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作品名:羊2 作者:syuru

最終回   後篇
E
「あ、いえいえ、ここはうちが持ちますんで」
 ほっとした。
 お客さんと業者と三人で入った喫茶店で、俺は途中から打ち合わせの内容がほとんど耳に入らなかった。目の前のレシートにずっと神経がいっていた。
 財布の中には百円玉が数枚入っているだけだった。
 まさかお客さんに払わせるわけにはいかないし、業者の人間に、ちょっと金無いから払っといて、とお客さんの前で言うのも格好が悪かった。
「いつも悪いね」お客さんを見送った後、業者の人に声を掛ける。
「いえいえ、御社からはいつも良くして頂いてますんでこれくらいはさせてもらいます。
 ところで、山田さん、この後なんか用事あります」
「いえ。
 会社に戻って昼ごはん食べて、夕方にまた出かけるくらいですけど」
「そしたら、ちょっと早いですけど昼ごはん食べに行きませんか。後は会社までお送りしますんで」
「あぁ、すいませんねぇ」
 内心、助かったと思った。
会社に戻るまでの電車賃と昼飯代が浮いた。
 娘の将来のために蓄えていた定期預金を切り崩して返済してもらった金色のカードの消費者金融会社に、金利の高い方から借り替えをしたいから、カードを失くしたから、と嘘をついて借りた五十万円は、いったんはブルーのカードの消費者金融会社に返済されたが、二カ月もたたないうちに俺は全て借り戻してしまい、借金の総額は又、百五十万円に戻ってしまった。
 利息だけで月に三万五千円、四万円のこづかいでは、誰がどう見てもやっていけるわけがなかった。
 お小遣いをもらって一週間でおけらになると、あとは、ほぼ毎日、妻にお弁当を作ってもらい、近くのスーパーでケースでまとめて買った一缶三十八円の缶コーヒーと一緒に、百円均一の店で買った小さな手提げかばんに入れ、家と会社を往復するだけだった。
 一度、ダメ元で、金色とブルーのカード以外の消費者金融会社に融資を申し込んだがダメだった。
 完全に徳俵に足がのっかってしまった。
 もちろん、これ以上妻に金をくれともいえず、毎朝、タバコ銭として、妻の財布からそっと百円玉を三枚抜き取った。妻も俺の癖がわかっていて、けっして財布の中に札が入っていることはなかった。
 今日のようにお客さんといると、急に飲みにでも行きませんかと誘われることに怯え、もちろん、仕事の後の同僚との付き合いなどもできず、毎日毎日、朝、家を出て、仕事をして、昼休みに妻に作ってもらった弁当を食べ、食後に一缶三十八円の熱くもなく冷たくもない缶コーヒーを飲み、又、仕事をして、そして家に帰り飯を食って寝、又、朝起きて会社に行く。
 その繰り返し。
 ただ、生きているだけ。
「すいません、ごちそうさまでした」
 昼食のお礼を言って、業者の営業車に乗る。
「申し訳ないですねぇ、会社まで送ってもらって。
 お忙しかったらもうどっか適当なとこで降ろしてください」
「いえいえ、うちも通り道なんで」
「そうですか、じゃあ、お言葉に甘えて」
 暫く車内はAMラジオのリスナーの声で占められていたが「山田さん、国立大学出られているんですよね」と突然、隣でハンドルを握る業者の人が口を開いた。
「ええ、まあ一応」
「すごいですよねぇ。
 うちらの会社なんか、工業高校ばっかりですわ。中には大学出てるもんもいるんですけど、そんな大学あったかっていうような大学ですわ。とえらそうに言っている私も工業高校出身なんですけどね」
「いやいや、そんなん関係無いですよ。
 仕事と学歴はまた別もんですよ」
「何でもやらせてもらいますんで、又ひとつよろしくお願い致します」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。私もまだわからんことばっかりなんでまた色々と教えてください」
