日が暮れるまで、二人はさらに東に向かって歩き続けた。イーグルがどこへ行こうとしているのか、レイドには分からない。土地勘のない彼はイーグルについて行くしかなかった。もちろん、好きでくっついて歩いているのだから、何の不満があるわけでもない。 ただ、一言も言葉を話さない彼のことが心配だった。 河原で煮炊きをしながら、レイドは彼の表情を窺い見る。ちょっとでも目を離せば自害でもしそうな顔だ。 「喋らなくてもいいから、ご飯はちゃんと食べてくださいよ。ほら、お魚好きでしょう?」 串に刺して焼いた魚を差し出すと、イーグルは素直にそれを受け取る。しかし彼は串を持ったまま、ぼんやりと虚空を見つめている。 バノヴェを出てからは帝国軍の目を避けるために町や街道は使わず、ひたすら獣道を歩いて野宿をしてきた。少なくともイーグルの手配書は出回っているに違いなく、さらにフェルロン側からも敵意を抱かれているとなれば、いつ誰に襲われてもおかしくない状況だ。そして何より悪いのは、今のイーグルがたとえ襲われても抵抗すらしなさそうなことである。 レイドにしてみれば、生きる意欲のない者のために戦って死ぬなんて、まっぴら御免だった。 「いつまでもしょぼくれていたって仕方ありませんよ。一体何がそんなに悲しいんですか?」 イーグルの気持ちは、レイドにはよく分からなかった。確かに、覚えのない罪を着せられるのは悔しいだろう。だが、祖国を失うということが実際にどういう気分になるものなのか、それは想像してみることしか出来ない。 イーグルの肩がぴくりと震えた。レイドは大袈裟に溜め息をついてみせる。 「分かりませんねぇ。僕にはさっぱり分かりませんねぇ。だいたい、国なんてどうだっていいじゃありませんか。人間、せいぜい自分の手でつかめる程度のことを気にかけるくらいでいいんですよ。国への忠誠なんて、全部洗脳です。上手いこと騙されてるだけです。どこの国の王家だって、私腹を肥やすことしか考えてないんですから。聖人の子孫だか生まれ代わりだか知りませんけど、所詮はただの人ですからねぇ。たくさんの人間を玩具のように動かして悦に入ってるろくでもない連中ですよ。そんな奴らのために命を懸けるなんて、実に馬鹿馬鹿し――っ」 ガツ、と鈍い音がして、視界が揺れた。あぁ殴られたんだ、などと他人事のように冷静に、レイドは思う。倒れたところに馬乗りになってきたイーグルに、上から二度三度と殴られる。 「いたた……イーグル、落ち着いて……っ」 「貴様に何が分かる……!!」 「だから、分からないってっ……言っ」 「俺はフェルロンの騎士だ! 王家を侮辱する者は許さん――っ」 「ぐっ……」 両手で首を絞められて、レイドは初めて恐怖を感じた。全身から冷や汗が吹き出る。 これはまずい。ちょっと怒らせればそのまま立ち直るだろうと思ったのだが、どうやら怒らせ過ぎたようだ。 手をどけようと必死にもがく。かすんでいく視界の中で、自分を見下ろすイーグルが泣いているのを見た。 (泣きたいのは僕の方だ!) 声にならないまま、精一杯毒づいた、その時。 「坊ちゃん!!」 横から飛び出してきた影が、イーグルをなぎ倒した。急に呼吸が自由になり、レイドはそのまま激しく咳き込む。 「坊ちゃん、大丈夫ですか! 坊ちゃん!?」 なんとか起き上がって見ると、イーグルをねじ伏せているのは牛のように大きな体躯の男である。ほっとして涙が出そうになるほど、見慣れた顔だ。 「……タムド、坊ちゃん呼ばわりはやめてください」 「あ……すみません、坊ちゃ、いえレイド様」 もう何度目だろう。この腕っ節が強くて馬鹿正直で忠誠心に篤い老齢の男は、いくら訂正してもレイドのことを坊ちゃんと呼ぶ。赤ん坊の頃から面倒を見てもらっていたから、もはや仕方がないのかもしれないが。 「ありがとう、お陰で助かりました。そろそろ離してやって下さい」 タムドはすぐに身体を退かし、レイドの隣にちんまりと控える。しかし、巨体に押し潰されていたイーグルは突っ伏したまま動こうとしない。 「何をめそめそと泣いているんですか」 努めて静かに、問いかける。 「俺を殺してくれ……」 嗚咽にかすれた、弱い声。 「何もしていないのでしょう? 売国奴などと罵倒されるようなことは」 「当たり前だ。父上たちだって……そんなこと、死んでもするものか」 「だったら、無実を証明すればいいだけの話ですよ」 「それが不可能だから、家族は逃げた」 それは確かに、その通りだった。 “帰って、父と兄にも伝えろ。” 将軍のあの言葉は、イーグルの家族が生存していることを裏付けている。同時に、彼らが既に追放されていることも。 王国は既にない。正当な裁判に臨むことは不可能だ。イーグルが再びフェルロンの騎士として戦うためには、信用を取り戻さなければならない。名誉と誠実さに重きを置く騎士の世界では、一度失った信用を取り戻すのは限りなく難しい、と聞く。メノー将軍の様子から察するに、正面から談判しても袋叩きにされるのがオチだろう。 だが、まだ策はある。 「俺はこの王国に、王陛下に永遠の忠誠を誓った身だ。こんな汚名を着せられて追放されたら、生きていく意味などあるものか。今の俺は虫けらよりも価値のない、ただのくずだ」 地面に顔を付けたまま肩を震わせる様が痛々しくて、レイドは彼の銀色の髪を撫でた。この髪はちゃんと手入れさえすれば、さぞ美しく輝くだろうな、などと考えながら。 「あなたを騎士に任じたのは、王なのでしょう? 何をそんなに絶望しているのか、僕には分かりませんね」 「……分かるものか」 「あなたの伯父様、メノー将軍には、あなたを追放する権限が与えられているのですか? 彼はあなたの上司ではあっても主ではない。王亡き今、あなたが仕えるべき主とはどなたなのですか?」 沈黙があった。 やがて、イーグルがゆっくりと顔を上げる。泥と涙まみれで、ひどい顔だ。 「姫君……?」 レイドは笑って頷いた。 今も尚、行方不明の王女。もし万が一、まだ生きているとしたら。心細い思いをしている彼女を見つけ出し、お守りしたとしたら。王女はイーグルの強力な後ろ盾になってくれるに違いなく、彼への疑いは吹き飛ぶはずだ。フェルロン人は誰一人として、王女には逆らえないから。 「あなたの運命を決められるのは王女だけ。王女が死ねとおっしゃるなら躊躇せずに死ねばいい。それにはまず、王女を見つけ出さねばなりませんけどね」 「確かに、そうだ……」 イーグルはむくりと身体を起こして座り直す。その眼には、精悍な光が蘇っていた。
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