大橋茂右衛門の言葉が、軍之進の頭の中を駆け巡っていた。 『武士の時代は終わったのだ。これからは四民平等の時代にしていかねばならぬ』
しかし、石川軍之進は頭を抱えていた。 (武士を辞めて、俺は、何をして、食っていけばいいのだろうか?)
さっきまで、殿町の城下の宿で、若い者たちだけの寄り合い(会合)があった。 連日、話し合いが持たれてはいるが、議論は堂々巡りであった。
脱藩をし、藩に迷惑をかけない措置をして、鎮撫使の先発隊一行の宿泊所に、闇討ちをかけようという話が出る。しかし、上士の若侍の中には、その話に乗ってこない者たちがいるのだ。
軍之進は、今度の寄り合いでも、黙っていた。 家老の大橋茂右衛門に話を聞いたが、だんだん、悩みが深まっていくばかりであった。
確かに、脱藩した有志のみで、先発隊の闇討ちをすれば、藩には迷惑がかからぬかもしれぬ。 しかし、今度は、今、伯耆(鳥取県)の米子(よなご)の町まで来ている、本隊の鎮撫総督軍の方が、黙ってはいないであろう。
おそらく、そうなれば、戦端の火蓋が切られることになろう。 その時、城下を避けて、戦さができるのだろうか。 いくさ場は安来の飯梨川沿いか。時は2月の半ば、麦の穂はつぶすことになるかもしれない。 軍之進は、寄り合い(会合)が終わり、夕闇が迫りつつある、大橋川に掛かった松江大橋を渡っていた。 松江大橋を渡り切り、南詰めまでやってきた。 と、なにやら、騒ぎがおこっているようである。人だかりがしているのだ。 軍之進は思わず近寄り、人を掻き分けている。 と、目の前に、加代がいた。 加代のそばには、老いた按摩師のような人がいた。しかし、その人が、加代の父親のような気が軍之進にはした。 よく見ると、2人の兵士がいた。長い太刀を差している。 黒ワシャの着物に、切り下げ髪をした兵士だ。鎮撫使の兵士にちがいない。 若侍たちの寄り合いで、昨夜、城下に現われた鎮撫使先発隊の一員が、通行中の婦女に乱暴を働いていたと、聞いたばかりであった。
軍之進は、一歩足を前に踏み出そうとしたが、思い止まっていた。
迷っている。 うかつにここを飛び出せぬ、と思うのだ。
鎮撫使の一行を闇討ちするという決起の前なのだ。慎重な行動をしなくてはと、軍之進は、じっと我慢し、息を止めていた。
「鎮撫使さまのご用とは、何にござりましょうや?」 老人が、問うている。 軍之進は、あせりを覚えていた。 早く助けなくてはと思いつつも、こんな騒ぎに巻き込まれてはならぬ、と心の中で葛藤しているのだ。
「わかっておるではないか、それ、その娘をこっちにあずかろうと言っておるではないか」 「どうなさるおつもりにござりましょうや」
「ふん、わかっておるではないか、おなごの役とは、ひとつしかあるまい」 「てまえの娘は、そのようなおなごではござりませぬ」 老人の目が不自由なことを幸いに、ラシャ服の兵士が、娘の二の腕を掴もうとしている。
「何をなさいます!」 加代の声がした。 その時、軍之進は、思わず、足を前に進み出していた。
「ここは、松江城下にございます。乱暴なことはお止めいただきたい」 軍之進は、おのれの自制心を働かせるよりも前に、すでに、言葉を発していた。
「なにッ!。貴様は、何者だ。わしらは、錦の御旗を背負っておるのだぞ。錦の御旗に逆らう気か!」 「いや。しかし、錦の御旗は、朝廷の証し。朝廷にお仕えなさる兵士には、それなりの正しきお振る舞いがあって然るべき、と申し上げているだけ…」 「生意気な!」
「あっ、軍之進さま…」 軍之進の耳には、加代の声が聞こえたような…。 しかし、目の前の兵士ふたりが、太刀を抜いたのだ。 身が固くなる。
「後ろに下がっていてください」 軍之進は、ちらっと横を見ながら、それとなく加代に告げている。 自分は死に場所を探している、ここで命を落としたとて、どうということはない。 軍之進は、加代たちが危なくないよう、加代たちを背後にかばうようにしながら、歩を前に進める。と、兵士たちは後ずさりをした。その腰の引け具合を見ながら、軍之進は、これなら勝てる、と思った。