 会社の前に着くと、わざわざ業者の人は車から降りてきて「よろしくお願いします」とバッタのように頭を垂れ、そして帰っていった。
 完全に俺のことを買い被っていた。
 自己破産目前のただの人間のクズなのに。
 エントランスでエレベーターを待っていると「お疲れ様です」と後ろから声がした。
 振り向くと、同じ会社の女の子だった。
 半年かけてやっと覚えた名前は、総務部の芦田さんと言った。
「山田さん、何か後ろ姿がすごい疲れてますよ」芦田さんが言った。
「あたりまえやん、ただ生きてるだけなんやから。もうあかんよ」
「そんなこと言わないでくださいよ」
「もうあかん。後は朽ちて行くだけや。
 その点、芦田さんはええなぁ。
 まだまだ若いし、夢はあるし希望はあるし明るい未来だらけやんか」
「そんなことないですよ」
 エレベーターが到着する。
二人以外、誰も乗って来なかった。
「芦田さん、齢を聞いて悪いけど、いくつなん?」
「今年、二十九です。
 来年はもう三十なんですよ」
「そうなん。
 そんな風には見えへんなぁ」
 芦田さんは色が白く眼がくりっとしていて、まだ表情にあどけなさが残っていた。
「明日は二十代最後の誕生日なんです」
「あっ、それはおめでとうございます」
「何の予定もないんです。
 山田さん、どう思いますかっ」
「そんなん、俺に逆切れされても」
「どこか飲みに連れて行ってくださいよ」
「俺が?」
「そうです」
 エレベーターが赤く点灯しているボタンの階に着く。
「わかった。
じゃあ、また後で連絡するわ」
芦田さんの顔が少し赤くなっていた。
 席に着くと和田山さんが「どうやった?」と聞いてきた。
 ありのままを話すと「あいつはええ奴から。仲良うしていき。いろいろ助けてくれると思うから」
「わかりました」と言うと、俺は携帯電話を手に取った。
“明日急飲。大事客様。二必要。可返金”
 送信釦を押して暫くするとYシャツの胸ポケットで携帯が震えた。
“無理。今月は固定資産税とかピアノ発表会の会費とか払わなあかんから“
 席を立つと、事務所を出て、トイレの個室に駆け込む。
 呼び出し音が四回なった後、妻が出た。
「頼むわ」声を殺して懇願する。
「無理やって。
会社で借りられへんのん?」
「前渡金は前日の午前中までやねん」
「でも、ほんまに無理やでぇ」
「ボーナスの前借りでええから」と言った時、人の足音が近づいてきたので慌てて水を流す。
 暫くすると足音は遠ざかっていった。
「絶対無理やから」
「仕事やでぇ。
 持ち合わせないからすいません出してもらえませんかって客に言うんか」
「そんなん知らんやん。
 あんたが撒いた種やろ」
 妻のいつものセリフにそれ以上何も言えなかった。
 席に戻る。
 顔を上げると芦田さんと目が合った。

 定時のチャイムが鳴ると「お先です」と会社を出る。
 快速電車に乗り、いつもなら乗り換えるだけの駅で改札を出る。
 平日で月末でもないので“みどりの窓口”は空いていた。
「すいません、定期の解約をしたいんですけど」
「はい。
では定期券をお見せ願えないでしょうか」
 JRの職員はじっと俺の定期券を見る。
「本日の解約ですと、2カ月分の解約となりますがよろしいでしょうか」
「はい」
 そんなことは知っていた。
 学生の時に、親に預かった授業料を使い込んでしまい、どうにもならなくなって定期券を解約したことが二度あった。
 2ヶ月半残っていようが、2か月と1日残っていようが、端数は切り捨てられる。
 おまけに解約手数料というのが取られ、大きな損となる。
「お待たせ致しました」
 福沢諭吉二人と夏目漱石を何人か手にする。
 やってはいけないことだとわかっていることを、二十年に渡ってまたやってしまう。
根っからのバカである。
定期券の解約、というのは最後の砦であるということは過去の経験から重々承知していた。
