加代は、鎮撫使の幹部たちの泊まっている後藤家に向かっている。すでに、覚悟を決めていた。 もし、酌婦の務めをことわれば、藩の面目も立たないであろう。それに、これ以上、松江大橋のたもとでの一件を掘り下げられると、軍之進の身に、何らかの災いが降りかかって行きそうに思えた。 自分が無事に酌婦としての務めを終えれば、軍之進の身の安全も保たれるにちがいないと加代は思った。
ここは、後藤家の表座敷であった。 鎮撫使の幹部たち、10人ばかりが、宴席を張っている。 「けぇっ、松江藩のやつらは、なんという堅物で、融通の効かないやつらがそろっているんだ。こんな面白くも、色気も無い女たちばかりを集めて…」 確かに、これまで、鎮撫使の幹部たちの宴席には、町中から呼んだ、若い娘たちが、酌には来てはいたのだ。しかし、娘たちは、緊張のあまり、身を震わせていた。
松江藩にすれば、いやしくも鎮撫使さまなのだ、賤しい女たちを呼ぶわけにはいかない。 芸妓衆をそろえて、どんちゃん騒ぎでもしていただこうと考えたなら、反って、鎮撫使さまから、『おぬしらは、われらを酔わせて寝込みを襲うつもりか!』と、難癖をつけられはせしないかと、恐れてもいたのだ。 それで、今夜も、くろうとの女衆ではなく、しろうとの娘たちをそろえていた。
「どいつも、こいつも、おもしろくもねぇ面をしやぁーがって」 と、そのとき、襖が開き、ひとり、若い女が入って来た。 「おっ、おおおーっ!」 男たちの、どよめくような声がした。 その女は、加代だった。 「遅くなりました」 「ほっ、ほぉぉぉー、このクソ田舎にも、お前のようなおなごがいたか!」 加代が来たせいなのか、宴席がいつになく、盛り上がっている。
「あれっ、おやめください、おやめくださいまし」 若い娘の悲鳴がして、思わず加代がうしろを振り返った。 一人の幹部が、若い娘の腕を取り、その娘をこの部屋から連れ出そうとしているのだ。 「お許しくださいまし」 娘が泣いている。 「なに、よいではないか、おぬし、鎮撫使さまの伽(とぎ)ができぬと申すか!」 酔っているのか、それとも脅しなのか、その幹部は持っていた太刀を、すらりと抜いた。娘は、ぎょっとして後ずさりする。 そして、その酔漢は前に進むと、膳の前に立ち、膳の上の、鱸(すずき)の刺身の皿をにらんでいた。 白刃をさかさまにする。そして、そのまま、その刃を膳の上の刺身に貫き通した。
「ガチッ」 と音がした。 白刃の先が、皿に当たったらしい。 酔漢が、再び白刃を持ち上げる。 が、何と、その白刃の先には、鱸(すずき)の刺身が貫き刺さっていた。
酔漢は、白刃を立てたまま、娘の前に戻る。 「おい、娘、これをくらってみよ。そうすれば、許してやろうぞ!」 娘の顔の前に突き出された剣の先には、確かに鱸の刺身がふた切れ、突き刺さっている。 娘の顔が、こわばっている。 「さぁ、これを食ってみろ!」 鎮撫使の酔漢が、腕を突き出した。 もう、剣先が、娘の口許に届きそうである。
「お待ちください。わたしが食べてごらんに入れます」 酔漢が振り返る。 そこには、嫣然と笑っている若い女がいた。 加代だった。 加代は、自ら、手をつき、膝をつきながら、白刃の先に、にじり寄っている。 そして、小さな口を開け、剣先に突き刺さった刺身を、頬張った。
「見事、見事!」 上座の中央から声がした。 副総督らしい。 一時、鎮まりかえっていた部屋が、賞賛の拍手の渦で、盛り上がる。
剣先から刺身を食い取られた、長州藩の元藩士の河内山半吾は、呆然と立ち尽くしていた。 内心は、若い女の度胸に驚いていた。 しかし、一方では、女に味方をし、女の度胸を褒め称えた副総督に腹を立てていた。 副総督などと言っても、たかが、薩摩藩の下士階級の出身で、成り上がりものではないかと、河内山半吾は思っている。 河内山半吾は、ふたたび自分の席に戻った。せっかく、ひとりの娘をおのれの部屋に連れ込み、てごめにしてやろうと思っていたのに…。河内山半吾は、乱暴に、冷えた酒をあおっていた。 (つづく)
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