「帝国との対決を」 ナディルの声は低められてはいるが、唇の動きを見ていると言葉の一つ一つをはっきりと理解することができた。その喋り方が、隠密の者たちが用いる術であることくらいは彼女も知っている。 「わたしが出ていったところで、なぶり殺しにされるだけだ。違うか」 「あんたなら義勇軍の先頭に立ち、奮い立たせることができるはずだ。その気があるなら協力は惜しまない」 「わたしに戦をしろと言うのか」 ナディルは無言のまま頷く。 戦のことは皆目分からない。だがフェルロンの精神的な支柱になれるのであれば、王国を統べる者としての矜持を捨てずに生きる、最良の道なのではあるまいか。 ふと、目の前の霧が晴れたような気がして、彼女は口許を引き締めた。 「いいだろう」 生きた証を見せるにはそれしかない。いつの日か、いにしえの聖王たちの前に出た時に、堂々と顔を上げていられるように。 「協力は惜しまないとの言葉、二言はないな?」 「ない」 簡潔な返答にシーナは満足した。 「互いに、過去の因縁については目をつぶろう。俺はただの通りすがりの旅人だ」 「……分かった」 彼女は複雑な心境のまま頷く。すぐに割り切れる問題ではないが、優先事項のためには何かを切り捨てる必要もある。そう己に言い聞かせるしかなかった。 ナディルは腕を伸ばして枕に突き立ったナイフを引き抜こうとする。手間取っている様子なので手を添えてやると、ナイフは軽い抵抗と共にあっさりと抜けた。 そこで改めて彼の体力の衰えぶりが心配になる。 「大丈夫か? その様子では当分動けないだろう」 傷を癒す時間はあるだろうか。 「常人より頑丈な身体だ。明日には移動する」 「まさか」 シーナは目を剥いて彼を見た。 「じきに追っ手もかかる。出来るだけ距離を稼ぎたい」 確かに、いつまでもこんな国境に近いところにいては危険な気がした。フェルロンから出たくらいで、帝国が王女の命を諦めるとも思えない。 「それはそうだが、自滅するのは御免だ」 ナディルの身にもしものことがあれば、彼女も生きる術を失う。 無理に動けばそれだけ傷の治りは遅くなるし、化膿すれば命が危ない。 「分かっている。マーラには知り合いの医者がいるから、とにかくそこまで行く。後のことを考えるのはそれからだ」 何を言っても譲りそうにないナディルの言葉に、シーナは渋々頷いた。 ベッドに上がろうとするナディルに手を貸し、それでもかなりの時間を掛けてようやく身体を横たえた彼を、シーナはじっと見下ろす。 「あんたも寝ろ。そこにいられると落ち着かない」 相変わらず抑揚のない声だったが、酷く疲れている様子なのは間違いなかった。 その血色の悪い顔を見ていると、堪え難い不安に駆られていく。 「わたしに生きろと言うからには、お前にも相応の覚悟があるのだろうな?」 返答はない。彼はもう、口を利くことすら困難なのかもしれない。 ベッドの脇に膝をつき、そっとナディルの頬に触れる。じっとりと熱く、嫌な汗をかいているのがよく分かった。 闇に溶け入るような彼の漆黒の双眸が、暖炉の弱い光を映して微かに揺らめく。 シーナは泣き叫びたくなるような衝動を必死に胸の奥底へ押しやろうとした。 命とはなんて頼りないものなのだろう。こうして触れていても、ぽつりと点(とも)る火影のように不意に消える。 目の前にあるこの青年の命も今に音もなく掻き消えてしまいそうで、恐ろしくて堪らない。 「約束しろ。二度とわたしの前に命を投げ出すような真似はしないと」 ここ数日の間に出会った死の数はあまりにも多かった。しかし、何度目の当たりにしても慣れることはない。いっそ何も感じなくなればどれほど楽かとも思う。 「あんたを独りにはしない。約束する」 しばらくシーナの目を見つめ返していたナディルは掠れた声でそう言って、急に優しげな顔つきになった。あぁ目元だけで笑ったのかとシーナが気づいたときには既に、彼は目を閉じて深い眠りの中に落ちた後のようだった。 額に張り付いた髪を、眠りを妨げぬよう慎重に退けてやる。こんなにも傷付き襤(ぼろ)のように汚れた男の顔が、華やかに着飾ったどんな王侯よりも美しく、尊く見えるのが不思議でならなかった。 “……俺だって嫌なんだ。” シーナの盾となって鏃を受け倒れたときに、ナディルが呟いた言葉が脳裏に蘇る。 もしかしたらナディルも誰かに庇われて、その者の命と引き換えに生かされているのかもしれないと、ふと思った。
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