軍之進が、もう帰っていきそうな気配がして、加代は、あわてて呼びかけている。 「軍之進さん、ちょっと、歩かない?」 「えっ?」 軍之進は、狐につままれたような顔している。
「このところ、物騒でしょ。でも、わたし、竪町まで行ってみたいの」 「……」 軍之進は、黙っている。心の内では、加代さんと連れ立って歩くなんて、とても恥ずかしいことだと思っているのだ。
「いやなの?。いやならいいわよ。まだ昼間だし、わたしひとりで大丈夫だわ」 「いや、それは構わないのだが…」 軍之進は、頭の中が真っ白になっている。
加代が、もう歩き始めている。 軍之進は、あわてて、後に付いて行った。 天神町、白潟本町、竪町を通った。 ふたりは並んで歩いているわけではない。
加代のあとを、軍之進が、うなだれながら歩いているのだ。 ふたりは、何もしゃべらない。 「ねぇ、軍之進さん、ここの竪町に昔、わたしのおうちがあったのよ」 「そうなの」 「ねぇ、もう少し、いいでしょ。わたし、床几山(しょうぎさん)に登ってみたいの」 加代の顔が紅潮しているように軍之進には見えた。とてもきれいだなと軍之進は思っている。 しかし、とにもかくにも、加代の申し出に、軍之進は黙って頷くしかなかった。 雑賀の町並みを通り、床几山に向かう。 山といっても、小高い丘のようなものだ。 しかし、ここは、昔、松江城をはじめて築いた堀尾吉晴が、ここに床几を据えて、城を築く場所を決めた、という言い伝えがあるぐらいに、見晴らしのよいところだ。 頂きまで登ると、宍道湖を一望できる。 東側に、宍道湖の中に浮かぶ、嫁ケ島(よめがしま)という小さな島が見えた。 草叢に、ふたりは、腰を下ろした。 「ねぇ、軍之進さん、これからどうなるのかしらね、松江藩は…」 「……」 「鎮撫使の一行は、新政府への恭順の証しを示せ、と言って来ているんでしょ?」 「……」 「軍之進さんは、わたしには、何も言ってくれないのね」 「加代さん、ごめん。俺には仲間がいる。そして親友がいる。俺は、仲間や親友が裏切れないんだ」 「そぉっ!。わたしなんかより、はるかに、恩田さまが大切なのね」 「そういうわけでもないが…」 「わたし、知っているわよ。ご家老さまは、きっとご自分の命を賭けて、鎮撫使さまに、松江藩の安泰をお願いなさるにちがいないわ」 「どうして、君が、そんなことを!」 「わたしにだって、お城の様子ぐらい、わかるわよ」 「ああ、俺は、俺は、どうしていいか……」 「みんなで、米子(よなご)の本営に行き、総督さまにお会いして、ご家老さまの切腹だけはお許しをしてもらえるよう、お願いをしてみたらいいのに…」 「……」 「侍って、頭を下げたり、お金を出したりすることが、そんなにいやなの?」 「加代さん、武士には、武士の意地がある。俺たちは何も鎮撫使一行に逆らってはいない。それに新政府の方針には従うと言っている。それなのに、鎮撫使一行の兵隊たちは城下で狼藉を働き、藩に無理難題を吹っかけて来るんだ。そんな奴らにどうして、われらが頭なんぞを下げられようか…」 「お金を出して、お願いしてみることは叶わないの?」 「松江藩にはたくさんの武士がいる。鎮撫使一行に詫び料を支払えば、その分、藩の武士たちに支払う俸禄の財源がなくなる…」 「でも、その俸禄って、もともとは、みんなお百姓さんたちの年貢なんでしょ。年貢だけを当てにするなんて。それに、命を失くしてしまえば、それで終りよ。でも、お金をなくしても、それは一時的には苦しいでしょうけど、働けばそのうち、またお金は入ってくるようになるわ」 軍之進は黙っていた。 加代の言うことも、もっともなのだ。武士が藩から俸禄をもらえるのは、藩のために何か仕事をしているからだ。そして、藩の仕事をすることで、それがひいては良民の暮らしのためになるからだ。 しかし、おのれのことを考えてみよ。 おのれは、本当に藩のために日々、よき仕事をしているか?。 そして、良民の暮らしが少しでも良くなるようにと願って、日々のお城勤めをしているのか?。 良民から税を搾り取ることだけを考えずに、武士はもっと倹約とか貯蓄とかを考えるべきではなかろうか?。 戦さがなかったら、武士だって、田畑で働くことを考えればいいんじゃないだろうか。鎌倉時代の武士たちは、田地を開墾し、戦さとなれば、いざ鎌倉へ、と駆けつけたものだ。 武士が武士本来の仕事をしなかったら、もう武士はやめればいいのだ。 がしかし、今まで、武士として安穏な暮らしをしてきたのだ。すぐに切り替えるというのは、たやすいことではない。 自分だって、武士をやめれば、何をして食っていけばいいのか、わからない。 やはり、こうなったら、鎮撫使の一行に切りかかっていくしかない。
「加代さん…」 「なに…?」 「俺は、俺は…」 「……」 「俺は、武士であることをやめられないんだ、かんべんしてください」 「……」 軍之進は、目を細め、遠くの宍道湖の湖面を見ていた。 加代は、そばの軍之進の体が震えているのがわかった。もしかして、軍之進さんは死ぬ気になっているのではないかと思った。 そう思うと、加代は自分のからだすら震えてくるのだった。 と、加代は横を見遣った。 軍之進が顔を伏せていた。そして、指先で軍之進が目をぬぐっていた。 軍之進は泣いている。
加代には、何が起こっているのか信じられなかった。 加代は、心の動揺を振り払うように立ち上がっていた。 「わたし、もう帰らなくては。お父さんのお仕事の手伝いもあるし」 加代はそう言いながら、自分の顔が青ざめているのがわかる。 「ああ、そうだったね」 軍之進の優しい声がした。 軍之進は、草叢から、立ち上がる。 宍道湖に夕日が沈もうとしている。 軍之進は、加代の方は見ずに、宍道湖の方をじっと見ていた。 (加代さんには、目の不自由なお父さんがいる。お父さんの面倒を見てあげられるのは加代さんだけなんだ) 軍之進は、心が疼いた。 目の前の宍道湖の景色が、かすんでいくのに気がつく。 『加代さん、俺は名ばかりの武士。ごめんなさい』 軍之進は、胸を反らしていた。沈む夕日の風景に重ねて、軍之進は加代の面影を見ていた。その幻とも言える面影に向かって、軍之進は心の中で詫びていた。
加代は、軍之進の後について、床几山を降りていく。 軍之進は、決して後ろを振り向かなかった。ましてや、加代に手を差し伸べようともしなかった。 (加代さんを幸せにできるのは、俺ではない) 軍之進は、心の中でつぶやいていた。 涙がこぼれそうになる。 胸を反らす。顔を空に持ち上げる。そして歯を食いしばって歩いた。
加代は、先を行く軍之進の肩先を見つめていた。 軍之進の肩や背中からは、すべてのものを拒絶するような気配が感じられた。 加代は、泣きそうになる自分に気づき、顔を落としていた。が、目に涙がにじんでくる。 加代は歩きながら、心の中でつぶやいていた。 『命を大事にしてね。そして、恩田さまの妹さんみたいな武家の娘さんと、幸せな所帯を持ってね』 (つづく)
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