学生時代、留年をしたのもこれが原因だった。
学校へ行くまでの金がない。
今、同じ、状況に陥った。
会社へ行くまでの金がない。
そうなるのが目に見えていた。
しかし、今、目の前の金がいる。
 
翌日、芦田さんと待ち合わせたのは大きなステーションの近くの大型書店の前。
着くと、彼女はすでに来ていた。
「ごめんごめん」
「私も今来たとこなんです」
 少し歩いたところに芦田さんが予約した店があった。
 いつも会社で「金がない金がない」と冗談半分(自分自身では本気なのだが)で言っているのを気遣ってくれたのか、そこいらにあるチェーン店の居酒屋に少し毛が生えた程度の店だった。
 生ビールで乾杯する。
「すいません、忙しかったん違いますか」芦田さんが聞く。
「全然。
 そんなん芦田さんなぁ、結婚してるおっさんはみんな基本的には夜は暇やねん。子供が小さかったらまだ家に帰っても何ややることはあるけど、子供が大きなったら、何にもすること無いっていうか、そもそも相手にされへんようになんねん。
 芦田さんもそうやろ。
 中学生くらいなったらお父さんとなんか喋れへんかったやろ」
「ええ、まあそうですけど」
「テレビ見てもおもろないし、天井見ながら手酌で酒飲んでるだけ。
 それやったら、芦田さんと一緒にいる方がよっぽどええというか建設的やわ」
「それどういう意味なんですか?」
「いや、特に意味はない」
 芦田さんは笑って手で口を押さえた。
 若い女性と二人で酒を飲むことなんてほんとに久しぶりだった。
 その後、芦田さんは俺のこれまでの人生と言うか生き方に興味を持っていたらしく、どうして今の会社に入ってきたのか、どうして前の会社を辞めたのか、どうして奥さんと結婚したのか、どうしていつも疲れているのかなどを聞いてきた。
 店を出た時には、喋りすぎて、喉が痛かった。
「芦田さん、まだ時間ある?」
「大丈夫です」赤い顔をして芦田さんは言った。
「芦田さん、結構飲めるんやん」
「そうなんですけど、すごく顔が赤くなるんで」
 確かに芦田さんは生ビールを一杯飲んだ後、レモンハイを二杯飲んでいた。
 二件目は静かなバーだった。
 蝶ネクタイをして、白いひげを鼻の下に蓄えた初老のマスターが一人、カウンターの中に入ってシェイクを振っていた。
「ハーパーのロック、ダブルで」マスターに告げる。「芦田さんはなにする?」
「えーっと、ジントニックで」
「かしこまりました」マスターは目尻にたくさんの皺を寄せて言った。
「山田んさんは毎日お酒飲むんですか」芦田さんが聞いてきた。
「うん」紫煙をくゆらす。「この二十何年間で飲まんかった日は多分十日位ちゃうかなぁ」
「ほんまですか?」芦田さんは大きな目をさらに大きくしていった。
「ほんま。
 なんで飲むかは俺もようわからへんねん。
 嫁さんに言わせると現実からの逃避やねんて。
 自分ではそんな風に思ったことはないねんけど、傍から見てるとそう見えるらしい。 
 単純に酒が好きなだけやと思うねんけどね」
 マスターが「お待たせいたしました」と言って二つのグラスを二人の前に差し出した。
 今日二回目の乾杯。
 一口舐めるとタバコに火をつける。
「山田さん、バーボン飲みながらタバコ吸ってる姿、むっちゃ格好いいですよ」芦田さんが肩を寄せてきて言う。
「そう。
 お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないです」
 酒は音楽と同じ、当時を思い出させる機能を持ち合わせている。
 バーボンを飲むと、昔、それも、社会人になって間もない頃、少し懐に余裕が出始め、女性との付き合いも多くなり始めた、あの頃を思い出す。
 あの時、いつも、二件目の店で手にしていたのはバーボンだった。
「山田さん、すごい綺麗な手してますよね」芦田さんが言う。
「やっと気付いた?
