鎮撫使一行の総督は、三位中将の西園寺公望であった。 総督たちは、伯耆の国(鳥取県)の米子城に入っている。 そして、副総督を筆頭に、現在は、一行の先発隊のみが、松江城下に入っているのだった。 先発隊の隊長で、かつ副総督の名は、川路利恭と言った。 これら先発隊の幹部たちは、白潟本町の豪商、後藤九八郎の屋敷に泊まっている。 連日、後藤家においては、酒宴が持たれていた。 しかも、その接待に、町家の娘を酌婦として、借り出していたのだった。
「そこまで、せずともよいではないか」 と、お城の家老である大橋茂右衛門は言ったが、他の家老たちは、 「城代、事は穏便に、穏便にした方がよいのではありますまいか。なにせ、われらは徳川の親藩でござった。関ケ原のいくさでは、徳川家康公に痛い目に合わされた長州藩や薩摩藩にござれば、ここは、ひたすら恭順の意を示すが得策にござる」 と言って、異を唱えた。 鎮撫使への饗応には、家中の勘定方と料理方を持って当たらせている。そして、家老の神谷源五郎が、自ら後藤家に日参し、鎮撫使のご機嫌を損なわぬよう、あれこれと気配りを行っていた。
「ご家老、ちと、物を尋ねる」 元長州藩士の河内山という幹部が、家老の神谷源五郎をつかまえ、上から物を言う。 「何にございましょう?」 家老の神谷はひたすら低姿勢である。
「この界隈に、按摩師の家はないか?」 「さて?」 「何でも、兵士たちの間でのぉ、按摩師の娘で、とびきり、別嬪(べっぴん)の娘がいるという噂が持ち上がっておる」 「はてさて?」 「隠し立てを致すと、ためにならんぞ。何でも、その別嬪(べっぴん)の娘、城下の若侍と、手をつないで松江大橋のたもとを、歩いていたというではないか。もし、そうであれば、この緊迫したご時世に、そのような甘えた所業とやらは許せぬ。この屋敷に、その若侍とやらを、連れてきてもらおうか!」 「いや、しばらく、お待ちくだされ。近くを当たって見ますれば…」 家老の神谷源五郎は、額に汗をして、あわてている。
藩の若い者をこの屋敷に連れてくるなど、とんでもないことだと思う。それでなくても、血気盛んな若いものたちが勝手な寄り合い(会合)をしていて、これから先、何をしでかすか、わかったものではないからだった。
神谷源五郎は、急ぎ、とびきり別嬪だとかいう娘のいる按摩師の家を探させる。すぐにわかった。その按摩師とは、鍼医者(はり・いしゃ)の玄丹であった。何しろ、玄丹には、近所でも評判の器量よしの娘がいたからだった。 神谷源五郎は、さっそく、配下の与力を呼んだ。 「よいか、よくよく言い含めてのぉ。その娘とやらに、酌婦として、後藤家に出向かせるのじゃ」 「はぁっ」 「しかし、困ったものよ、鎮撫使の幹部連中には。こちらとしては、町家の娘を酌婦として借り出してくるにせよ、銭もかかるのだ。それに、こうも毎晩毎晩、『そんな女たちでは気に入らぬ』と言われてもなぁー。人選するにしても、そのような危なげな席についてくれる娘たちの数は、もう底をついてくるというものよ。早よう、京に帰ってくれぬものか…」
神谷源五郎の配下の田島という与力が、鍼医者の玄丹の家にやって来た。 「そなたの娘を、鎮撫使一行幹部の饗応方として、召し出せ、というご家老の仰せじゃ。よいな。今晩、娘を後藤家へ行かせるのじゃ」 「そんな、滅相(めっそう)もないことを!」 玄丹が、眼の不自由な顔を上げる。
「いいか、そのようなわがままを申せば、わが藩に、もっと災難が降りかかって来ることになるのだぞ」 「えっ!」 そばに、加代もいた。 「なぜに、わたしが、鎮撫使様一行の饗応役などを…」 「フン、心当たりがあろう。わしが調べたところ、このあいだ、おぬしらは、松江大橋の南のたもとで、鎮撫使の兵士たちと、揉め事を起こしたそうではないか。おとなしく言うことを聞いておけばよかったものを。それに、その時、酒に酔った藩の若い者が通りかかり、鎮撫使の兵士たちに無礼を働いたそうではないか!」 「えっ!」 加代は、与力のあまりの言いように、言葉を失っていた。 (つづく)
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