 レイドはソランド軍で知り合った若者だった。同じ部隊に配属され、野営の際には同じ鍋を囲んだ。おしゃべり好きで陽気な若者だったが、兵士としての腕も確かだ。なぜかイーグルに懐いて、にこにこ笑いながらよく話しかけられたものだが、だからと言って特別親しくしたつもりはない。そのレイドがどうして今自分の目の前にいるのか、彼は理解に苦しんだ。
 イーグルは外に聞こえないよう、声を低める。

「俺は間諜なんだぞ」
「えぇ、知っていますよ」

 レイドも一層声を落とし、顔を近づけてくる。その子供じみた顔は一見無邪気そうに笑っている。

「僕は傭兵ですからね、ソランドとかフェルロンとか、全然関係ないんです」
「俺を助けたらお前まで死刑になるんだぞ」
「嫌だなぁ、捕まるつもりできたんじゃありませんよ。ほら、みんながバノヴェのお宝に夢中になっている間に、僕たちはとっとと逃げ出しましょう」

 レイドは明るい調子で言って、彼の腕を取り、立ち上がらせようとする。

「待て、俺は……」
「歩けませんか?」
「そうじゃなくて……」

 言いよどむイーグルを、レイドはじっと見つめた。

「フェルロンの王女は行方が分からないそうですよ」

 一瞬、イーグルの呼吸が止まった。

「本当か」

 行方が分からない。イーグルの脳裏に、数年前の式典で遠目に見た王女の姿がよみがえった。赤銅色の豊かな髪と、生き生きと輝く気丈そうな金色の瞳。王国のたった一人の姫君。あの方が生きておられる。その可能性が、まだある。
 顔色の変わった彼の様子に、レイドは満足気だった。

「ね、まだ死ぬのは惜しいでしょう?」

 レイドが言い終わらないうちに、イーグルはふらりと立ち上がっていた。乱暴な手つきで目元を伝う血を拭う。

「逃げるぞ」

 こんなところで、おとなしく殺されている場合ではない。
 満面の笑顔で差し出された剣を、彼はしっかりと握り締めた。
 やがて二人の逃亡者は、雪のしんしんと降る夜のバノヴェに踊り出た。小屋を見張っていた兵士たちは昏倒し、そこかしこに倒れ込んでいる。王都の片隅で起きた事態に気付いた者はまだいない。闇に溶けた都では、未だに点々と赤い炎が燃え上がっていた。



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