スラリと剣を抜く。意外に、心は落ち着いて、さっきまで、頭に血がのぼっていたが、今は、その血気も、おなかの下にまで、下がりつつあるのを感じた。
峰打ちでよいと思い、刀身をさかさまにした。 正眼に構える。相手を見据える。どうも相手は酒が入っているようだ。相手に構えもなにもない。腰も据わっていないのだ。いや、肩に力が入りすぎている。これでは、思うように刀は振れないではないか。相手は、寄せ集めの兵なのか?。
(いやいや、油断はならぬ) 向こうが打ちかかってきたら、小手を打ち、と同時に上腕部を打って、痺れさせてやろう、と軍之進は思った。 と、相手は、予測に反して、太刀を突いてきた。軍之進は体を開いて、相手の首筋を刀の背の部分で叩く。相手が背中を見せたところで、相手の肩口にも一撃を加えてやった。 もう一人の兵士は、すでに逃げ腰であった。 スーッとつま先だって、前に進み、腕を思い切り伸ばして兵士の鼻面に、剣先を突きつける。肝を据えて、軍之進は言った。 「さぁっ、もう一人を連れて、引き上げるのだ!」
騒ぎを大きくすれば、まずい。殺傷は避けたかった。軍之進は、相手をにらみつけた。 「おおっ、おのれ、おぼえておれっ!」 口調が激しいわりには、相手の兵士の目は泳いでいる。これなら、もう、相手は立ち向かっては来ないだろう。 兵士は太刀を納めていた。 そして、肩口を手で押さえながら、跪いている、もう一人の兵士を抱きかかえるように立たせ、肩を貸してやりながら、ともに、大橋に向かって歩いて行く。 2人の兵士の、大橋の橋板を踏む足音がした。
軍之進が横を見る、加代がいた。 「さぁ、加代さん、おうちまで送ります」 軍之進は、老人の前に立つと一礼をし、くるりと背を向けると、腰を下ろした。 「さぁ、わたしの背に、お乗りください」 「いや、わしゃ、おぶさらんでも、歩いて帰れる」 「おじさん、ぐずぐずしていたら、やつら、また、仲間を連れて引き返してくるかもしれませんから」
「お父さん、今は、お言葉に甘えて」 そばの加代が促している。 やはり老人は、加代の父親だったらしい。 軍之進は、老人を背中に乗せた。そして、駆けた。 加代の家の前まで、一度、行ったことがあるのだ。 「加代さん、大丈夫ですか」 「はい」 軍之進は、大橋川の川沿いの、和多見通りへ出る小道へ向かって走る。 墓場の塔婆と寺の屋根が見える。三人は寺町の裏通りを駆けている。 売布神社の前までやってきた。 「ここまで、来れば大丈夫でしょう」 軍之進は、立ち止まり、腰を落とし、老人を背中から降ろした。 そして、さらに南の方角に向けて歩いていく。 軍之進は、加代たちを助けたものの、『これでよかったのだろうか?』と、しきりに考え事をしていた。 いつのまにか、加代の家のそばにまで来ていた。 「加代さん、俺は、これで」 軍之進はおじぎをした。
「どうも、ありがとう」 「いや」 「気をつけて帰ってね!」 「ああ、加代さんも。それじゃ」 軍之進は、くるりと背を向けた。 加代は、ずっと軍之進の後ろ姿を見送っていた。 うちの中に入る。
加代は、父親の玄丹にお茶を入れていた。 「加代、あの若侍を知っておるのか?」 「ええ、ほんの、ちょっとだけ…」 加代の頬が赤く染まっている。 「そうか、そうなのか。すまぬなぁ。わしが眼を患い、錦織の家をつぶしたばかりに…」 「何、馬鹿なことを、言っているの、お父さん。わたし、あの人とは、そんな…」 「しかし、あの若侍、一本、筋が通っておる。なかなかしっかりした、いい若者ではないか」 「……」 加代はうなだれている。 (軍之進さんには、武家の娘さんが似合っているのに。お父さんの馬鹿、馬鹿!) (つづく)
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