十蔵たちが、佐摩(=大森)の村に帰って来たのは、年も明けて、1月5日であった。
十蔵は、さっそく、山の親方である光右衛門のところに、帰省の挨拶に行った。 光右衛門は機嫌がよかった。 「よう、無事で帰って来た。まぁ、上がれ、上がれ」 十蔵は、座敷に上げてもらう。
座敷には、もうすでに、酒の用意がしてあった。 光右衛門に酒を注いでもらう。 十蔵も、光右衛門に、酒を注いだ。
光右衛門が言う。 「田村久左衛門から文(手紙)があっての、おまえが、よう、がんばっている、と書いてあったわ」
十蔵は、照れた。 しかし、久左衛門の好意に感謝した。
十蔵がうまい料理をよばれていた時だった。ふと、目の前の光右衛門が言った。 「小浜に帰って来い」
「もう、大森に帰ったことは、おやじには、知らせましたが」 十蔵は答える。
「おまえの無事な姿を見せてやるということが、親孝行というものだ」 光右衛門の目は、笑ってはいなかった。真剣そのものだった。
十蔵は、目を伏せながら言った。 「さぁ、そんなに親というのは、子どものことが心配なもんですかね?」
「馬鹿もん。子のことを心配せぬ親がどこにいる」 十蔵は、(そんなものかな)と思う。(目の前の親方だって、子どものことが心配なのかもしれない)とも思う。実際、親方である光右衛門の息子は、親のやっている山師の仕事が嫌で、家を飛び出し、瀬戸内海のある港町で、船大工をしているという。 十蔵が考え込んでいると、光右衛門が、また、心配気に尋ねて来る。 「ところでなぁ、十蔵。馬方のおやじに聞いた話だが。お前がねんごろにしている(親しく付き合っている)、久利の女が、年の暮れに、湯里の村まで出かけたというぞ。湯里といえば、おまえの故郷の、小浜の近くだ。そこらあたりまで行ったということは、どうも、お前のことを想ってのこととしか考えられぬが…」
「そんな馬鹿なことを」 十蔵はめずらしく親方に、気色ばんだ(いささか怒りを顔に現した)。
(それにしても)と十蔵は思う。(何で、わしとお芳のことを、馬方(=馬追い人)の連中が知っているんだろう?)
光右衛門は、十蔵のことを、まるで身内(親戚)のように心配している。 「十蔵、あまり、女を泣かすようなことはするでないぞ」
十蔵は、反発したい気持ちだ。 (わしは、そんなことはしていない。ただ、あいつの弱いからだのことが気がかりだっただけのことで…)
十蔵は、注がれるままに、盃(さかづき)を重ねていく。 と、十蔵には、お芳が湯里ではなく、もっと西の、小浜をめざしていたような気がしてきた。 (わしのことが心配だったのではあるまいか。そして、わしのことを知るために、わしの生まれた故郷を見に行ったのではあるまいか) 十蔵は、恥ずかしかった。これでは、まるで、お芳に惚れられているようではないか。自惚れのような気もする。が、内心、お芳の気持ちが、うれしい気もする。十蔵は、うれしさを親方の光右衛門に見透かされないよう、黙りこくったまま、酒の盃を飲み干して行った。
十蔵は、親方の家を辞した。 自分が食事をしたり、寝泊りにしている掘っ立て小屋の飯場(はんば)に向かう。 大坂行きは、決して物見遊山ではなかった。 危険の伴う、戦さの手伝いだった。 戦さ場で、懸命に立ち働きをしていた。それで、お芳のことは、あまり考えて来なかったような気がする。それなのに、お芳の方は、おのれの故郷の小浜まで出かけようとしてくれた…。 大坂で、お芳への手土産を買おうとはした。しかし、買えなかった。土産を買うお金はあったのに。ただ、お芳に渡すのが気恥ずかしかった。 お芳に、大坂の、おもしろい話だけでも、してやりたいのだが…。おのれ自身にしてみれば、鉄砲の弾に当たった渡辺備後のような、手柄らしいものは何ひとつ立ててはいない。
久利には、伯父貴がいる。母親の兄貴だ。その伯父貴に会いに行かねばならない。そして、そのついでに、久利の畑中屋のお芳に会いに行かねばならない。
(しかし、わしには、お芳に会いに行かねばならないという理由がない) 十蔵は、眉を顰めた。
(わしは、わし一人が食うことで精一杯だ。お芳を身請けするようなお金は、全くといっていいほどない) 十蔵は胸が痛むのがわかった。
十蔵は、飯場にたどり着いた。 酔っている。すぐに板の間に身を横たえた。 (あいつは、本当に、かわいい。わしの妹みたいな、おなごだった。ただ、あいつの笑顔を見るのがよかった。あいつをどうのこうのするつもりはなかった。いや、あいつをどうのこうのするだけの、器量もお金もわしにはなかった…) 十蔵は眠りについていた。 が、その目から、涙が一筋、流れ落ちていた。 (つづく)
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