十蔵の大坂行きは、山の仲間たちの評判になった。 何しろ、十蔵たちの山では、十蔵ひとりが選ばれている。
仲間たちは、寝泊りをする場所というか、飯を食う「飯場」(はんば)で、うわさをし合っていた。 「流れ玉に当たって死ぬかもしれぬ、おぞやおぞや(おそろしい、おそろしい)」という者もいれば、「大坂の町には遊び場が多いし、楽しいことよの」と言う者もいた。
十蔵は酒が好きだった。 鉱山で働く仲間と、山の「飯場」で、酒を飲んだ。 しかし、時には、仲間を誘い、山を降り、久利の町まで出かけ、居酒屋で酒盛りをした。
大坂行きが決まってから十蔵は、なぜか夕刻になると胸騒ぎがする。 自分の胸に手をやって、心の中の声に、耳を傾けてみる。 『会いに行きたい。大坂に行くまでに…』 久利の居酒屋で働いている、酌婦のお芳(およし)の顔がちらつく。
十蔵は、年下の鉱夫たちに声を掛けた。 「久利に、飲みに行かんか?」 「十蔵さん、また、あそこですか?」 「ああ、また、あそこだ」 「よう、飽きませんな」 「飽きんな。で、おまえは行かんのか?」 「いや、行きますよ、行きますよ」
十蔵と4人の仲間は、久利の町に出かけた。 行き先は、居酒屋の「畑中屋」であった。 お目当ての人は、「畑中屋」のお芳である。
お芳がそばにやって来た。 「十蔵さん、大坂に行くんだって?」 (なんで、こいつが、そんなことを知っているんだろう?) が、理由は聞かない。 「ああ」 と答える。
「何で、はよう(早く)、わたしに言うてくれんの?」 「そがに、なかなか、ここへは、来られんかった、から…」 「……」
十蔵は、お芳の顔を見た。 目が潤んでいるように見える。 (俺の目が、おかしいのだろうか?)
お芳は、漁師村(りょうし・むら)の生まれである。 言葉使いは多少荒いが、気はさっぱりしている。それに、目鼻顔立ちが整っていて、かわいい。それで、十蔵は、居酒屋の「畑中屋」に通っているともいえる。 お芳は、前は女郎屋で働いていた。しかし、病に倒れた。働き過ぎかもしれない。それで今は、居酒屋の「畑中屋」で酌婦として働いている。
お芳は、十蔵が石見銀山に入る前、温泉津の港で伝馬船を漕いでいたという話を聞いた。その話を聞いたとき、お芳は、自分の父親が船を巧に漕いでいたことを思い出した。十蔵が店に来るたびに、十蔵が伝馬船を漕いでいる姿が思い起こされ、それが父親の姿と重なっていた。
いつもは、そばになんか寄っては来ないのに…。 不思議なことだ。 呼びもしないのに、お芳のやつが、そばに来て、そして、居座っている。 何となく、気まずい。 で、十蔵は、さしたる話をするでもなく、注がれるままに、盃を重ねていた。 「あれっ、みんなはどこへ行った?」 まわりを見渡すと、一緒にこの店に来たはずの、年下の鉱夫たちの姿が見えないのだ。 「みんな、それぞれに行きたいところがあるんでしょ」 「そうかな?」 「自由にしてあげなさいな」 「……」 十蔵としては、あまり面白くない。 年下の者は、年長者の言うことを聞くものではないか。 それに黙って帰らなくてもいいではないか。 もっとも、みんなで、この店に居座り、この店の売り上げに協力して、お芳に気に入られたい、という気持ちもある。
「何しに行くの?」 気がつくと、お芳が、まだ、そばに居た。 「ああ、大坂の城を穴攻めにするんじゃ」 十蔵は、つっけんどんに言う。 ふたりっきりになるのは、どうも苦手だ。
「そんな、穴攻めなんて、聞いたこともないわ」 「しかし、わしは、じい様から聞いたことがあるぞ。川本にある、小笠原の温湯(ぬくゆ)城を毛利が囲んだとき、毛利が穴攻めをしたそうじゃ」
「大坂なんぞに行って、本当に、大丈夫かしら?」 「わしが槍を持って戦うわけじゃあるまいし。死ぬことなんてはあるまい」
「あたりまえよ。死んだらいやよ」 「うん?」 十蔵は、内心、おかしいなと思い、小首を傾げている。 (お芳は、ひょっとして、わしのこと、好きなんだろうか?。てっきり、わしの片想いとばかり、思っていたのに…)
十蔵は、15歳のとき、兵庫の酒屋に修業に出されたことがある。 それで、大坂城を見たことがある。 とてつもなく、でかい。 濠は、広い湖のようであった。そのような広い濠の底を潜って、本丸の下あたりにまで、穴を掘って進むなど、2年も3年もかかりそうな気がした。が、2年も3年も、お芳に会えないというのは、いかにもつらい。が、十蔵は、強がった。 「なに、すぐ帰って来られるわな」 「無事に帰って来てね」 「あっ、ああ…」 十蔵は、めそめそした女はきらいであった。 が、今夜は、なぜか寂しそうな表情をするお芳に、心が惹かれてしまう…。
十蔵は帰ろうと思った。 そうそう酒ばかりが飲めるものでもない。 飯場に帰って、寝たいという気持ちもある。 それに、俺みたいなやつが、お芳をひとり占めしていいわけがない…。
「大丈夫よね」 お芳の声が耳に入ってくる。 お芳は、ひとつのことばかりに、こだわっているようだ。 身が安全なことは、わかりきったことなのに…。 石見銀山の穴掘りたちは、鉄砲を持って戦うわけではないのだ。 ただ、大坂の城の本丸の下まで、穴を掘っていくだけの話だ。 危険なわけがない。 まぁ、ちょっと大坂まで行って帰ってくるだけの話だ。
十蔵は、胸を張って言った。 「大丈夫だ。きっと無事に帰って来る。そして、この店でまた酒を飲む」 十蔵は、お芳の目を見た。 キラキラしていて、すごくきれいだった。 ドキッと、してしまうじゃないか…。
お芳のやつが、店の外まで見送りに出る。 今までにないことだ。 「そがなことまで、せんでいい、って」 「でも…」 十蔵は、お芳の顔など見ずに、手を振り、畑中屋を後にした。
(お芳のやつ、あんなにかわいい奴だったかな?) 十蔵は、頭を左右に振りながら、帰り道をゆっくり歩いていた…。 (つづく)
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