「はい、○○大学理学部図書館ですが」 六月も半ば、梅雨入りしそうな火曜日のお昼過ぎ。 凪は図書館で働いているので、そんなに月末の仕事はなくいつも同じテンポで働いてりるが、この時間帯は特にのんびりしている。 人の少ない、日がふんだんに取り込まれている図書館は、真昼の動物園みたいだ。 「あの、そちらに上原凪さんがいると伺ったのですが」 ビジネスライクなよく通る男の人の声だ。凪は誰だかわからなかった。 「はい、私ですが」 「ああ、本人か。ホントにいるんだ」 電話越しの空気がふっと和む気がした。凪は相手が誰なのか未だに分からない。 以前、図書館に来ていた独りよがりな大学生に言い寄られたことがあり、凪は一瞬背中が寒くなる。 「あの、失礼ですがどちら様でしょうか」 さり気なく聞いたつもりだが、どこかつっけんどんな声が出てしまった。 「あ、俺、桜井です。桜井翔陽」 「ああ! ごめん」 凪は慌てて謝った。偶然再会してから一ヶ月以上経っている。もうすっかり忘れてしまっていた。 「ひでぇなぁ。結構苦労して探したのに」 「ごめん、忙しくて」 凪は笑いながら謝った。翔くんも怒っている雰囲気は全然ない。 「そんなに俺と飯食うの、嫌かなぁ、とか」 わざと言っているのが分かるので、仕事中にも関わらず凪も思わず笑ってしまう。 「いろいろ忙しくて」 凪はそう言い訳をしたが、本当は嘘だった。無意識のうちに自衛本能が働いたのだと思う。危険なことを感知するにも昔から長けていたほうだった。 「今週、金曜日空いてる? 飯食いに行かない?」 軽い感じではあったが、何となく真剣なかんじで、凪は自意識過剰になってうぬぼれている自分が恥ずかしくなる。 「うん。大丈夫」 「後で連絡するから。携帯教えてよ」 電話の向こうで紙がばさばさ動く音がした。 凪は声をひそめながら、自分の電話番号を読み上げる。
指定されたのは、市内でも有名なフレンチレストランだった。 同僚がクリスマスに彼と行ったことがあると言っていた店で、凪も名前だけは知っていたがこんな高級店に来ることなんてめったにない。 一応ワンピースにジャケットを羽織ってたが、似合っている気がまったくしない。自分は常々、フォーマルなスタイルが似合わないのだと思う。 遅れるから中で待ってて、と言われ、通された席で待っていたが、周りのお客も皆スノップな雰囲気で落ち着かない。 どこかドラマめいていて大げさな会話や、香水の匂いや食器があたる音に凪は緊張していた。 こんな店でかつての知り合いと食事をするようになった彼を、確かに立派になり、順調に社会的地位や経済力をつけて、すごいことだと思うが、何となく凪は哀しくなる。 予備校生の頃、ボーイフレンドだった龍樹も含め、近くのコンビニでジャンクフードを一緒に食べた思い出があるからなのかも知れない。 ジャンクフードと参考書。広げた大学ノートや蛍光チェックペン。 懐古主義になるつもりはないが、凪は自分でもどこか成長しきれていなくて、時間が予備校時代のまま止まってしまったような感覚に陥ることがあった。 高級レストランで食事なんて、あの頃には予想をしなかったようなことだ。
そんなことをぼんやり考えていたら、翔くんが入り口から入ってくるのが見える。 店員に通され、自然にかばんを預け、ネクタイを緩める。 慣れた様子で、多分この店にもよく来るのだろう。急いで来たわりに汗を全くかいていなかったので、おそらくタクシーで来たのだろう。多分1メータの距離を。 確かに知っている人なのに、すごく遠くの人のように感じる。 「ごめん、遅くなって」 引かれた椅子に座り、すぐにメニューを広げた。 「あー、腹減ったぁ。昼飯抜きだったんだ、忙しくて」 額に落ちた前髪がテーブルのキャンドルに当たって綺麗だ。ワイシャツから見えた手首も。いるだけで何となく育ちのよさを感じさせる人と言うのは確かにいる。 彼の場合発言や行動がどんなに粗末でも、それが逆に魅力的に見えるのだろう。 「大丈夫だったの? 今日じゃなくてもよかったのに」 「そんなこと言うなよ。俺は会いたかったよ」 気を遣って言った凪に、迷いもなく翔くん言った答えにどこか本気な雰囲気が感じられて凪は黙ってしまう。微妙に緊張した空気が流れた。前髪から覗き込んだように真っ直ぐに見つめられて、戸惑ってしまう。 凪は何か言おうとしたが、その言葉が思い浮かばない。 「さて、と。何食べる? 嫌いなもんとかある?」 その話題はここまで、と言われた気がして、凪はあいまいに微笑むだけだった。
