鍼医者(はりいしゃ)の玄丹(げんたん)が、家老の大橋茂右衛門に呼ばれていた。 玄丹は、身分は低いが、元は松平藩(=松江藩)の武士であり、かつては錦織半兵衛と名乗っていた。 しかし、目の病に罹り、眼が見えなくなってしまったのだ。これではお城勤めの奉公が叶わぬと、自ら浪人してしまったのだ。そして、玄丹と名を改め、鍼医者となったのだった。 武家としてお城に奉公しているときは、今の家老の大橋茂右衛門には目をかけてもらい、鍼医者の開業のときにも世話になったものだった。
「ご家老さま、ご心労の様子でございますな」 「そなたにも、わかるか」 「はい、わかります。ご家老の肩がいつになく、凝っておりますれば」 「ああ、そうか」 「鎮撫使たちから、無理難題でも?」 「まぁ、そうだ。われらの藩は、なにせ徳川の親藩であったからのぉ。それに、ほんの少し前には、徳川幕府の命令を受けて、長州征伐にも、わが藩は兵を送っておるし」 「ご家老さま、差し支えなければ、お話をお聞かせ願えませぬか」 「ああ、他言無用にのぉ」 「はい、肝に命じまして」 「新政府は、やはり、われらを信用していないのじゃ。いや、ひょっとしたら、いやがらせをしているやもしれぬ。実は、鎮撫使たちが、無理な要求を突きつけておるのじゃ。一つには、松平藩の藩領の半分を朝廷に返上するか、二つには、世子の稚児を人質に差し出すか、三つ目には、重役の一人が切腹をして謝罪するか、四つ目には、鎮撫使一行と一戦を交えるか。これら四つのうちの一つを取れ、という難題じゃ」 「そうでござりましたか…」 そう言いながら、玄丹は、胸に冷たいものが流れ落ちるのを感じていた。 (ひょっとしたら、ご家老様は、切腹を覚悟なされているやもしれぬ)
「しかし、玄丹よ、世の中、なかなかうまく行かぬものよなぁ。もはや、藩としての方針は決まりつつあるのに、若い連中は勝手な動きをするのじゃ」 「……」 「もっとも、なぁ、若い時というのは、そういうものかもしれぬが…」
加代は、父親の帰りを待っていた。 駕篭たちの足音が聞こえる。 父親が、家老屋敷から、駕篭で帰って来たらしい。 加代は玄関を飛び出し、父親を迎えている。
座敷に上がると、父親の玄丹は、ためいき交じりに言った。 「文武修練館の若い連中には、困ったものよな」 「えっ?」 「若い連中の気持ちもわからぬではないが…」 「どうかしたの?」 「確かに、鎮撫使一行の、城下での狼藉には目に余るものがある。しかし、それにしても…」 加代は黙って聞いている。そして、その若い連中の中に、軍之進も入っているのだろうかと考えている。 「加代、これは口外してはならんぞ。どうも、若い連中の中には、不穏な動きを計画している者たちもいるそうな」 「そんな…」 「鎮撫使一行の宿を、若い連中が襲おうとしているらしい…」 「……」 加代は、軍之進のことが気になる。 加代にすれば、軍之進が、そのような勇ましい仲間たちの中に入っていて欲しいような…。いや、そんな仲間に入って、もし命を落とすようなことがあれば…。
「そんなことをすれば、ご家老が切腹なされても、事は済まぬことになる」 「えっ?」 「ご家老は、すでに、ご切腹を覚悟なされているようじゃ。決して口にはされぬが、わしにはわかる。ああ、わしに眼が見えれば、老体に鞭打ってでも、何とか、ご家老のお命を救わんものを!」 「えっ、ご家老さまが……」 加代は、驚きの声を上げた。 (まさか、あのご家老さまが、ご自分の命を犠牲にしても、お城のお殿様を救おうとなされておられるのかしら…)
大橋のご家老のことを加代はよく知っていた。 父にも、母にも、よくしてくれた、という思い出がある。 目を悪くし、武士としてお城づとめができなくなり、気落ちしていた父を励まし、銭を用立て、鍼医者としての修業をさせてくれたのも、大橋のご家老さまだったのだ。
(ああ、何とかならないものかしら) 加代は、ため息まじりに考える。
藩のお殿様を守るため、若い藩士たちにがんばってもらいたかった。そして、さらに、ご家老に腹を切らせぬよう、武士としての面目を果たしてもらいたいものだとも思う。 しかし、その一方で、加代は、軍之進を失いたくなかった。
あれから、もう、何年経ったのだろう、軍之進と知り合ってから…。