 俺、顔はこんなんやけど手はむっちゃ綺麗やねん。
昔ある女の子から手首から先は別人ですよね、って言われたことがあんねん」
「ほんとすごく綺麗ですよね。女の子見たいですよ」
「それに爪も綺麗やろ」言って俺は自慢げに十本の指をこれでもかと反らせて見せた。
「ほんとですねぇ。
 マニキュアとかしたらすごい似合うんちゃいます」
「そうかな。
 とにかく、俺、小学校の時から、自分の手は綺麗やなぁと思ってて、ある時、なんかの授業で、自分の自慢できるとこはどこですかって聞かれるたことがあって、配られた紙に“手”って書いて、後から担任の先生に、これどういう意味?って聞かれたことがあったわ」
「触っていいですか?」
「どうぞ、お好きなだけ」
 芦田さんは怖いものでも触るかのように、恐る恐る俺の手に触れた。
「すごく柔らかいですよね。見た感じも触った感じも女の子見たいですよ」
「そう。
 せやけど、芦田さんの手も白くて綺麗やね」
 俺の手から慌てて芦田さんは手を離すと「そんなことないです」と言って、薄暗い店内でもはっきりとわかるくらい顔を赤くした。
 三杯目のハーパー・ロックが空になり、箱に残っていた最後の一本の煙草を吸い終えると「そろそろいこか」と言って店を出た。
「悪かったね、遅うまで」
「うんうん、全然。
 すごく楽しかったです。こんなに楽しかったの久しぶりです。
 又、連れて行ってくださいね」
「そうやね。
 今度は冬のボーナスもらったらいこか」
 夜の街を歩く。
 通りのビルの壁には、まだクリスマスまでにはかなり日があるのに派手な装飾が施されている。
 ステーションの灯りが見えてくる。
 肩が触れあう。
「芦田さん、もう遅いからタクシーで帰り」
 俺は財布の中に一枚だけ残っていた一万円札を芦田さんに差し出す。
「そんなんいいです。
 まだ電車もありますから」
「あかんあかん。
 物騒な世の中やから、今日はタクシーで帰って。
 芦田さんに何かあったら、俺悲しいから」 
 言って、肩を抱きしめようと思ったが、やめた。
 今の俺にそんな資格はない。
「その代わり、お釣りは返してな」
「はい、わかりました」芦田さんの笑顔を見ると俺は、ほなね、と言って彼女を見送りステーションに向かった。
 久しぶりに覚える、ざらざらとした胸騒ぎ。
 ステーションに着く。
 待っていたかのように携帯が震える。
 メールだった。
“今、タクシーに乗りました。明日、ちゃんとお釣りは返します。おやすみなさい??”
 定期入れを自動改札機にかざす。
 すると、派手な電子音が鳴り、行く手を閉ざされた。
 戻ってもう一度定期入れをかざしたが、同じことだった。
 後ろに並ぶ帰宅を急ぐ人たちから冷たい視線を浴びる。
 列から外れ、駅員に訳を問いに行こうとした時、思い出した。
 定期券を解約したのだ。
 現実に引き戻された俺は、人の波を掻き分け券売機に向かった。

         F
 つらい日々が続く。
 会社までの往復の交通費とタバコ代で千円。
「タバコ代もらうで」毎朝、妻の財布から千円札一枚を抜き取り会社に向かう。
「もう、タバコやめたらええやん」妻に言われるのにはもう慣れっこになっていた。
 給料日前になると妻の財布の中には硬貨しか入っていない。
 そんなある日、急な出張が入ったことがあった。
 目的地にまでたどり着く金が無い。
 妻に言うと、娘のピアノの月謝袋から千円札を二枚を取り出し渡してくれた。
 いつまでこんなことが続くのか。
 永遠に。

 最寄りの駅のひとつ前の駅で降りる。
 今日はずっと外回りだったので、タバコをいつもの半分も吸わなかったというか、喫煙できる場所がどんどんなくなっていくので、吸えなかった、というのが正解だった。
 結果、昨日の残りのタバコで一日が足り、三百円が浮いた。
 大型スーパーの食料品売場にスーツ姿でうろつく。
 しかし、周りには同じような格好のおじさん連中がたくさんいた。
 手にしているカゴの中には、お弁当や缶ビール、中にはトイレットペーパーを入れている人もいた。
 単身赴任か、それとも独身か。
 いずれにせよ、虚しい光景に違いはなかった。
 第三のビールとレモンチューハイを手に取る。
 頭の中では、カチャカチャと音が鳴り、残金八十円、と答えを出す。
 駄菓子売場で足が止まる。
 子供の時に買ったカレー味のお煎餅が三枚入った小袋を見つける。
 五十円。
 手に取ると、レジに向かう。
「284円になります」
 レジ袋をぶら下げふらりと商店街を歩く。
 中学生の頃、友達とあてもなく、ぶらついた商店街。あれから三十年の月日が流れた。
 ほとんどの店舗が錆びたシャッターを下ろしている。
