その後、カレは約束どおりワタシのもとへやってきたのだろうか? やってきたに違いない。 やがて、夜が明け、分厚い鉄製のドアがゴトリと音を立てた時、 「いまだ」 カレの合図に合わせて、ワタシはドアを勢いよく開け放ち、その犯人を白日の下にさらした。 子供ではなかった。 男はいささか面食らったように後ずさりしたまま、こちらを凝視している。 高そうなスーツに身を包み、ロマンスグレーの髪を行儀良く左右に撫でつけた、背の高い紳士然とした男である。 お互いの間で、しばらく沈黙が続いた。 ワタシは郵便受けの請求書を手にし、あらためて男を窺う。 「いったい……なんなんですか」 いい歳をしたアナタのようなヒトが……ワタシは言葉を飲み込んだまま、男が何か答えるのを待った。 男は嘆息したようだ。 右手に持つ黒いアタッシュケースでドアを押しやると、やにわに玄関に侵入してくる。 ワタシは慌てて電話のもとへ走る。 「ムダだ」 男がようやく声を発した。 ワタシは怯まず、110番をプッシュした……が、つながらない。ワタシはパニックに陥った。 「落ち着きたまえ。ワタシは君の味方だ。それだけはとにかく憶えておくことだ」 男は勝手に上がりこむと、テーブルの前に静かに腰を落とした。アタッシュケースの中からB4サイズぐらいの紙を数枚、取り出し、その上におく。 「何も考えなくていいから、ここに署名捺印したまえ。あと、銀行口座は持っていたね? ここに支店名と口座番号を。支払いが滞るようなら口座振替にしたほうがいいだろう」 「な、なにを……」 「君は何も考えなくていいんだ。いいかい? もう時間がない。早く処置を施さないと手遅れになる。非常にデリケートで……手間ひま要する作業だよ。つまり、ワタシの生活の大部分を犠牲にしてしまう以上、タダでは出来ない。必要経費と報酬が約束されなければ、これ以上の処置は出来ない」 「処置」 いったい、この男は何を言っているのか。ワタシのお金を使って、いったい誰のために何を処置するというのか。 ワタシは視線をさまよわせたまま、 「あのグチャグチャになった部屋を……直してくれるとでも言うんですか……でも、アレはあなたがやったことじゃないんですか」 「すでに自覚症状があらわれているようだな」 わかった……男は呟くと立ち上がった。 「カレと相談したまえ」 「カレ……?」 ワタシはフラフラと立ち上がった。2、3回、部屋の中を往復した後、立ち止まってグルグル辺りを見回す。 再び歩き出す。 長い長い彷徨の果て。 あの荒れ果てたバスルームにたどり着いた。 粉々に砕けた鏡がある。 二等辺三角形、正三角形、台形……幾何模様の破片がまだそこらにへばりついて残っている。その表面にはルージュの赤いラインが横断し、何かを訴えていた。
キョウコ……
と書いてあったのではないか。辺りの壁にのたくったヒステリックなラインも、そう読めなくもない。 背後で男が言った。 「キミの名だな」 「……ええ」 「……で、むろん、カレは今でもキョウコを愛しているんだろうね?」 「もちろん……」 「そうだろう? 心から愛してくれている。いままでも、これからも、ずっとずっと。だからキミはここに生きていられる」 「わ……たし?」 きらめく銀色の破片は、異形のモノがすまう万華鏡の世界を映し出していた。縦横に絡まる伸び放題の縮れた黒髪、極彩色にけばけばしく縁取られた眼、鼻、口らしき肉塊、ゴツゴツしたシルエットのフリルのドレス……おぞましい未完のパズル。 ワタシは直感した。たぶん、それこそ地獄の『悪魔』に違いないと。そいつがいま、ワタシの足を引っ張っている全ての元凶であろうと。 ワタシだけではない。ワタシが心から愛してやまないカレシに対してもそうだったのだ。 昨夜、カレが言っていた。『似たもの同士』と。それはワタシに対する慰めではなかった。 ワタシだけは知っていた。 カレはほんとうに独りだった。おそらく物心ついた時からそうだった。友達の一人もおらず、家族にさえ気味悪がられ、好きになった女性には声をかけることもできず、いつも指をくわえて眺めるばかりだった。 でもワタシだけは、その悲しみを知っていた。その純心を知っていた。ほんとうに……涙が出るくらい……カレは何も望まなかった。いつか愛されるかもしれないという可能性さえも。 ワタシだけが、カレを愛している。いや愛さなければ。これからも……ずっと。 「もうそこを覗き込むのはやめたまえ。本当に手遅れになる」 鏡に歩み寄りかけたワタシの腕を、男が強烈な力で引き戻した。 「もう、いいだろう? キミはじゅうぶんやった。キミはひたすらおのれの愛をつらぬいただけだ。たとえ、相手にとって死に勝る苦痛でしかなかったとしても……憎むべきは運命。そしてキミは運命を克服する力を得ている……」 男の手がパタンとそのドアを閉じた。 「死者を蘇らせる力。キミだけは、生きねばならんのだよ。生来、誰にも愛されないキミだけは、どこにも蘇ることが出来ない。死んだらそれきりだ」 ワタシは男にいざなわれるまま、テーブルに戻り、手引きに従って書類に必要事項を記入した。 「では、診療所までご同行願おう。新たな処置が終わった後、薬を処方しておく。しばらくはそれだけで十分だろう」 ワタシは朦朧と、いま、ようやく思い出している。 死者は蘇る。 ほんとうの悪夢。それとも至福の現実。 ううん。けっきょく、どっちでもよかったんだ。どうせ、目覚めれば全て忘れる。 これからも僕はワタシとして生きればいい。たとえ、周りで何が起ころうとも。ささいなことではないのか。 いま、急速に薄れゆく記憶と入れ替わって、全身を刺し貫くこの幸せの感触と比べたら。 さいわいなことにワタシだけは何度もやりなおさなくていいらしいから。 ほんとうの4日目が訪れるまでは、好きにやらせてもらおう。
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