「シタには行きたくないわ」 はるかはるか雲の上、少女はそうつぶやいた。 そこは、見渡す限り真っ青な空と、その両足を支える白い雲の群。 それ以外何もない、清浄とした世界だった。 「シタにだっていいところはたくさんあるさ」 少女のそばで横たわっている竜はそう答えた。少女は小さく首を振って、竜をにらみつける。 「あなたは何にもわかってないのよ。ここがどんなに救われた場所なのかを。一度でもシタに行ったことがあるっていうの。ないでしょう。私にはわかってるのよ、そこがどんなところなのか。シタには絶対に行きたくない」 「リー」 竜は少しだけ尾を持ち上げ、そしてどすん、と落とした。 竜の大きさは少女の五倍をゆうに超えている。彼は風でできていた。 彼の周りには全身の鱗から吹き出した繊細な風が、常にいくつも絡み合い、そしてその尾の方向へと抜けていった。 空をそのまま映したかのような深い青の瞳は、すべてを吸い込み、そしてやはり尾へといざなっている。 彼のささいなたしなめは、少女にはまったく通じなかったようだ。 「シタの世界はなくてもいいんじゃないかしら。この世界みたいに、もっとシンプルになればいいんだわ。ねえ、風をおこして」 「なぜ?」 「もちろん、あなたの風でシタを吹っ飛ばすのよ」 竜はちらりと隣に座り込んでいる少女を盗み見た。 その表情はいたって真面目で、ふざけたところは全く見受けられなかった。 竜が小さくため息を付く。ごお、と空気が揺れる音がした。 「そんな破壊のために使う風は持ち合わせてはいない」 「まあ、いくじなしね」 少女は目を細め、それから同じように息をつく。こちらはほとんど音がしなかった。 二人の間に重苦しい沈黙が流れた。 四つの眼は果てしなく青い空と、きまぐれに漂う雲の切れ端を追っては又もとの位置に戻っていった。
青い空が黄丹に混ざり始める。二人はまだ動かなかった。 「ねえ」 口を開いたのは少女だった。 「貴方の鱗、一枚くれる」 「気安く渡せるようなものではない」 「いいじゃない。一枚だけよ」 少女があまりにこちらを見つめるので、竜は根負けして、仕方なくつめの生え際にある一番小さな鱗をはぎ、少女に渡した。 「ありがとう」 少女は小指の爪ほどの鱗を夕日に透かして、あらゆる方向からそれを眺めた。 「何に使うんだ?」 竜が首をかしげる。 「手始めに、シタの山を削ろうと思って」 「何の手始めだ」 竜はすばやく鱗を取り返し、口に含んだ。あっ、と少女が悲鳴を上げる。 「今じゃないわよ、この先のためにの話よ!」 「信じられるか」 竜が目を伏せる。 「本当よ」 少女は竜の鼻先に顔を近づけ、眉をひそめてこう囁いた。 「シタのやつらが、ここまで攻めてきたら、それでやっつけたいのよ。」 「シタの人間たちが?」 「うん。だって、こんなに美しい貴方がいると知ったらみんな上がってくるわ。貴方を人間なんかに触れさせたくないのよ」 しばらく黙って、竜は目を閉じ、それから開いた。 「やっぱり駄目だ」 「どうしてよ!」 「どうしても」 少女の一方的な怒鳴り声が、しばらく続いた。 空は、少しずつ、少しずつ、暗闇に飲まれていった。 それから、怒鳴り声は、静かになった。
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