 周りを見て、誰もいないのを確認すると、レジ袋から缶ビールを取り出し、そっとプルトップを引く。
 若い頃、駅のホームでワンカップや缶ビールを飲むおっさんを見た。
 こんなんなったら終わりやなぁ・・・今、俺は、終わっていた。
 まだ時間が早いのか多くの人とすれ違う。
 地元だけに、知っている人に見られるとまずいと思い、通り過ぎる人をちらちらと見ていたが、缶ビールが空になる頃には、そんなことは意識しなくった。
 レモンチューハイのプルトップをキシュッと開け、カレー味の煎餅をバリバリと貪る。
 商店街に続いて懐かしい公園の横を通る。
 朽ちた木のベンチの上で猫が手の肉球を嘗めている。
 みんな何してんのかなぁ・・・レモンチューハイをぐっと飲む。
 自宅のマンションに着きリビングに入ると「あっ、父さんお酒飲んできたやろ」と娘が俺の顔を見て言った。
「飲んでへんよ。
 だいいち、そんな酒飲むお金あるかよ」
「嘘やん。目が赤いでぇ」
「ちょっと悲しいことがあって久しぶりに泣いたんや」
「母さん、ほんまに?」娘は風呂からあがってドライヤーをあてている妻に聞いた。
「自分で言うてんねんからほんまちゃう」洗面台の鏡を見ながら妻は答えた。
「ビールあんのかなぁ」冷蔵庫を開けると第三のビールが二本入っていた。「今日、おかずなんなん?」妻に聞く。
「カレー」
「カレーか。
 カレーじゃ、ビールのあてになれへんねんなぁ。
 なんか卵でも焼いてくれへん」
「いいけど、ちょっと待ってや」
「おぅ」
 一本目の第三のビールを半分ほど飲んだ時、テーブルの上に卵焼きというかスクランブルエッグが出てきた。
「これはケチャップやんなぁ」妻に聞く。
「うん」愛想なく妻が答える。
「父さん、お酒ばっかり飲んだらあかんでぇ」娘が茶々を入れる。
「やかましぃわっ、はよ風呂入れっ」
 娘は飛ぶようにして洗面台へ駆け込み、木目調の扉を閉めた。
「母さんさぁ、お金無いのはわかんねんけど、あと一万円でええから小遣い増やしてくれへん」
「無理やって」
「だって、ほとんど利息で消えるんや」
「このあいだ五十万払ったやん」
「それはそれやねんけど・・・」
「まさかまた他で借りたん?」
「あほか、もうどこも貸してくれるかよ」
「そしたら、お義父さんに相談したらええやん」
「前も言ったけど、それはでけへん」
「そしたら文句ばっかりいいなや」
「文句ちゃう、お願いや」
「知らんよ、そんなん」言うと妻は娘の部屋へ消えて行った。
「ぼけがっ」
 娘が風呂から出てきた時には二本目の第三のビールが半分からになっていた。
「父さん、風呂入りや」娘が言う。
「もうええねん。
 今日は入らへん」
「臭いやんか。
 はよ入りっ」
「やかましいっ、今日は飲むんや」言うと残りの第三のビールを一気に飲み干した。
「おかん、金もらうぞっ」
 テーブルの椅子に掛けてあった妻の鞄の中から千円札を一枚抜き取るとマンションを出る。
 コンビニで第三のビールのロング缶二本とレモンチューハイのレギュラー缶一本を買うとすぐに戻ってきてプルトップを開ける。
 妻と娘は俺に背を向けるようにしてテレビを見ていた。
 気にせず喉に流し込む。
「風呂入っといたら。
 結構、もう、朝、寒なって来てるから風邪ひくで」
「ええねん。
 明日はもう会社いかへん」
「又そんなこと言うて」
「もうええんや。
 俺の先なんか知れとる」
 第三のビールのロング缶がもう軽くなっていた。
「もう寝るで」言うと妻は二つある、リビングの灯りの片方を切り、娘と一緒に布団の敷いてある隣の部屋に入っていった。
 テレビの画面に最近人気のある若手芸人が面白くもなんともないことを言ってスタジオの中だけでうけているので、リモコンで画面から消した。
 新聞を拡げる。
 やたら目につくのが○○法律事務所の広告“払いすぎた利息が取り戻せます”
 いつか俺もこんなところに駆け込む日が来るのかなと思い目を他の記事に移す。
“年間自殺者数三万人超す”
 死ねるのか?
 いや、無理。
 だけどよく考えてみろ。消費者金融に百五十万の借金がある。普通に考えれば返済は不可能だ。
 それなら死んだ方がましだぞ。
 この間、死亡保険金も五千万円に増額した。
 死ぬと、マンションのローンはチャラになる。おまけに五千万円が妻と娘に残るんだ。住む家があるから、妻がパートでもすれば一人娘と二人で十分暮らしていける。
 このまま生きてみていろ、家のローンを完済してなおかつ妻と娘に五千万円の金を残せてあげれるか。
 無理。
 それなら死んだ方が絶対にましだ。
 だけど、自分を殺めるような勇気は俺には絶対に無い。
 それならゆっくりと自分を殺めて行けばいい。
 ゆっくりと?
