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作品名:暁香の王 作者:さち子

第1回   序章


 低く垂れ込めた雲から、水気を含んだ大粒の雪が重たそうに降りしきっていた。
 動かなくなった男の隣にそっと身体を横たえて、シーナは白い息を吐き出した。全てが終わろうとしている。この山が二人の墓場になるのだ。この雪はきっと、この身体を追っ手から隠してくれるだろう。本当はもう少し奥まで進みたかったが、もう立ち上がる体力など残っていない。それに、最後まで自分を守ってくれたこの男から離れる気持ちにはなれなかった。彼女は固く目を閉じた男の顔をじっと見つめる。

(お前たちが守ってくれないと、私はこうして死ぬしかないんだよ。そんなことも知らなかったなんて、私はなんて傲慢だったのだろうね)

 彼女は凍りついたまぶたを苦労して閉じた。寒さは不思議と感じない。ただ、少しでも身体を動かすと、皮膚が裂けるように痛む。
 温かなぬくもりに包まれて生きているということが、周囲にどれほどの犠牲を強いていたのか。彼女を救うために何人の命が費やされたのか。何も知らなかった。大切に守られているということすら自覚していなかった。誰一人、彼女の前では苦しそうな顔を見せなかったから。
 この痛みは、この惨めさはその罰だ。
 雪よ、と彼女は祈った。

(これ以上燃え広がらないうちに、あの戦火を消しておくれ)
 
 祈ることしか出来ない。彼女は非力だった。戦場になった都が、彼女にその現実を突きつけていた。こんなふうに寒い夜は、家をなくした民は凍え死ぬしかない。生身の人間はこんなにも弱いのだ。

「ここで死ぬのか」

 不意に、頭上からそんな声が聞こえた。天からの声だろうか、とシーナはぼんやりと思う。随分と静かな声だ。

「――死にたいのか」

 その問いになんと答えたのか、彼女は覚えていない。もうろうとした意識の中で、彼女は自分の身体が持ち上げられるのを感じた。




 
 八二七年、冬。西大陸の中央に位置するフェルロン王国が滅んだ。国土の七割以上を険しい山地が占めるフェルロンは、その地形の複雑さゆえに多くの侵略を防いできた息の長い大国である。フェルロン王家は、天から遣わされた聖人ベルグリッドの直系の子孫であると云われる。ベルグリッドは既に神話の世界の聖人ではあるが、国の始めから一度も他国の侵略を許さず、首都を移したこともないフェルロン王家の血統を疑う者は誰もいない。また、フェルロンは鉄を始めとする鉱物の豊かな国としても知られている。
 その、歴史ある老国が倒れた。相手はここ十数年で急激に力をつけた、ソランド帝国である。元々南方の小さな島国家だったソランド国を、ユマ・ソランドは先王の跡を継ぐなり次々と他国へ戦争を仕掛け、あっという間に領土を拡大して大帝国に仕立て上げた。各地の反乱の鎮圧に法整備にと精力的に働く皇帝ユマは、未だ四十歳にもならぬ壮年の男である。北上する国境は数々の国を呑みこみ、とうとうフェルロン王国の南端にまで迫った。
 国境付近での小競り合いが長く続いた。当初のうちはフェルロン人の誰も、わずか十数年で帝国にのし上がった新参者の国になど、自国が負ける筈がないと思っていた。実際、気候も地形も全てがフェルロンの優位に働いていた。
 事態が変わったのは、ほんの二ヶ月前のことである。戦いのさなか、出陣していたフェルロン王が矢傷を負って死んだ。国の大黒柱を失ったフェルロン側は大いにうろたえ、混乱した。その隙をついてソランド軍は一気に北上し、立ち直る隙を与えずに王都まで攻め込んでいった。
 王に代わり政務を担っていた王妃は城内で殺害され、御年十六歳になる一人娘の王女は戦闘の混乱の中で行方不明になっている――。




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