食事は結局ほとんど翔くんに任せきりだった。 ワインや料理選びも、食事が運ばれてくる間の会話も楽しかった。 お互いの近況報告。仙台の街について。住んでいるところ。 経済問題に、政治家のスキャンダル。大学時代のサークルの話。 博識でところどころに挟んだ皮肉めいたコメントや、大学時代のアメリカ留学の話。 食事が運ばれて来ても、彼は非常に話し上手で、同時に聞き上手だった。 誘導尋問みたいに自然に話してしまう。凪が大学で入った手話サークルの話や、就職活動に話。 ところどころにはさまれたお世辞言葉に戸惑いながら、凪は気持ちよく酔っ払い、警戒心が溶けていく。 龍樹の話題は一度も出なかった。話そうと思えば話せたし、基本的に2人は龍樹を通して繋がっていたのだ。龍樹の話題が全くでないのは多少不自然だった。
食事もあらかた済み、食後のコーヒーを飲んでいたときだった。 「旨かったな」 彼が何の気なしに言う。綺麗に片付けられた皿を見るのは確かに気持ちがいい。多分、こんな風に根本的な部分が正直なのが彼の魅力なのだろう。 「うん。美味しかった。いつもこんなに豪華なもの食べてるの?」 「まさか。いっつもコンビに弁当とかだよ。夜も遅いし」 彼も笑って答える。確かに忙しそうだな、と思う。 「仕事大変じゃない? ごめんね、無理させたみたいで」 翔くんはふきだしたみたいに笑う。 「変わんないなー。今日だって俺から誘ったのに」 「だって、証券マンだしさ」 凪は言い訳みたいに言った。 「気にすんな、って。どうせ待っててくれる彼女もいないしさ」 返した翔くんに、またどこか本気の雰囲気を感じてしまい、凪は居心地が悪くなる。 こうやって口説かれるみたいにされるのは、いつまでたっても慣れない。 人生の主役になる瞬間に、いつも居心地の悪さを感じていた。食事をしているときも、そして今も、何だか自分がドラマの主人公のような気がしてしまいどこか後ろめたいのかも知れない。
「俺、今日会ってくれないんじゃないかって思ってた」 どこか寂しげに言った翔くんの発言に、凪はびっくりする。 「え? どうして?」 「どうして、かぁ。やっぱり龍樹かなぁ」 自然に翔くんの口からその名前が出たのでびっくりする。確かに翔くんとは龍樹を通して知り合ったし、話したのもいつも龍樹が真ん中にいた環境だった。 でも、自然にコレまでの近況報告をしたのに龍樹の話題は一度も出ていない。そのとき、ああ、この人は気を遣ってくれていたのだな、と思い途端に申し訳なくなった。 「ごめん、気を遣わせちゃったみたいで。でも別れたのもだいぶ前だし」 凪は慌てて謝る。同時に自分の気持ちに薄ら寒いものを感じていたのも確かだ。 「ほんとに?」 翔くんが聞き返す。尋問みたいな真剣な口調だった。目はもう笑っていない。 「ほんとに、ってどういう意味?」 凪ももう笑えなかった。試されている、と思う。本心を探られている、と。 「そのまんまだよ。凪ちゃんと龍樹、すごく仲がよかったから」 仲がよかった。思わず反芻してしまう。 ああいうのを仲がよかったというのだろうか。言い切ってしまうのだろうか。 あんな、双子の片割れを見つけたような、明日も明後日もいらない、と思ってしまうような感情を。 ずいぶん遠いところまで来たな、と思う。 レストランのキャンドルも、美味しかった食事も、目の前にいる人もどこか現実味がない。 キャンドル越しにゆっくり翔くんと目が合って、凪は現実に引き戻される。 ここは高級なレストランで、自分はもうすぐ26になる大人で、目の前にいる人はかつての知り合いですごく素敵に成長した大人の男の人だ。 「あんなの学生時代のありふれた恋愛だよ。どこにでもあるでしょ。もしかして翔くん、未だにあたしが引きずってると思ったの? ばかだなー、あたしだってそんなに子供じゃないよ」 一気に笑って凪は言い切る。すごく威勢よく啖呵を切ったつもりなのに、どこかすごく頼りなく聞こえてしまい泣きたくなる。 膝に置かれたナプキンが目に入る。きっと大丈夫だ。 「そっか」 そっけなく翔くんが言う。二人の間に沈黙が流れた。
「そろそろ出ようか」 翔くんが立ち上がる。 カードで支払を済ませ、店のドアを開ける。 さり気なくドアを開け、凪を先に進ませたときに、背中にそっと彼の手が添えられた。 夜風が顔に当たって気持ちがいい。 あたしはこの人と付き合うだろう。 凪はぼんやりと予感のように、そう感じながらタクシーに乗った。 この角を右に回ると通っていた予備校が見えるはずだ。 凪はゆっくりと目をつぶる。 仙台の街のネオンが残像に残っていて、それが今日ずっと見ていたキャンドルの明かりなのか、凪は分からなくなる。
|
|