月のない晩だった。夜の空気は鋭利な刃物のように、きんと冷えている。 夜が更けるまで、シーナは毛布に包まってじっと暖炉の前に座っていた。暖炉の中では炭が真っ赤になって燃えている。二人を助けてくれた親子は、重傷を負っているナディルのために貴重な炭を提供してくれたのだ。 背後にあるベッドの中で、ナディルは眠っている。熱にうなされているのだろう。苦しげな息遣いが伝わってくる。 シーナは懐に忍ばせてきたナイフを、手の中で弄んでいた。 負傷してろくに動けもしない男を殺すなど、簡単なことだ。そう、このナイフを、心の臓目掛けて振り下ろせばいい。たった一振りでいいのだ。 やがて、彼女はのろのろと立ち上がった。ベッドまでの二、三歩の距離をゆっくりと歩く。キシキシと床が鳴った。 王家には、人知れず伝えられてきた古い伝承がある。その中で一際不穏な響きを持つ一節には、異端の一族の存在が謳われていた。 『――印ヲ刻ミシ悪魔ノ一族、コレ皆王家ニ仇ナス者共ナリ。世界ヲ滅ボス者共ナリ――』 太古の昔、聖人の子孫たちは力を合わせて、この呪われた一族を滅ぼしたという。古の偉大なる王たちが遺した伝承は、後世への訓話であり、警告である。 ナディルの肩に刻まれていた、朱いペガサスの紋章。矢傷の手当てを手伝う際に、彼女はそれをはっきりと見てしまった。彼の左肩には酷い火傷の痕があったが、その上に浮かび上がるように、それは克明に顕れていた。 悪魔の一族には、まだ生き残りがいたのだ。 見てしまった以上は、生かしてはおけない。シーナが王家の娘である限りは。 この手で闇に葬らねばならない。 一つ息をつき、シーナはナイフを振り上げた。が、振り下ろそうとしていた腕がぴたりと停止する。 「――敵は全員殺したか」 暖炉の明かりが微かに届く中で、ナディルが目を開けて彼女を見上げていた。 「……“力”を加減する余裕などなかった」 起きていたのか。そのことに驚きながら、必死に平静を装う。そうか、と呟いて、ナディルは喉の奥からかすれた笑い声をもらした。 「何が可笑しい」 「昨日俺を守るために十数の兵士を殺したばかりなのに、今度は俺を殺すのか」 「黙れ」 あの時は夢中だった。もう誰も犠牲にしたくない。ただそれだけの想いだった。 結果、多くの命に手を掛けてしまったことは、今は思い出したくない。いや、実際に断片的な記憶しか残っていない。 だが、今回は違う。 「これはわたしの役目。お前は人ではないのだから」 ナディルの唇が笑みの形に歪むのを、シーナは恐ろしいものを見るように注視する。 「俺の血は、ちゃんと赤かっただろう?」 「その傷なら普通はとうに出血死している」 矢で射られた傷口は、二カ所とも相当深かった。しかし、しばらくすると自然に血が止まったのだ。そうでなければ、ナディルは助かっていない。“力”を使い過ぎて意識が朦朧としていたので定かではないが、あの親子が二人を発見するまでに、だいぶ時間が経っていた筈だ。 「逃げないのか」 「動けるならそうするが」 ナイフを振り下ろすだけ。この男は王家の敵だ。悪魔なのだ。ためらう必要などない。 しかし。今自分が無事に生きているのは他でもない、ナディルのお陰だ。盾になってくれた人を、殺すのか? 迷うことすら罪悪であると、分かっている。やらねば、王家の矜持を捨てることになる。 ――聖ナル子ラヨ、戦フベシ。 それでも。 「一つ聞く。わたしを助けて、一体何を企もうとしていた? お前たちにとって、わたしは何なのだ? 命を懸けて守るほど利用価値のある存在か?」 口を開くと止まらなかった。どうして。なぜ。答えが欲しい。 「質問が一つじゃないな」 「うるさいっ……」 力任せに、ナイフを振り下ろした。 シーナはそのまま、ずるずると床に座り込む。 「頼む、教えてくれ……」 このままでは気が狂いそうだ。
やがて気配がしたので顔を上げると、彼はベッドから出てすぐ隣に腰を下ろしていた。 シーナは呆気に取られて息をつく。 「動けるのか」 さっきは動けないと言っていたくせに。 彼の顔面すれすれの位置に突き立てたナイフをちらりと見やる。彼を狙ったわけでも、ましてわざと外そうとしたわけでもない。ただ、衝動に駆られて振り下ろしただけ。鈍い音をたてて刃が枕に突き立った瞬間にも、彼は微動だにしなかった。 分かってはいたが、やはり肝の据わり方が尋常ではない。 「こっちへ。……女が一人で泣くもんじゃない」 ナディルが彼女へ右手を差し出す。以前のように強引に引き寄せたりはしてこない。消毒液と血の臭いが、微かに漂ってくる。 シーナは眉をひそめて彼を見返した。 「泣いてなどいない」 どうしたというのだろう。静かな声が、微笑して細められた瞳が優しげだった。こんなふうに笑いかけてくることも、気遣ってくれることも、今まで一度もなかったというのに。 でも、だからこそ。 「それは涙じゃないのか?」 気が緩んだのかもしれない。シーナはこぼれ出た涙を拭いながら、首を横に振る。 「違う……」 こんな風に泣くのは、まるで泣かされているようで不本意だった。 「強情だな」 「うるさい」 シーナは彼に背を向けて膝を抱える。今は顔を見られたくない。 「殺すための口実が欲しいのか、殺さないための言い訳が欲しいのか。……どちらだ?」 抑揚のない問い掛けが追い掛けてくる。しかし、欲しいのはそんなものではない。 「どちらでも構わない」 結論など何でもいい。彼女が必要とするのは“納得すること”だった。 ふっと、背後で溜め息をつく気配がした。 「――あんた、死ぬ気だろう」 身体の震えを彼女は己の両腕で無理矢理押さえ込む。その口元に刻まれたのは、自嘲の笑みだった。
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