十蔵に、いつもの山の暮らしが戻っていた。 午九ツ(12時)、中休みになったので、十蔵は穴から出た。 作業場の小屋に戻る。 中には、握り飯とたくあんが用意されていた。 冬場ではあったが、いやに天気がいい。 十蔵は、仲間と、小屋の外に出た。そして、むしろを敷いて座り、握り飯を頬張った。
若い手子(てこ)が、赤い顔をしながら、十蔵の許に走ってくる。 「十蔵、女が来ちょる(来ておるぞ)」 若い手子が振り返り、指を差している。 十蔵は顔を上げ、手子が指差している方向を見た。 誰か、こちらにやって来るようだ。 どうやら、女のようだ。 女が近づいてくる。 顔の輪郭がわかる。 が、十蔵には、その顔に見覚えがない。 手子の思い違いだと思い、たくあんを、むさぼる。
と、十蔵は、化粧の匂いがして、顔を上げた。若い女が目の前に立っていた。 色白で、口には紅をさしていた。
(誰だろう?) 十蔵は、小首を傾げたくなったが、それは止めて、じっと女の顔を見る。
女は恥ずかしそうにしていたが、口を開いた。 「見に来ました」
十蔵は、しきりに思い出そうとしている。 (わしは、こんなきれいなおなごと知り合いだったかな?)
思い出せないまま、十蔵は、女に答えていた。 「何を?」
女ははっきりと答えた。 「溶かした銀を丸く固めるところを、見に来ました」
(おなごが、そんなことに興味を覚えるとは…) 内心驚きながらも、十蔵は聞いてみる。 「何でや?」 「十蔵さんも来いと言われたし、茂三さんもいいと言われたから」
十蔵は、目の前の女が、幼馴染の茂三を、「さん」づけで呼んだことに驚いている。 が、茂三の名が出て、やっと思い出す。 『あっ、温泉津の稲荷町のおなごだ!』 女は、おしろいを塗っている。 前に見たときは、確か、おしろいなど、塗ってはいなかったはずだが…。
それに、よく見ると、女は立派な杖を持っていた。 (やはり、稲荷町のおなごだ。険しい降露坂を越えて来たにちがいない)
十蔵は、けなげな奴だと思った。何とかしてやらなくては、と思った。
「ちょっと、待っとれや。で、おまえ、飯を食わんか?」 「ありがとうございます。でも、わたし、おなかは空いていませんから」
十蔵は、おなごが、以前、京都に居たことを思い出している。 (やはり、自分の言いたいことを、ちゃんと言っておる。大したものだ)
十蔵は、はて、どうしたものか、と、たくわんをほおばりながら、考え込んでいる。 『来てしまったものは、しかたがあるまい。しかし、この女をひとりで吹き屋(銀の精錬所)にやっても、吹き屋の連中は困るだろう』 十蔵は、そこまで考えて、すくっと立ち上がった。 仲間に言う。 「わしは、ちょっと、吹き屋まで行って来る」
「誰ぞな?」 握り飯を食っているみんなが、ニヤニヤ笑っている。 「ああ、わしの知り合いじゃ」 「知り合い?」 「ああ、そうじゃ」 十蔵は、仲間に、そう言い置いて、すたこら、ひとりで歩き出した。
十蔵は、後から、女が付いて来ていると思っている。前を向いて歩きながら、背後の女に言った。 「ひとりで来たのか?」
「ええ」 女の声がした。
十蔵は、女が、後ろをついて来たのを知って、また、言葉を後ろの方に投げかけた。 「しかし、ここまで、遠かっただろう」
「いいえ。もっと先の、三瓶山(さんべさん)の方まで行くこともあるんです」 「何でや?」
「はい、病によく効くという薬草を探しに行きます」 「ふーん、茂三は、そげなこと、よく許すな」 十蔵は、そんなことを言いながらも、薬草に関心を持つなど、本当に変わった女だと、半ば感心しながら思っている。
十蔵は、ふと、熱心に、草の中を捜し回っている女の姿が浮かんだ。そんなに熱心だと、日の暮れるのも忘れるのではあるまいか。 で、念のために、と、女に聞く。 「今日は、そいで、どげする?。宿でも取っておるんか?」
「茂三さんに聞いて来ていますから」 「ああ、そうか」 十蔵は、安心した。 暗い降露坂を登り、そして、西田に向かって夜道を降りるのは男でも難儀だからだ。 (つづく)
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