 そうだ。
少しずつ少しずつ自分を痛めつけていけばいいんだ。
今よりも増して毎日大量の酒を飲み続けろ。
十年もすればアルコール性肝炎になって、食道にできた静脈瘤が破裂して、大量の血を吐いて死ねる。
格好良く言えば“緩やかな自殺”だ。
俺は二本目の第三のビールのプルトップを引いた。

次の日、俺は予告通り、親戚のおばさんに死んでもらって、会社を休んだ。
妻が俺に呆れてパートに出かけた後、また眠ってしまい、今度目を覚ますと部屋の時計は十二時を回っていた。
冷蔵庫を開ける。
アルコール類は何も入っていなかった。
自分の財布の中にも何も入ってなかった。
娘の部屋に入ると学習机の引き出しを開ける。
娘のへそくりを俺はひっこ抜く。
昼間のコンビニはお弁当を買いに来ているおそらく近くの会社員たちで混み合っていた。
 レジ待ちで並んでいると前のOLらしき女性が俺を不審な目で見た。
 そらそうだろう。
 ほのかに匂うアルコール臭、真っ赤に充血した目、そして、手にしているのはお弁当ではなく缶ビールとレモンチューハイ。
 マンションに戻ると、すぐに飲み始める。
 あてを探しに冷蔵庫を開ける。
 魚肉ソーセージを見つける。
 オレンジ色のラミネートを剥きかぶりつく。
 懐かしい味だった。
 ビールを流し込み魚肉ソーセージをかじる。
 この動作を何度も繰り返していると、急に眼から涙が流れ始めた。
 涙は止まることを知らず、いつまでも俺の眼から流れ続けた。

         G
 やがて寒い冬がやってきた。
 仕事は入社した時よりは多少忙しくなっていたが、それほど大したものではなく“緩やかな自殺”を遂行していくには何の支障もなかった。
 急にお客さんの接待が入ったと嘘をついて妻にお金をもらっては飲み、和田山さんを初め、みんな同僚の人は俺が中途採用で入社したからおそらく給料も安く生活が大変なんだろう、小遣いも少ないんだろうと薄々感づいているらしく、しょっちゅう奢ってもらっては飲み、いよいよお金が無くなると、小銭をかき集め、自宅マンションの最寄駅の一つ手前の駅で降り、近くのスーパーで第三のビールとレモンチューハイを買って歩きながら飲んだりして、確実に毎日大量のアルコールを体に入れ続けた。
 家で夕食を食べることはほとんどなく、飲んで帰って来て風呂を出た後、第三のビールとレモンチューハイを“二次会”と称して、飲む程度で、この三カ月ほどで約四キロ痩せた。
 そんな中、十二月の第一週の週末、冷たい冬の雨が降りそぼる中、会社の忘年会が行われた。
 俺は入社十カ月ほどだったが、すっかり会社に溶け込んでいた。
 嫌な人は一人もなく、自分自身の精神状態を除けば、非常に穏やかに過ごせる環境だった。
 乾杯の後、いきなり和田山さんが「山田君、明日は休みやから今日は安心して日本酒飲めるでぇ」と言ってきた。
 実は一週間前、仕事の後、和田山さんに誘われ会社の近くの居酒屋で早い時間から飲んでいた。
 あてに大好きなマグロの造りが出てきたので、それまで飲んでいた焼酎のお湯割りを熱燗に変えた。
 これがいけなかった。
 マグロの美味しさも手伝って、店を出るまでの間に五合飲んでしまった。
 定期券を解約し、切符で買うと若干安い私鉄で通勤していたのでJRの駅で和田山さんと別れた。
別れ際「寝たらあかんで」と和田山さんに言われたにもかかわらず、俺は眠りの沼にずぶずぶと沈んでいった。
 終点と終点の間を二往復し、八時前には居酒屋を出たはずが、駅員に起こされ目を覚ますと日付が変わる一歩手前だった。
 次の日、会社でその話をすると皆大笑いだった。
 斜向かいに座る芦田さんがビールをコップに注いでくれる。
 芦田さんとはあの時以来、一度も二人では飲みに行けてなかった。
 同僚のみんなと飲みにいって同じテーブルにいたことはあった。
 お金さえあれば・・・と思ったが、債務者が何生意気なこと言ってんだっ、とどこからか声が聞こえてきた。
 会社ですれ違う時もだんだん声を掛けづらくなってきていた。
「山田さん、よく飲みに行っているんですか」と芦田さんが聞いてきた。
「そんな行ってへんよ。
 貧乏やからそんなお金あらへん」
「ほんとですか?
