恋愛は相対評価だ、と言い切る女友達がいる。 結局自慢できるかどうか、恋をした相手で優越感を感じてどこが悪いのだ、と。 収入、学歴、ステイタス。身長、ルックス、性格。 どれが一番大事な要素かなんて言い切れる? どれもあったほうがいいに決まってるじゃない。 経済力は包容力に直結するものでしょう? と。
この前会った高校時代からの女友達、真美は、凪がはじめて恋をした相手を知っている。 予備校で勉強もしないで、と笑われた。 初めてのキスも、東京でした学生時代の恋も、この前に偶然始まった新しい恋も。 みんな彼女に打ち明けてきた。 こうやっていくつもの秘密を共有してきた。 お互いにアドバイスをし、彼女を振った男のことを2人で散々罵ったこともある。 そんな彼女と久しぶりにあったのが、ついこの前。 贅沢な悩みよ、と。真美はそう言った。 そうかも知れない。 凪は本棚の横を通り過ぎながら、ぼんやりそんなことを考える。 でも、と思う。 でも、一緒にいて安心できて、気を遣わなくて良くて、居心地がいいのが一番じゃない? 素直にそう言った凪に、彼女は笑って言った。 確かに一緒にいて安心できる、って言うのは大事な要素だけど、そんなの2人で作り上げるものでしょう? それが恋愛の一番楽しいところじゃない、と。 それを面倒だとか、しないうちに合わない、って言うのはあんたのわがままよ。
その通りだ。返す言葉もない。 「まぁ、もう少し付き合ってみて、どうしても凪が何か違うな、と思ったら別れればいいんじゃないの? 経済観念の不一致なんて、結婚したら結構重要なトコだろうし。 でも、あんたの悩みはやっぱりわがままだよ。彼がお金持ちすぎる、って結局そういうことでしょ? そんなの性格の不一致にも入らない。彼に同情するわ」 そう言って彼女は颯爽と、夜に街に去っていってしまった。 また連絡してね、と。
もう少し付き合ってみれば? そんな不誠実な気持ちで翔くんと合うのは、ひどく自分らしくない気もしたし、昔からこんなふうに偽善者的な部分があったような気もする。 翔くんの誘いを断る理由もなかった。 デートはいつも文句なしに楽しかったし、彼を魅力的だと思う。 話が上手で、仕事と遊びのバランスが綺麗に取れている。 情緒が安定している。凪は、彼からこれまで仕事の愚痴などを聞いたことがない。 いつも悩みを聴いてもらうのは凪のほうだった。 的確なアドバイス。ウィットに富んだ会話。 翔くんと付き合って5ヶ月になる。 夏休みは2人で軽井沢に行った。 買い物をし、料理を2人で作り、夜はセックスをした。 どれも楽しかったのに、振り返ると凪はうっすらとしかその記憶がないのに愕然とする。 2人で本の話をし、ショッピングを楽しみ、貸しきったコテージのキッチンで2人で料理をしたのに、そのことはぼんやりと靄がかかったような記憶しかない。 その日、初めて彼と寝て、思ったより優しい抱き方をする人だ、と思ったことは覚えているのに、そのときの感情は全く思い出せない。 まるで他人の人生を生きているような気分になる。 こうなることを自分でどこか予想しているのに、実際にその場面になると、おや、と思ってしまう。 自分が女優になったように、彼の目に映る女を演じているような、どこか第三者的な目で自分のことを見ているのだ。 あたしは上手く演じられている? 凪は誰かにそう尋ねたくなってしまう。