加代が15歳の頃だった。 加代の目の前で、大橋川の御手船場の岸で、子どもが川に落ちたのだ。加代は、小さい頃から、おんなだてらにも袖師ケ浦に行って泳いでいた。泳ぎには自信があった。 その子は、手をバタバタさせているが、川の中ほどへと、どんどん流されていく。 (いけない、おぼれてしまう!) 加代はすばやく帯びを解き、着物を脱いで川に飛び込んでいた。 しかし、近づいてみると、その子が水の中で、手足を盛んに振り、あばれまわるのだった。男の子の手が、強く加代の鼻柱を打った。頭が朦朧として、からだが川の中に沈んで行く。 と、誰かが、水の中から、からだを引き上げてくれたような気がした。
「君は早く岸辺に。わたしが、この子を!」 加代は、凛々しい顔の男を見た。落ち着いた顔。 (藩のさむらい?)。 その若侍は、少しばかり水に潜って、おぼれている男の子を、水の表面に持ち上げたらしい。 男の子のからだを仰向けにして、足を伸ばさせ、水の上に浮かす。そして、その若侍は、男の子の頭の後ろに回り、腋に手を入れながら、その子を引きずり、岸に向かって抜き手を切りはじめていた。 加代も、我に返っていた。抜き手を切って、岸辺に向かう。 先を行く若侍が、振り返りながら問う。 「大丈夫か?」 やっと、小石の多い浅瀬にたどりついたような。 そのとき、加代に手が差し伸べられた。 「君、大丈夫か!」 「それより、男の子は?」 「あっ、そうだ!」 若侍は、背を向け、あわてて砂場に戻り、寝そべっている男の子の胸に耳を当てていた。 そして、男の子をうつ伏せにし、男の子の背にまたがり、背中を両の手で押している。 加代もそばに寄って見る。顔を横に向けた男の子の口から、水が漏れ出した。 「よかったわ、これで、だいじょうぶよね」 加代がうれしそうに、若侍の顔を見上げる。
しかし、その若侍、目を、しっかりと瞑っているではないか。何か、無理矢理、そうしているような…。
「うん?」 加代は、ふと自分の胸元を見た。 なんと、肌襦袢(はだじゅばん)が脱げかかっているではないか。乳房の上まであらわになっている。加代はあわてて、肌襦袢を肩にまで引き上げる。 加代はあたりをきょろきょろと見渡す、あった。飛び込む前に脱いだ、自分の着物と帯が目に入ったのだ。 加代が、離れたところで、身づくろいをして、元の場所に戻ってきた。 おぼれた男の子と、若侍が何か話しをしていた。 「あらっ、もう、元気になったの?」 「はい、おかげで、この子のおうちもわかりました。わたしが、この子をうちまで送っていきます。ありがとう、この子を助けてくれて」 「いいえ、そんな…」 「それじゃ、わたしは、これで」 加代が、『あっ』と言うひまもない。 若侍は、男の子を背中におんぶして、足早に立ち去っていってしまった…。 それから、加代は、おぼれた男の子の家の者から、若侍が、藩の文武修道館に通っている、ということを聞いた。 加代は、何かのついでに、文武修道館の近くまで来ると、そこの周りを何度か行き来するようになっていた。 が、ある日、ばったりと、その若侍に逢ってしまったのだ。 「あらっ!」 「ああ、君は、あのときの。その節は、ありがとう」 加代は、あの時のことを覚えてくれていたことがうれしかった。いや、何よりも、若侍の笑顔がよくて、おもわず顔を伏せていた。
「あのときは、本当にごくろうさんだったね。でも、君って、勇気があるんだね」 優しい声音に、加代は耳たぶまで真っ赤にしていた…。 「じゃ、また」 若侍の声がしたような。加代が目を上げると、もう、その若侍は、五歩も七歩も先を歩いていた。 それからも、加代は、時々、修道館の剣武道場を覗いていた。 目当ての若侍はすぐにわかった。 ほの暗い道場の中だが、その若侍は、白面で、整った顔立ちをしていた。 竹刀を構えている、背筋のピンと伸びた姿が、好ましく、相手から面や小手を取る、すばやい竹刀さばきに、加代は胸が締め付けられた。 やがて、加代は、その若侍の名前が石川軍之進であることを知り、また、内中原町にある、不伝流居合術道場では、腕の立つ若侍として、評判を取っていることまで耳にすることができたのだった…。
加代は、昔の思い出から、我に返っていた。 しかし、今、恋しい軍之進が、若者の中に加わり、鎮撫師一行の宿舎を襲うと思うと、いてもたってもおられないような気持ちになった。 剣の腕前だけではどうにもならないと思う。 相手の兵、何人にも取り囲まれ、切りかかられたら…。 官軍だもの、鉄砲だって、たくさん持っているに違いない。 そんなことを思うと、加代の目から熱いものが流れ出るのだった。 (つづく)
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