 色々と武勇伝聞いてますよ」
「あんなん全部嘘。
 俺が面白いように脚色してるだけ。
 飲みに行くのは芦田さんとだけ」
「あー不倫やぁ」隣の女性社員が声を上げる。
「山田さん、それはダメでしょ」女性社員に続いて若手の男性社員が突っ込む。
「あほか。
 そんな甲斐性、今の俺にあるかよ」
「ほんまや」和田山さんが笑いながら言う。
 忘年会は二時間ほどでお開きになった。
 さあ、帰ろうとした時「もう一件行くで」と和田山さんが腕を引っ張った。
「マジですか。
 僕もうこれで終わりやと思うて全力投球してたんですけど」
 実際、俺はかなりいい気分だった。
 和田山さんのアドバイス通り、明日のことは気にせず、日本酒を水のようにして飲んでいた。
「ええやないか、ちょっとだけや」
 和田山さんに引っ張られるようにして入った店は、以前に一度だけ連れて来てもらったことのあるアットホームなスナックだった。
 ソファーに腰を下ろすと、目の前には芦田さんをはじめ、女性社員全員が来ていた。
 これまで、二件目に女性社員が来ることはめったになかった。
 今日は今年最後やからなんかなぁと思っているうちに付け出しと水割りが出てきた。
 乾杯するのかなと思っていると、いきなり同じ部署の年配の方がカラオケを歌い始めた。
 和田山さんが「あの人いつもあんなんやねん。多分最後まで歌ってるからほっときや」と耳元で囁いてくれた。
 初めあまり進まなかった水割りが、時間がたつにつれ、喉を通るようになっていた。
 ちらちらと芦田さんの顔に目をやり、二回に一回の割合で目が合った。
「山田さん、飲みすぎたら駄目ですよ」と言って、白い白魚のような手で俺の手の甲を撫でるように叩く。
 良かったんや、これで、なあ、おい、何とか言えよ。
 店を出ると外の冷たい風が頬を打った。
 駅で全員解散となる。
 和田山さんが「寝たらあかんで」と一週間前と同じセリフを言い残し改札の向こうに消える。
「大丈夫です」と自分に言い聞かせるように言ったが、大丈夫ではなかった。
 少し離れた私鉄の駅に着き、ホームに着くとちょうど特急が入ってきた。
 最後尾の車両には空席が目立っていた。
 二人掛けの座席に腰を下ろす。
 隣には酔っぱらいを敬遠してか誰も座って来ない。
 手の甲に残る芦田さんの手の温もりを感じながら、俺は、又、眠りの沼にズブズブと沈んでいった。

 気がつくと、駅のホームで立っていた。
 駅員に促されるように改札を出る。
 自分の置かれている状況が全く分からなかった。
「すいません、大阪に帰りたいんですけど」出てきた改札に戻り駅員に聞く。
「もう最終電車は終わりましたんで」駅員がサラリと言った。
 財布を開けると千円札が一枚入っているだけだった。
 携帯を手に取る。
 五回の呼び出し音の後に妻が出てきた。
「終電無くなったんや。
 タクシーで帰るからマンションの前で待っててくれへんか」
「どれくらいすんのよ」妻が聞く。
「ちょっと待ってや」言って俺は駅員に聞きに行く。
「タクで大阪まで帰ったらどれくらいかかる」
 俺の問いに、駅員はまたもやサラリと「一万円もあったら足りますよ」と言った。
 そのまま妻に告げると「そんなお金無いよ」と携帯の向こうからでもわかる冷たい声で妻は言った。
「無いって、そんなん、俺帰られへんやん」
「お金もないのに遅うまで飲んでるからやん」
 言うと妻は携帯を切った。
 すぐに掛けなおす。
 しかし、妻は出ない。
 今度は自宅の電話に掛ける。
 誰も出てこない。
 いったん切り、もう一度鳴らす。
 三十秒ほどたって妻が出てきた。
「無理やって」妻の声を残して電話は切れた。
 駅を離れると冷たい雨がしとしとと降っていた。
 手に傘を持っていることに気づく。
 傘をさし、あてもなく歩く。
 灯りが見えてくる。