性格の不一致。 結局そうなのだろうか。 新書をぱらぱらめくり、凪の逡巡は止まらない。 ここは、凪が翔くんと再会した、あの予備校近くの本屋だ。 ここで待ってて、と彼から電話がかかって来たのだ。相変わらず忙しそうな、でもどこか嬉しそうな声で。 合わないところは確かにあった。 決定的なのがその経済観念だ。 それに伴う人生観、でもいい。 確かに大学職員と証券マンなら、稼いでいる額が違うのも当然だ。 でも、彼との経済観念のズレはもっと大きなもののような気がしている。 Yシャツをそのままクリーニングに出すこと。株に投資する金額。 資本主義社会でお金を儲けるということ。その残酷さや苛酷さ。 初めて彼のマンションに言って、あまりにただっぴろい部屋に一人で住んでいて驚いた。 こんなに広い部屋が必要なのか聞いたら、あっさりお金の使い方がわからない、と言われた。 凪にはその金額の予想がつかない。 小さな違和感が澱のように積もる。 彼と2人でTVで放映されていた、南アフリカのドキュメンタリーを偶然見たときだった。 ダイヤで大もうけする資本主義国家がいる一方で、たくさんの罪もないアフリカ人が犠牲になる。子供のような少年が銃を持つ、そんな内容だった。 凪はこういう話に弱く、いつもまともに影響されてしまうので、2人で見ているときも表情を保つのに必死だった。 翔くんは表情一つ変えずに、「日本に生まれてよかった」とつぶやいた。 その一言に、何だか凪は今まで抱えていた違和感が一瞬分かった気がした。 自分の感情が冷ややかになっていくのを感じる。
多分、許容量の問題なのだと思う。 翔くんのお金の使い方だって決して間違ってはいないじゃないか、と。 あるものは使えばいい、それに見合った仕事を彼が毎日真剣にしていることくらい分かっている。 確かに信じられない額のスーツを買うのも、日常生活で経済的な感覚の差が、澱のようにたまるのもいいことではないかもしれないが、 それは結局自分の問題なのかと思う。 所詮凪のお金ではない。好きに使わせておけばいいし、口を出す権利はないはずだ。 人生観の違い、と言えばそれまでなのだから、結局自分で解決することだ。
でも、と思う。 本当に不思議な人だ。翔くんと言う人も。 忙しい忙しいといいながら、実際に忙しいはずなのに、ほぼ毎日何かしら凪に連絡をしっかり取る。 細切れの時間を利用して凪をデートに誘い出す。 凪は自分がそこまでされる価値のある人間には、到底思えなかった。 どこにでもいる、普通の女だと思う。シンデレラストーリーを期待するほど子供でもない。 彼に言い寄る女ならたくさんいそうなのに、どうして自分なのだろうと思う。 実際に凪と出会う前に、彼には不特定の女の人がいた影がある。 どんなに隠しても、そういう類のことは女の直感で分かってしまうものだ。 部屋のかんじや、さり気ない言葉の端々に、おそらく複数の女性がいたはずだが、凪と付き合ってからはそれらしい兆候はなかった。 昔のことにとやかく言うつもりはないし、この年代の男の人が一人でいる可能性のほうが少ない。 浮気の一つも上手に隠せば見逃してやろう、と思っていたがどうやら本当に縁を切っているらしかった。 逆に一つくらい浮気をされたほうが、気分的にも楽な気がする。
どうして自分なのだろう、と言う単純な疑問。 凪はいつまでたっても2人でいる、という事実に慣れない。 彼の前では、いつも本当の自分ではいられない気がしていた。 緊張している、というのとも違う。 ゆっくりとじりじりと縮められていく距離を、必死に保とうとしているかんじ。 自分のスペースに入れられない。 上手にはぐらかして、距離を保ちつつ、彼を傷つけないように気を遣う。
後ろを向いていたが、入り口から彼が入ってくるのが分かった。 きっと真っ直ぐにこちらに来るはずだ。 笑って肩に手を回して、首筋の近くで小声で囁くように言う。 凪は深呼吸をする。 彼のことが好きだ。感情なんて絶対じゃなくていい。 いつまでも転地がひっくり返るような恋愛ばかりしてられない。
小さく息を吸って、凪は笑顔を作る。 振り返って、一日働いてきた男の人の匂いを吸い込むように、スーツに顔を近づける。
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