 コンビニだった。
 中に入ると暖かい空気が体を包む。
酒ばかり飲んでいたからなのか、お腹がグーと鳴った。
 温かいものが食べたかったので、カップラーメンを手にした。
 しかし、パッケージを破り、ふたを開け、かやくと粉末スープを麺の上にあけ、ポットでお湯を注ぐ、その過程を最後まできちんとやり通す自信がなかった。
 指先の感覚が既に自分の管理下からはずれていた。
 しょうがないので、温かいワンカップとおにぎりを一つ買ってコンビニを出た。
 雨は上がっていた。
 傘が邪魔だった。
 ビニール傘ばっかりじゃ、客先に行くときに格好悪いからと、妻に五百円で買ってもらった代物だった。
 地面を引きずる。
 電柱に叩きつける。
 街路樹を刺す。
 駅に着く前に傘は解体された。
 真っ暗な駅舎にはベンチなど無かった。
 しょうがないので、改札につながる階段に腰を下ろす。
 キーンと尖った冷たさがお尻から伝わる。
 ワンカップを開け、喉に流す。
 熱い液体が胃に落ちて行くのがわかる。
 おにぎりの包装を剥く。
 しかし、うまくできない。
 海苔がほとんど千切れてしまった。
 若者が数人通り過ぎてゆく。
 離れてからこっちを見る。
 おにぎりの真ん中に入っている梅干しの種に歯があたる。
 実だけを口の中で剥ぎ取り、種をプッと飛ばす。
 種はころころと転がり、やがて暗闇に紛れ見えなくなった。
 寒さが体を包む。
 暖かかったワンカップがもう温い。
 睡魔が瞼の上に乗っかってきた。
「あー」訳のわからない声を出し、俺は意識を失う。

         H
 足音で目が覚めた。
 慌てて立ち上がり、お尻を払う。
 足元には少しだけ残っているワンカップと食べかけのおにぎりが落ちていた。
 改札を通ると発車前の電車がホームで待っていた。
 座席に腰を下ろす。
 暖かさにほっとする。
 スーツのズボンがドロドロに汚れていた。
 土曜日の朝だったので車内はそれほど混んではいなかった。
 みんなこれからどこに行くのだろう。
 不自然な姿勢で寝たからか、体中がきしんでいた。
 電車が動き始める。
 窓の外には上がってきたばかりの太陽が俺はここにいるぞと存在感を示す。
起きたばかりの街が目の前を流れていく。

 マンションに着くと、妻も娘もまだ眠っていた。
 風呂に入り体に付いたいろんな汚れを洗う。
 出ると、髭を剃ろうと思ったが面倒くさいのでやめ、冷蔵庫から第三の缶ビールを取り出しプルトップを引いた。
 ソファに腰をおろし足の指をじっと見つめる。
 右足の小指に大きな魚の目ができていた。
 ビールを喉に流し込む。
 妻と娘の寝顔が並ぶ。
 缶ビールが空になると、疲れからか急に眠くなってきた。
 そっと、布団にもぐりこむと、あっという間に眠りに落ちた。

 昼過ぎに目を覚ましたが、俺は妻とも娘とも一切口を聞かず、向こうも何も話しかけてこなかった。
「明日お弁当いるの?」やっと言葉を交わしたのは次の日の日曜日の夜だった。
「うん」
それだけ言うと俺は寝床に付いた。
 翌朝、目を覚ますと妻はもう起きてお弁当を作っていた。
 歯を磨き顔を洗い髭を剃りスーツに袖を通す。
 リビングに戻ると妻からお弁当と三十八円の缶コーヒーが入った百円均一の小さな手提げかばんを受け取る。
「この間、会社着いたときくらい缶コーヒーは温かいの飲みたいって言うてたから湯煎しといたで。会社着くまではもつと思うから」
「あぁすまんなぁ」
 エレベーターに乗り、マンションを出る。
 金が欲しい、酒が飲みたい、女を抱きたい、そんなことばかり考えている一匹の羊には、明けたばかりの街に向かって、メェーと鳴くしかなかった。

         了


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